貴方の優しさがこの手を離す
あれって、やっぱり。―――此方を見つめていた筈の双眸を思い出して首を傾げる。「シンちゃんと、誰?」「副会長様だよ」硬い声を出した八尋に、思わずもう一度反対に首を傾げた。
「有名人って奴ね、把握した!」
「まあなー、会長であるシンさんのがよっぽど有名だけど…あの格好は式典の奴かも」
「ほえー」
ふむと頷き後ろを振り返る。追い掛けてきていたガチムチヤンキーは既に見当たらず、此処なら安全だろうと姫抱きしていた八尋を下ろす事にした。
軽々しく抱えられていた事実はこの際、無かった事にしてしまおう。一つ頷いて八尋は辺りを見渡すが、如何せん此処は立ち入りを禁止されている区域である。
「つーか、正装とかそんな決まりすらムラムラから聞いてなーい!」
「それも全部書類だよ…」
「うひゃあ、マジでか」
うむむと唸るが意味も無く、遂には考える事すら放棄しようとする彼はスルーしてしまおう。―――現在使用中のエレベーターを使う事は出来ないのだから、階段から移動しなければいけないのかと溜め息を漏らした。
「あのさ、康貴…」
「んー?」
少し離れた場所に見えた螺旋階段を覗く。それと同時に名前を呼べば、返ってくるのは呑気な声だけ。それに何処と無く安堵しながらも、もう一度と振り返る。
パチリと瞳を瞬かせているであろう彼の背後に、
「つーかまえたァ」
影が一つ。
◆
然るべき日なのにと歯噛みする。悔しい。ただそれだけの感情に飲まれまいとする己を笑うだろうか。きっと、気にも止められずに終わってしまうのだ。
「ふむ、挨拶のみのつもりだが、嫉妬に狂うか、藍色よ」
「―――ッ!?」
「伏せるな、命令だぞ?」
ニコリともしない顔に何度も頷いた。何故、どうしてと繰り返す疑問に瞬く瞳。見つめてしまえば動けない。分かっていても見てしまう。
愛してやまない人と同一の顔がそこに存在する限り、彼は微笑みを絶やす事など出来ないのだ。
「躾はなってるようで何よりだ。―――お手」
「ハイッ」
「………」
「………あ、」
差し出された手に乗せてしまったのは最早反射だろうか、それとも慣れか。彼には分かってしまったのだろうかと顔色を窺うが変わる事すら無い。「あ、えっと、…スミマセン」赤い頬のまま謝罪した。生娘か。
「いや、いい。変わっていないようで何よりだよ、薊」
「ハァッ…………いえ、此方の台詞で御座います」
低音が薊の耳朶を舐めるように掠り、小さく喘いでしまったらしい。人っ子一人も居ない廊下で何やってんだと突っ込む人すら居ないのだ。収拾もつかないだろう。
「ハニー…」
「……奥様はどちらへ?」
「学園の写真を撮るだけ撮って帰ってしまった。私に愛想を尽かせたのかもしれない…」
途端にポロポロと泣き出す美丈夫に薊は瞳を溶かしていく。「ハニーに見捨てられたァ…」なんて嗚咽を堪えようともしない姿は十数年前からも変わらずに自身を喜びだけを与えていくのだ。
「…大丈夫ですよ、旦那様。奥様には此方から連絡をしておきましょう」
今までずっと、その大きな手に乗せていた手を下ろす。懐へと入れていた携帯を取り出してアドレス帳から引き出す名前は『飼い主』。
「繋がると良いんですけど…」
ジッと己の一挙一動を見つめていた彼が、その一言で廊下に伏せたのは言うまでも無いだろう。