ソングバード



*例によって姉弟、報われません。
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宣言通り、名前さんは俺たちの前から忽然と姿を消した。名前さんの部屋に無言で入ってみても誰も咎める者はいなかった。僅かに名前さんが使っていた香水の匂いがしたがそれ以外なんら変わりもなく、主が居なくなったことでほんの少しだけ暗い雰囲気を纏っていた。一番、日の差す暖かな部屋だったのに冷気だけが入り込んで俺を冷やした。換気の為に開けておいた大きな窓。そこから風が入り込んでいた。寒いのと虚しさで俺は窓辺に近づいて窓を閉めた。「名前さん、」名前さんの名前を呼んでも帰ってなんか来ないのに。……俺は最後にあった日のことをよく思い出せない。記憶を引き出そうとすれば頭を鈍い痛みが走り抜けていく。うまく弾けたような気もするが、ぎこちなく間違えたような気もする。それは定かではなくてどちらも、不確かな物だった。



それでも、名前さんは「有難う、拓人」と言って今までにない程穏やかで優しい笑顔を浮かべて、立ち上がり幼い頃にしてくれたように俺の髪の毛を優しく撫でてくれたことだけは脳裏にしっかりと焼き付いていた。ただ、名前さんのいた空間に少し入り浸れば名前さんの残滓に縋りつけば、俺の寂しさたちは鎮められるのだと思っていた。名前さんがいないこの部屋はあまりにも、広く(冷た)すぎる。「どうして、俺を捨てて行ったんですか、」ぽたぽた、零れおちた。そこだけ熱いのに、体は急速に冷えていく。貴女が望むのならば、俺はいつだって貴女の味方で有り続けたのに。家族の愛や他人の愛に飢えていた貴女の飢えや渇きを潤すことだってしてみせたのに。それでも、この世界(家)は名前さんにとって優しい物じゃなかったから。両親がもう少し名前さんを認めてくれていれば。



(俺も何も出来なかったから)
仕舞があまりにも、呆気な過ぎて。だから、俺はまだ帰ってきてくれるんじゃないかと心のどこかで期待していた。名前さんと一緒に居る男を俺は知らない、ろくでも無い奴かもしれないし、はたまた名前さんが言うように名前さんだけを愛してくれる存在なのかもしれない。此処最近、ずっと名前さんの部屋に入り浸るのは、ある理由があった。名前さんの部屋が片付けられるという話を小耳にはさんだからだ。執事が言っていたのだ。これで、本当に名前さんの居場所がなくなってしまうと、俺が阻止しようとすれば宥め諌められてしまい、対応があまりにも大人だったから、俺は自分の幼稚さを恥じた。それでも、名前さんの居場所を何も出来ずに取り上げられることが悔しくて、涙を零した。



そろそろ、片付けに執事とメイドがやってくるだろう。酷く言いづらそうに「そろそろ片付けますので」なんて、白くなった髭を撫でつけて言うのだ。もう、いくらか片付いていて生活感なんて残っていないのに。名前さんの存在をかき消すように、すべてを片付けるつもりでいるのだ。俺はまだ、片付けられていない大型の机に寄り添ってそっと、鍵のかかっていない上段の引き出しを開けた。それから名前さんの使っていた香水を一つ手に取って、俺は部屋を出た。きっと名前さんの持ち物(だった物)を持ち出しても誰にも咎められないだろう。少々、後ろめたい気持ちにはなるけれど。



自室に戻れば、渇き始めて生乾きだった頬の涙の痕を辿るように涙の雫が零れおちていった。それから、机の上に香水の瓶を置いてグランドピアノの蓋に手をかけて、蓋を開けた。ピアノの鍵盤に自分の手のひらを乗せて、メロディを奏でだす。あの日、名前さんに送った最後の曲を弾く。俺の手から作られるメロディは自分でもわかるくらいに随分と荒れ果てていた。もう、この曲は名前さんと俺を繋ぐ特別な曲ではなくて、ただの平凡な曲へと成り下がっていた。この曲を嫌悪しているかのように荒々しく指を叩きつけた。



さっき部屋を出たばかりだというのに、俺が出たのを見計らったかのように名前さんの部屋を片付ける音が聞こえた。そんな喧騒とした名前さんの部屋から意識を遠ざけようとした。名前さんが本当に帰ってなんか来ないのだと思いたくなかったから。だからこそ、いつまでも残していてほしかった。俺の望みは叶わない、俺の部屋に似つかわしくない香水の瓶が机の上で寂しげに仄かな香りを運んだ。


ソングバード
(鳥の歌声が聞こえる、この空っぽの場所で。いつものあの曲が鳴り響く)


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