君を忘れる未来だとしても
笑うしか無い。八尋を横抱きにしたまま走ったからだろうか。城のような高い学園にそぐわない眼鏡が走る。此方中央校舎十九階。最上学部の生徒達から湧き上がる悲鳴と罵倒すら擦り抜けて、間に合うだろうかと唇に犬歯を突き立てた。
「八尋ッ、ジッとしてろよ!」
「あ、アイアイサーーー!!」
「待ちやがれ、凡人共がァッ!!」
追い掛けてくる俺様攻めの声を聞きながらも膨れ上がる恐怖心。どうしてこうなったと回想に入りたがるのはご愛敬なのかもしれない。
◆
愛しい人が居る。
『あ、久し振りじゃん!元気にしてた?』
愛した人が居る。
『んー、このケーキは手作りなんだよ。美味いっしょ?』
網膜に焼きつけた笑みは、少しずつ闇へ消えて、
『トーヤって透夜って書くんだ?透き通る夜、かあ…』
また、記憶の根底に眠る。
『髪の毛がキラキラだねえ』
それでも、やっぱり。
『―――ヤス』
『はいはい、なーに?ダーリンったら、マツリをむぎゅむぎゅするなんて珍しいねえ?』
『子供体温は、ぬくぬくだぞ』
黒い月の皇帝には敵わないから。
『此の名に於いて、そなたを受け入れよう』
逃げて逃げて駆けた先に居た神様に縋りつく事しか出来ない。胸辺りまで伸びたプラチナブロンドを背に流し、ただそこに鎮座する人の所有物へと成り下がった。
『そなたにとって孤独とは何を指す』
『ひとりぼっちのこと、だよ』
『一人で存在をする事も儘ならないのか』
『そーだよ、さみしいの。だって、おやしきにはおれだけだから』
滅亡した一族の一人息子を迎え入れた人。ただ守る為に傍に置かれた存在は、誰の目にも触れられる事も無く消えていくのかもしれないと。十にも満たない子供が十にも満たない子供に話し掛けて、曖昧な言葉を返す光景は、異常なだけ。
『然らば、私の手に堕ちろ』
『寂しいなら手を繋ごうよ』
神様は見下ろすだけ、太陽は隣に並んでくれる。騙し騙しの世界の中、最初に孤独から救ってくれた神の膝元へと向かったのは紛れもない自分自身だ。
―――いつも通り、変わらない夜。美味しいと笑ってくれた愛しい太陽と食べる事が大好きらしい月にと持ってきた洋菓子の数々。喜んでくれるだろうかと向かった先で、紅い犬が狼へと変貌して、
『兄貴、何処行ったんだよ。俺達を、俺を置いて、何処に行きやがったんだ!?』
『死んじゃえばイイんだ、テメェらなんか。雑魚諸共、消えろ』
茶色い仔犬は狂犬へと戻ってしまっていた。
割れたガラスの不協和音。男達の悲鳴。殴る音に揃いもしない悲鳴の歌。何が起こったのか分からなくて、理解するにも情報が足らない事実に視界に靄が掛かった。
「――――様!!…アレス様!」
沈澱するように沈んだ意識は、己を呼ぶ親衛隊の声に引き戻された。開いた目は胡乱げで、宙を見ているのか目の前で彼が発する色気に中(あ)てられた男を見ているのか定かでは無い。
衣服を着ていない辺り、ヤる事をヤっていたようだ。処理をした後に寝たつもりだと見渡し、頬を可愛らしく染めたままの男の頭を撫でる。
金色の髪に、ゆるりと触れた。
「じ、直に式典が始まってしまいます!後は我々に任せて、アレス様は御用意をお進め下さいませ」
「おう、……分かった」
「康貴!!此処は違うって!」
「大丈夫だってえ、道を訊くだけだからあ!お邪魔しやーすっ!」
キングサイズのベットから身体を起こした途端に開かれた扉は、中央校舎最上階(実質二十階は閉鎖されており、十九階なのだが)の生徒会執務室の隣に存在する一室のものだ。通称『王室』である。生徒会執行部の面々が休憩をする為に幾つもの部屋を内部に設置されている部屋だ。
然し、ベットにてイチャラブしていたらしい金髪ウルフカットの男は生徒会に所属していない。
「あン?何か用か、初代外部生さんよ。此処は俺様の部屋だぜ」
「て、手当たり次第開けるのはやめろって止めたんですけどねー…」
「ヒロやんは無実ですよ!」
「…そこの眼鏡が主犯か。風紀取締役会代行人の俺様に捕まりたくなきゃさっさと出ていきやがれ」
額に掛かる髪を後ろに流して、いそいそと着替えた親衛隊が頭を下げて扉の奥に姿を消すのを確認しては目を凝らす。別にこれと言って珍しくも無い黒髪を揺らして現れた眼鏡が、初代外部生を横抱きしているとなると寝起きの頭ではあまり違和を感じずに居た。
「ダイコーニンってなーに?」
「ふ、風紀取締役会、…簡単に言えば風紀委員なんだけど、正式に所属する人が居ない場合は、代わりに風紀を執行しなきゃなんない人達が『代行人』って呼ばれんの」
「そいつの言う通り、俺様が代行人の一人だ」
上半身裸でスラックスだけの男が笑う。扉を開けた犯人、康貴は唐突に前触れも無く首を傾げた。
「お兄さん、洋菓子の匂いがプンプンするねえ。甘いのがお好きなの?」
そしてフラッシュバックする最も辛い過去に、
「ああ、好きだぜ? 駄目か?」
「んーん、俺も好きですから!洋菓子!」
『俺も好きなんだよね、洋菓子!!』
見えた人は愛した人だ。