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月神香耶side
人気の途絶えた油小路通りを、肩で息する千鶴ちゃんに気を使いながら走っていると。
「待ちなよ」
呼び止める人の……いや、鬼の気配。
「──薫……」
複雑な面持ちで千鶴ちゃんは呟いた。
そう。私たちを呼び止めたのは、薫君で。
まるで幽鬼のように、彼の着込んだ黒の外套が闇に浮かび上がる。
今日は男の格好だ。以前私が拉致られた時以来の。
そんな薫君は、私と千鶴ちゃんの繋がれた手を見て、むっとした顔をする。
その表情は、彼の幼い頃に面差しが重なって。
私はなんだか嬉しくなった。
「おいで、薫君」
千鶴ちゃんがいぶかしげな視線をよこすけど、私は空いてるほうの手を薫君に伸ばした。
それに吸い寄せられるように薫君も近づいてくる。
その髪に、頬にそっと触れると、ぶすくれた表情も和らいで、私の目をまっすぐ見つめる。
彼の手が逡巡するように懐に向かう。
が、……それより先に私が薫君の肩を抱き寄せた。
「薫君」
耳元でささやくように呼びかければ、薫君の肩が震える。
「……おれ、は…千鶴を……」
「……薫くん」
千鶴ちゃんが憎い?
何にも知らず安穏と過ごしてきた君の半身が。
君がどんな目に遭って、どんな気持ちでここまで来たか、なんて、私には知る由も無いけど。
けれど。
「よく、がんばったね」
「っ」
「つらかった、ね」
抱きしめる腕に力をこめれば、薫君は震えながら私にすがりついた。
「君は、私の誇りだよ」
「香耶……っ」
彼の表情は私からは見えなかったけれど、千鶴ちゃんには見えていて。繋がれた手にも力がこもるのを感じた。
しばらくの間そうして温もりを分かちあって。
「………香耶、さん」
さまよっていた彼の手は、今度はしっかり懐へ。
紅い水の入った小瓶を、私にも、千鶴ちゃんにも見えるように掲げ持った。
「それは……っ!?」
顔を青くする千鶴ちゃんを無視し、薫君は薄く嗤って私を見る。
「香耶さん…俺のために死ねる?」
その、変若水で?
私もまた、うっそりと笑って。強い瞳で彼を見返した。
「……わたしは死なない。死んでたまるか」
その言葉を聞いたとたん、薫君は目を丸くした。
“私は死なない。死んでたまるかっ”
「だって」
彼の、変若水をもつ手に、私の手を添えて。
「……約束した」
歯でそのビンの蓋を取る。
「君に」
君に、会うまで。
君に生きると。
そう、約束した。
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