アンビヴァレンス



流血表現有り。苗字を偽名にして、名前を名前にすると読めるかも。



バダップ、彼は私の親の仇であった。軍人である彼を初めて目の前にした時に背筋が凍るような全身に突き刺さる敵意や、殺意に似た圧力を感じたのを覚えている。圧倒的な力の差だった。私はこの時点で、自分の中のプランを若干変更する羽目になったのだ。(最初はさっさと片を付けてやるつもりだった。だけど、真正面からやっても彼は勝てないとわかった、恐らく私の事も信用などしていないと)それから、此処までの仲に発展するまでには本当、長い時間を要したと思う。まずは、彼の心に取り入るために毎日毎日、冷たい言葉にも態度にもめげずに健気な女を演じて微笑みを絶やさなかった。彼の要望にもなるべく応えて見せた。使えないと思われたらそれまでだと確信していた。だから、弱い部分は必死で補った。



……彼には色仕掛けは通用しないと思った。冷血な男で、人の死を何とも思わない男だったから。元々自分の体にも顔にも極端に自信は無かった。だけど、若しも乗ってくれるのならばこれほど楽な道はないと思った。いつも護身用の武器を肌身離さず持っていたから。全て脱ぎ捨てて丸腰で居てくれれば難易度は間違いなく格段に下がる。勿論、体術も彼は心得ているだろうから首を掻っ切るか何かしなければならなかったが。それでも、彼の警戒を解き、信用を得る必要はあった。そして、手に入れた。「お前は、俺の事をどう思う」「は、」二言目には何も話さなかったが、若干頬に熱が集まっていることに気が付いた。彼も冷酷な軍人とはいえども、男だった。「尊敬しております」反吐が出そうだ、だけど、好都合だと口元を引き締めながら恐らく求めていないであろう答えを敢えて、与えた。「……、そうか」やはり抑揚のない声で呟いた。「俺は、お前の事を」他の誰よりも好きだ。ハイライトの入っていない瞳を、向けて私にはっきりと告げた。有無を言わさない力強さは健在だった。



直ぐに作戦を実行することが出来なかった。元々警戒心の強い彼の一番、警戒しない出来ない時間を探り始めた。一番手っ取り早いのは、やはり寝ている時に殺してしまう方法。他にも色々思いついたけれど、これが一番だと思った。……だが、警戒心の強い彼の部屋に侵入するのは難題だった。恐らくバダップは、部屋に入るときの足音や気配で簡単に私を殺すことができるだろう。……つまり、最初から部屋に居ればいい。そして、嬉しいことに私はバダップの部屋に居ても怪しまれない地位を持っている。だが、頭が固いらしい彼は中々手を出してこない。……キスもしてこない。「……畜生」作戦がどんどん遅れていくことに焦りを覚えた。それから、恋人らしい言葉や温かさを与えられれば段々とこの男が、私の家族を殺した本人じゃないのではないかとかそういう生易しいことを考えてしまうのだ。頭をぶんぶんと何度も乱暴に振った。日数が経てば、経つほどに殺しにくくなるのは間違いなかったのだ。情が移ってしまいそうになる。



ようやくその日が巡ってきたのは、またいくつもの日を跨いだ今日だった。「苗字、俺の部屋に来い、夜だ」若干、口元の筋肉を緩め不釣り合いな微笑を浮かべたバダップが言った。バダップは私の偽名を本名だと疑うことなく、呼ぶ。私は両親の付けてくれた名前を血で汚したくなかった。そう、私は苗字だ。バダップの前では苗字だ。「……わかりました、夜にお伺いしますね」この日をずっとずっと心の底からお待ちしておりました。その言葉は喉に詰め物のように突っかかったまま。バダップが私の髪の毛を撫でて「では、また」カツカツと硬い靴音を響かせて、廊下を颯爽と歩いて行ってしまった。撫でられた部分に手をやった。「……、」ゴツゴツしていたのに、温かかった。違う、温かくなんかない、私は殺せる殺せる、殺せる殺せる、きっとあの男を殺せる。絶対に殺して見せる。じゃなきゃ、……殺された両親が報われない。古い忘れ去られた呪文のように、繰り返し頭の中で唱え続けた。私は人を殺したことが無い、きっとこれで最初で最後なのだ。まだ、お天道様が笑っている時刻だというのに手が震えて、緊張していた。……バダップを手に掛ける武器を慎重に選ばなければならない。ミスはあってはならない、人を一人殺すという重みに押しつぶされても、私は。



