単純で、複雑な
揺らした足の先。見上げた黒スーツに視線を与えて、膝で眠る雀の囀(さえず)りを待つ。吐き出した煙は空で舞い、そのまま霧散した。
『これで自由だよ』
『ああ、本当だ』
『見なさい。お前には、彼が居る』
バカな女が罪の無い子を孕んだ。産み落とされた子供は、己の正体を知らぬまま寝息と言う歌を紡ぐ。腕の中の温もりは守らなければと思わされ、ああ、何て事をしてしまったのかと、ただ嘆いた。
『おとうさん』
『お父さんでは無いだろう?』
『ちちうえ』
『パパと呼びなさい。僕が寂しいんだ』
最終的に出来てしまったのは、子離れの出来ない父親で。今や息子が父親の育て方を間違えてしまったかもしれないと頭を抱える始末。そして、男は思い出した。
―――僕の息子は、超可愛い。
それこそ今更だと彼は溜め息を吐いた。
「響希様、お迎えに上がりました」
「理事長がお待ちです」
ループタイに手をやり、この世で一番大切な女性に与えられたものだと思い至った時点で、その長い指は雀の羽を撫でる事に専念する。
「パパは高画質のカメラを所望しましたが、無理でした。何故なら、パパと息子の邪魔をするパパの大嫌いな狗が居たのだから」
革靴が軟らかな地を蹴り上げた。巻き上がる土は男達に降り掛かり、微かな悲鳴を耳にしながらも立ち上がって一振りした脚に立ち上がる存在は彼一人。
(ざまあみろと笑ったのは)
タイミングを計ったかのように彼を包み込む桃色の花に緩んだ目尻はそのままで。
(彼が持つ『何か』だ)
「理事長先生に伝えてくれ。僕は帰らないとな。死んだ女の代わりにもなりたく無いんだ」
ああ、寒気がする。背中を向けて歩き出そうとして思い出した。空色は、親友の色だった筈だと。それでも何か、思い出すべきものは、確か、
「―――…ハニーを忘れてきた、だと…!?」
愛しい妻が古くも新しくも無いカメラを片手に此方に向かっていると言う事実だろう。
◆
猫を被ろうと言い出した幼なじみを思い出す。優等生と言う仮面らしい。イマイチ成績が良くなかった気がすると思いつつも、受験前は二時間も勉強したから受かるのは当たり前かと独りでに頷いた。
外部から入学するには、超難関とも言える神王院の受験する前日に、二時間だけの勉強で受かる訳が無いと此処で間違いを正しておこう。
君名持ちの証であるベルトを巻いたままでは、必ず人目を引くだろうと理解して外した。目立つのは苦手だった美樹は、好奇の視線も同様に苦手なのだ。
「神尊さん、連れてこれば良かったな…道が分からん」
困ったような風体で首を傾げ、それでも無感動に辺りを見渡す。元来迷子になりやすい性質なのだから、しょうがないだろうと。
「み、つ、け、たッ!!!」
(聴こえた声をそのままに)
(耳にした悦びをそのままで)
(祈るように嘆いた弱者は)
(我儘に救いを求めたのだ)
「―――先輩、お腹が減りました」
「飯でも作りますか?」
「ムール貝が食べてみたいです。金持ち校にならあるってヤスが…」
「だったら、やっぱり食堂ですね。丁度昼時みてえだし、行きます?」
「はい。…それにしても、似合ってますね」
ポニーテール、と指差してオニキスが月を描く。それに素直に顔から火を噴き出した犬は、やはり嬉しそうに笑うのだ。
あんたがそう言ったのは二回目ですよ。なんて口には出さずに隣に並ぶ。失礼しますと引いた右腕に出来る限りの力加減をして進めば、向かう先にはざわめく人々の悲鳴と喜びの声。
舌打ちと睨みを利かせても黙らない大衆に、動かない瞳は何も見ていない。
(ああ、また貴方は見てくれない)
力を加えた腕が動いた事が、微かな喜びを自身に与えてくれたのだと口角は次第に支配されていった。
(でも、貴方は今此処に存在する)
「総長、お帰りなさい」
ゆらり寄り添う狼は、誘われるように瞳を閉じる。