愛してあげない
意図して変えた声色は、まるで最初からその声で生きていたかのようだった。
「…違和感なんて、感じない」
独り言をただ、呟く。誰でも無かった。ただ名付けられるその日を待ち構えた赤子のように、己の存在する理由全てを知りたいが為に嘘を被り続ける。俺は誰だと問い掛けた時に、困ったように笑う人を知っていた。
だから、訊く事をやめたのだ。
「そうちょ、じゃねえか。…越前、このパネルで注文が出来んだけど、何が良いっスか?」
「青い貴婦人やムール貝もいいけど、滅多に食べられないものが食べてみたいですね。…キャビアとか」
手渡されたパネルの画面をポチポチと押しながら呟く。
いつもより饒舌なのは『演技』だから。そう分かっていても、この人が話す声はどうも耳に心地好く入る。あの頃よりも低い声に、伸びた背丈に、それでも己より小さい彼がその分厚い眼鏡の奥で柔らかく目尻を下げているのなら。
夢に見たこの光景に、二年前から存在を初めて知った涙腺がまたもや二年振りに崩壊するかと危惧してしまう。
「つーか、ふく…ゴホッ、笹塚は何で居ねえんスか」
「ヤスなら八尋を連れてる筈ですけど」
「でも、あんたの危険だってあの人はっ!!」
「ああ、生徒会執務室?に居たからでしょうか。神尊さんに担がれていたからでしょうね」
無表情に淡々と料理の数々を吸い込んでいく様はまるでブラックホール。然し、それでも、『神尊』と言う名に竣は目を見開いた。生徒会執行部会長がわざわざ?ただの好奇心だろうかと言い聞かせ、竣は喉を鳴らす。
守らなければと立てた誓い。
守らなければと絡めた小指。
―――自分を見下ろしたオニキスはただ、
『神なんざ、居ないだろう』
そうやって、全てを否定していくのだから。
「……Was there any harm?(何かされましたか?)」
「いえ、全く」
「What did you go there for!?(だったら、何でそこに行ったんですか!?) 」
「式典での書類を渡したかったらしいですよ。と言うか、落ち着いて下さいよ、先輩」
円形のテーブルに座り、テーブルクロスに隠された手に触れられた。撫で付けられた親指。今年で二十歳になっていたのだと勘違いをするぐらいに物知りの人を。大人だった人を。
「…I do not admit that you retired.(俺は、あんたが引退した事を認めてなんざいねえからな)」
「It's not my business.(俺には関係無いよ)」
囁くように落とされた声。見開いた目に蓄積されていきそうな涙なんて煩わしく思われるものにしか過ぎなくて。ああ、何て人だと悲観に走る事もしないままに、
「Shit!クソッ、」
蹴り上げたテーブルに嘲笑。
「あんたがそう言うなら覚悟してろ。俺を此処まで懐かせた癖に逃げんじゃねえぞ!
―――…Prevent a hand from being bitten by king's dog!!(飼い犬に手を噛まれないようにしやがれ!!)」
寂しい世界に逆戻りだけは嫌だった。
寂しい世界に独りぼっちは嫌だった。
温かさを教えてくれた人を忘れたくないのは悪い事だろうか?食堂に響き渡る声に、好奇の視線が突き刺さる。周りのざわめきに声は掻き消されていたが、きっと聞こえているのだろうと隣の人物を睨んだ。
眼鏡の所為で一層読めない感情が恐ろしくて、癇癪を起こした子供のように髪を乱して結い上げたままの髪を解く。
「アストルを舐めんじゃねえよコルァ!!」
感情のままに勢いをつけて叫べば、食堂内は拍手喝采に包まれていった。何故だ。
「………本当に、オニは変わらないなァ」
端から見たら地味系男子に因縁を付ける不良でしか無い。それでも、美樹は辺りを見渡して竣を見上げた。言う事を聞かない子供に告げるように、まるで自分に言い聞かせるように呟いて、
(ほら、また泣きそうだ)
「Mon chien semble pleurnichard.(俺の犬は泣き虫だな)」
隠すように呟かれた言葉に、目眩。
(眩しいよ、君が)