稲妻2 | ナノ


「父さん、ヒロトがおかしいんだよ」
「そうなのですか?」
「えぇと、あの、大丈夫だから」
僅かに懐かしささえ感じる父さんの優しい声に、一瞬呼吸さえ忘れた。だがすぐに父さんに駆け寄る彼の言葉に焦り、父さんの不思議そうな視線に更に挙動がおかしくなる。やがて口が回らない俺を見て父さんはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫です。何も怖い物などありませんよ、ヒロト」
ゆっくりと背中をさすられるように耳に届いた父さんの声色は、昔の父さんを彷彿とさせた。安心する暖かさを孕むその一方、俺にとって少し胸を刺すものでもある。さっきと一変して黙り込む俺に、父さんはあの声で優しく促した。

「家に帰って安心したのでしょう。ゆっくり休みなさい」
「えー、ヒロト俺とサッカーするって約束したのに!」
「兄さん、ヒロトも疲れているでしょ」
「あ…大丈夫だよ。やろう、サッカー」
父さんと姉さんはそう言ったが、来る時に話していた勝負をしたいらしい彼の頼みに乗る事にした。ボールを蹴っていれば、少しは冷静になれるかもしれない。


「天空落とし!」
彼の蹴ったボールはまるで宇宙そのもののような凄まじい威力を持っていた。初めて見た彼の技は、俺の持つ技より遥かに強力で思わず動けなくなる。
「もー、ヒロトも打って来いよー!」
簡易的なゴールの前で彼は抗議の声を上げる。そうは言っても、彼からボールを奪う事自体が難しいのだ。
俺のボールから勝負は再開され、ゴールを目指し走る。ようやく彼を抜いた所でシュートアングルを取った。
「流星ブレード!」
尾を引く星は真っ直ぐにゴールに突き刺さる。一連の流れに息が上がるが、背後からの声は全く疲れなど感じさせなかった。
「流石ヒロト、また技に磨きがかかってる!」
「…ありがとう」
「天空落としを習得するために特訓したらこの技ができたんだっけ。もうできそうだけど」
彼の発言からすると、彼の知る俺はそんないきさつでこの技を習得したらしい。確かにこんな強力な技を使えたら良いなと少し思った。

そんなミニゲームがしばらく続き、空が宵に沈み始めた頃、姉さんの声に呼ばれて夕食の席についた。すっかり馴染んでしまったと心中で自分に苦笑いをする。本来の目的は稲妻町に行く事なのに、この不思議な感覚に浸るのも心地好く感じ始めていた。
結局何も言い出せず、言われるまま風呂に連行され、気付けば日付が変わる手前ほどになっていた。後ろめたさを感じながらベッド脇のスタンドライトのみを残し、部屋の明かりを消して数分、控え目なノックが聞こえた。

「ヒロト、一緒に寝て良い?」
予想通り、ドアの向こうにいたのは彼だった。俺の座るベッドまで歩き、同じようにぽすんと腰を下ろす。断る理由は特になかった。
誰かと同じ布団に入るなんていつ以来だろうか。スタンドの明かりも消し、部屋を月の光だけが満たす。不思議な、でも懐かしいような感覚だった。
「ヒロト知ってる?今日は流星群なんだって」
「そうなんだ」
「ヒロトは何てお願いする?」
向かい合った彼の目が俺を真っ直ぐ見る。
願い事。その言葉を聞いて今までいた場所を思い出した。ここに、こんなに居て良いのだろうか。

「俺は…」
「うん」
「よく、分からないや。何がしたいのか、何が欲しいのか。…兄さんは?」
「俺?」
僅かに身を縮こまらせ彼に尋ねると、その瞳は優しく細められた。
「俺は、ヒロトが次の試合で勝てますようにって。頑張ってるヒロトが精一杯やれますようにって。父さんも瞳子もきっとそう思ってる」
彼はそう言って俺の胸に額を埋めた。優しさに飲まれるように、俺の中の感情の波が音を立てて心を揺さぶる。
「でも、父さんは俺じゃなくて君しか見てないんだよ。同じ世界にヒロトは二人もいらないよ」
「どうして?一緒に居ちゃいけないの?俺とヒロトは別の人間だよ。ヒロトもちゃんと大切な、父さんの息子だよ」
「そう、なのかな」
「うん、絶対」

彼の腕が背中をゆるりと回る。きっと、最初から答えは決まっていたんだと思う。何度も夢見た俺の欲しかった世界、でもそれは夢だ。
「それでも俺、行かなくちゃ」
「…そっか」
「ごめんね、楽しかった」
「良いよ。今度またヒロトが辛くなった時いつでも戻って来られるように、皆で待ってるから」
彼が瞳を閉じて呟く。頭一つ分下にある確かな体温を抱きしめながら俺も瞼を閉じた。真っ暗になっても尚、光を抱いた様に暖かかった。

「うん。…おやすみ、ヒロト兄さん」
「おやすみ、ヒロト」



『…次は北東京駅。お出口は――』
無機質なアナウンスで目を開いた。車両に乗っているのは俺を含めて数人程度。辺りは真昼の光で満ちていて、窓越しに都会の町並みが並ぶ。
「夢……」
自分にしか聞こえない声で呟いた。携帯を見ると確かに元の日付だ。ちゃんと電波も三本立っている。
夢、だったのかもしれない。やけにリアルな夢だった。感覚も全て残っている。なのにそれが夢だとは信じたくなかった。目覚めて思い出したのだ。今日は、彼の命日だという事を。
だからかもしれない。彼が自分の願いを俺に委ねたのは。今日雷門中に行くのは呼ばれたからだ。もうすぐ少年サッカーの世界大会が始まるのは誰もが知っている。サッカーが大好きだった彼なら、知っていてもおかしくないかもしれない。だから俺も願う。ちゃんと届くように、と。

電車を降り、肩にかけたバッグの紐を確かめるように握った。新しい空気を吸って前を向く。
きっと、全てはここからだ。