星の明かりの強い晩だと思った。先ほどまで逆の位置に居たのに、バダップの上に跨り首元に懐に忍ばせておいた短剣を押し付けた。きちんと研いで、切れ味も抜群な事を確認済みだった。まだ、目を覚まさない。「はっ、ははっ、」呆気ないなぁ、あんなに完璧で冷酷で(優しくて)強かった軍人が、たかがこんな戦闘経験のない小娘に殺されるなんてさ。世も末だ。短剣を横に押し当てたら、褐色の首の薄皮が一枚切れた。なんで薄皮しかきれなかったのだろうと泣きそうになりながら、もう一度その僅かに切れた部分にまた往復させた。「なんでなんでなんで、」こいつは親の仇なのに、なんでなんでなんで。私は望んでいたのではないだろうか。バダップが途中で起きて自分が殺されて仇を討てずに死ぬ未来を。「なんで、」起きないんだ。本当に軍人なのだろうか、敵が己を殺そうとしているというのに疲れているからと言って無防備に眠りこけているなんて。「本当に寝ているんですか」自分の言葉がポツリと唇から漏れていった。


……その言葉を口にした時すべてに気が付いたのだ。……彼は寝てなんかいない。戦闘経験豊富なバダップが、殺意と武器を前に喉を晒すわけがないってね。ましてや、眠り続けているなんて有りえるわけがない。それから、これは一番大事な事。私には彼を殺せないという事実。視界が揺れた。「……もういいです、バダップ。起きているんでしょう」そこまで口にしてようやく、バダップが瞳を開いた。「何故、殺さない」「逆に聞きたいです。なんで抵抗しないの。私が本当に首にこれ突き付けていたら死んでいたのわかりますよね」これ、おもちゃじゃないよ。ほら、と自分の手首に軽く滑らせると血の球が出来た。「……そのようだな。それが、良い物だという事もわかる。だが、俺にお前は殺せないだろう。現にそんなものを首に当てられても、俺は何もしようと思わなかった」「……私の家族を殺したくせに、私は殺せないんだ、ははっ。はははははははっ!」「殺せばいい。抵抗はしない。沢山思い当たる節がある。恨まれているのもな」未だに抵抗の気配を見せない。恐らく、言った通り本当に抵抗をする気が無いのだろう。バダップは接しているうちに途中で気が付いていたのだろう。私は、本当は裏切り者で復讐に駆られた者であるという事を。そのために近づいたことすらも。訓練された軍人が、申し訳程度に隠されている殺意に気が付かないはずがない。私は完璧ではなかった、時に殺意が漏れている時があっただろう。気が付かないふりをしていただけにすぎやしなかったのだと。



血で少し汚れてしまった短剣をシーツで拭ってやって、再び彼の首筋に短剣を押し付けた。「…………」私を見上げている。いつになく優しい目で、何かを悟っているような様子だった。頬を伝ってそれが零れた。「ねえ、バダップ。私も好きです」「そうか」「はい。でもね、バダップが憎い。許せないです」「そうだな」そこまで言って、私は押し付けていた短剣を退けた。だけど、まだ手に持って。そうだこれは復讐だ、馬鹿な女の復讐劇だ。「……バダップは私の事好きですか?」「……ああ、言葉で表せない程に。お前に抱いた感情は全て初めての事だ」拙い感情を含んだ言葉だった。そこで私が静かに肩を揺らした。「そう、良かったです。そう思ってくれないと、この復讐は成功しないから」私にはバダップを殺せない。紛れもない事実だ。弱い私には、ひと時でも復讐目的で擬似的な恋愛をした彼を手に掛けることはできなかった。親の仇なのに、なんて馬鹿な娘なんでしょう。きっと両親も天国で嘆いているだろう。こんな娘に育てた覚えはないと。



お母さんお父さんごめんなさい、復讐はちゃんとするから。彼の愛した私を殺すことを以って復讐を遂行します。「私にもバダップが殺せません。ですから、生きて苦しんでください」「なっ」予想していなかったのだろうワンテンポ遅れたバダップが動くよりも先に、自分の首筋を掻っ切るように深くそれを突き刺した。血飛沫が、バダップの褐色の肌や白いシーツを汚したのが、眩しいと思えるほどの月と星明りの元で見えた。バダップの声がする。血で汚れてしまうというのに力強い腕が、私の体を抱きしめている。「苗字、苗字!今、救護班を呼ぶ!」裏切り者の私を手当てしてくれる馬鹿はいるのだろうか。それに、そんなに声を荒げるなんてらしくない、深夜に大声をあげて……きっといい迷惑だ。ああ、あと、名前間違っています。「名前」理解してくれたかは定かではないが最後に掠れた声でそれだけ言って、有りえないと思うのだけど大きく目を見開いて泣きだしそうにも見える表情を焼き付けて目を閉じた。


title 箱庭

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