いとしのザッハトルテ



彼は穏やかに笑みを湛えた。組んでいた足を組み替えて、いつもと変わらない様子で先ほどまでのことはまるで、そう……無かったことのように振舞うから。まるで最初から、何事も無かったように。私としては気まずかったからそれはそれでいいけど。「名前?」嫌味のない優しい、声が鼓膜を震わせてそう脳に伝える。逸らしていた、視線を彼の口元に向けた。どんな顔をしてれば適切なのか、わからずにいた。まさか、友人の告白現場を目撃するとはおもわなんだ。「さっきのこと気にしているのか?」窓から入る風が風丸君の髪の毛を煽って、シャンプーの匂いを運ぶ。雲間から差し込んだ、太陽の日差し。カーテンがゆらゆらとはためいて、鮮やかな光と影のコントラスを描く。「……うん。覗こうとかそういう気はまったくなかったんだ。たまたま、通りがかっただけで……」



人気の無い、ところをふらっと冒険がてら歩き回っていた私にも非があるからこそ余計に罪悪感とやらが襲い掛かって猛威を振るうのだ。雷門は大きな学校だから、一度もいったことのないような場所もある。だから、好奇心旺盛な私は……探索せずにはいられなかった。こう、血がざわざわと騒ぐのだ。冒険好きの血が。純粋な興味は、そしてそれを見つけてしまった。そして、これまたお約束、案の定見つかってしまった。「別に気にしなくて良いんだぞ」「……いや、ごめんなさい。女の子にも悪いことしちゃったね」逃げていった、女の子は随分と素敵な子だった。同性の私から見ても素直にそう思える子だった。そんな、素敵な子からも思いを寄せられる風丸君はきっと素敵な人なんだろうな。と思った。私は、そういう色恋沙汰には疎いからよくわからないけれど。



相手にもしてもらえないんだろうな。女としてよりは、友達なんだ。関係には満足している。彼のような素敵な友達がいれば、自慢にもなるし何より風丸君と過ごす時はとても楽しい。果たして、彼もまた、同じことを考えてくれているのかはわからないが。彼は優しいから、きっと楽しくなくても笑顔で対応してくれる。そう、営業スマイル。「素敵な子だったから……なんか、邪魔したのが申し訳なくて。追いかけなくていいの?」項垂れて先ほどの子のことを思い浮かべた。目に涙をためていたのを思い出した。よくわからないけれど、恋というのは人を惑わすものなのだろうか。私にはわからない、人を好きになるという感情を理解できなかった。この年になって恋の一つや二つするべきだ、という意見も耳にはするものの、何せ彼のような素敵な友達がいるせいか感覚が麻痺していて、痺れてしまっていて、脳髄まで可笑しくなって、彼以外の人間が魅力的に映ることそのものが難しくなってしまったのだ。難易度とハードルをあげてしまったのだ。「ああ……答えはもういってあるから、いいんだ。断ったんだ」


「へぇ……って、え……?」相槌をいつもの癖で打ったがすぐに、意識せずに言葉が漏れた。なんだか、信じられなかった。美男美女でお似合いだと思ったから。というのもあったし、風丸君はいい人だからきっとそんな傷つけるような言葉は出てこないと思っていたからだ。……あ、目に涙をためていたのは振られたから……?多分、私の予想は当たっているだろう。うわちゃー……本当に本当に絶妙の最悪のタイミングで登場してしまったんだな、私は。バットタイミングとしかいいようがない。恨まれても文句は言えないかもしれない。恨まれたくないけど。「何、驚いているんだ。俺だって、好きな子がいるから断ったんだ」「あー、そっか……。好きな子かあ、じゃぁ仕方ないね……」風丸君に好きな子、か、それは初耳だ。驚いている私に対して風丸君が困ったように笑った。その表情の真意をつかめずに、私が首を捻る。「……名前が好きだから、断ったんだ」「ちょ!……悪い冗談はやめてよ」最高に心臓に悪い冗談だ。心臓は大事な臓器の一つだから負担をかけちゃいけないんだよ。私のハートがデリケートだとは口が裂けても言わないけどさ。実際デリケートとは程遠いし。寧ろデリケートって言うか、バリケード。しかし……風丸君はそういうこという人じゃないって思っていたのに。イメージが変わった。



ほんのりと染まった、薄桃色に私は戸惑う。もしもだよ、もしも仮に本気だったとしてもさっきの女の子のこともあって、ちゃんと受け止められない。本当につい、さっきだったんだよ。気持ちの切り替えなんてそんな早くできないよ。視線をくるくる泳がせていた。
ほら、きっと私は夢を見ているんだそう。白昼夢。綺麗でまるで現実味を帯びないそれらに私は惑わされているんだ。精巧に出来ているなあ、随分と。ほら、風丸君そっくり。「本気だ。他の女子にいくら好きだと言われても、名前に好きだって言ってもらえないのなら俺にとっては意味が無い」頬に触れたひんやりとした冷たい手に、震えて身を引いた。現実逃避をやめた。触覚まで果たして騙せるわけがない、と。ああ……知らない、知らない知らない。こんな表情をした風丸君なんてしらない。一度だってこんな顔をしたこともなければ、こんなことをされたこともない。何故、こんなことをするんだろう。だって、私は友人であってそんな対象じゃないはず。惑溺しきった思考回路に、全ては追いつけない。


友人の顔をした、男の子は私にゆっくりと優しいキスを降らせてまた、愛の言葉を囁いた。


title 箱庭

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