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血が降ってくる。
上を見上げても天井は見えなくて、ただ黒色の空間が広がるばかり。
そんな闇の空から、まるで小雨が降るように、人間の血が落ちてくる。
その雨が、呆然と見上げる彼女の顔を濡らすことはなく、途中で黄金へと変わり、舞い散っていた。
昏(くら)く美しい世界。
僕はこの光景に魅せられて、悠久の年月を存した自分の世界を捨て、たった一人の貴女についていったんですよ。
それは、僕の魔としての本能がそうさせたのか……。
ただ、ひとつ確かなことは。
神仏の存在にも例えられるこの僕が、人間(ひと)の貴女を、かけがえが無いと思ってしまったことでした。
声が聞こえる。私の精神世界に長年棲み続けていた悪魔の声が。
これは、残滓。
ゼロの、ほんの少しだけ残った、最後のかけらだ。
ゆらりと、おぼろげな幻のようなゼロの姿が現れる。
彼は私の、短く切り落とした髪を見て、眉を下げた。
『無茶をしましたね』
「ゼロ……」
すっと私の髪に触れようとするけれど、その手は触れることなく、おろされる。
『これが、最後です』
なにが、とは訊かない。
ゼロが宙に手を切れば、血の雨や黄金の粒は、一瞬にして霧散した。まるで、風に舞い上がる桜の花びらのように。
私はそれを、どこか夢見心地に眺める。
『貴女から、黄金の血の呪いを取り去りました』
同時に、希薄になっていくゼロの気配。
『力を使いすぎたようです……』
この世界で、ゼロにとって力の枯渇とは、滅びにつながる。
完全な、死を、迎えるのだ。
『……すこし、眠ることにします』
「ゼロ、」
ただ真っ暗な空間で、私とゼロだけが残る。いや、そのゼロももうすぐ……
「わたしに、生をくれて、……ありがとう」
例え彼の何もかもが消滅するのだとしても、言わなくちゃ。わたしは。
「もう、簡単に死のうなんて、思わないよ。君が何もかもを懸けて、私に遺すものだから」
『……、香耶さん』
足掻いて足掻いて。たった独りぼっちになったって。
忘れないよ。
君の決意を。その想いを。
そっと、ゼロの頬に手を添える。まるで霧に触れるように、手に伝わるはずの感触は無い。
顔が歪む。笑いたいのに。私に柔らかく微笑むゼロを、笑顔で見送りたいのに。
はらりと、私の頬を伝って落ちる雫を、ゼロは手ですくう。
その涙は、小さく輝く光となって、その手におさまった。
『僕はこれで充分……、幸せです』
「ゼロ……、」
君が幸せになれるというなら、涙くらいいくらでも流してあげたのに。
そう言うと、安売りしては駄目ですと、貴重なものだからありがたみがあるのだと、ゼロは笑った。
私も、笑った。
その笑顔を見て、ゼロは満足したように微笑んで。
『では』
そう、短く残して、やっぱり霧のように消えたのだ。
「ゼロ」
これが、悪魔の滅びか。
「……ゼロ」
あまりにあっけない。
「おやすみ……」
……ありがとう。君にもう伝わらないとわかっていても。言わずにはいられないよ。
隠れ家にいた私がその夢から覚めたとき、狂い桜の花びらが、私の周りを舞っていた。
この近くに桜の木なんて無いはずだから。きっとあの夢は、ただの私の願望なんかじゃない、と……。
私は涙をこぼしながら、その花びらを丁寧に集めた。
この瞬間から、私の身のうちにあった、血が黄金になる呪いは完全に消えうせる。
私は敬助君と同じ、不老不死の羅刹となったのだ。
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