ガスの元栓は閉めた。シャワーもきちんと止めたし、エアコンも消してきた。玄関の鍵を掛けて戸締りも完璧。これで気兼ねなく出掛けられると思ったら気が抜けてしまい「ふあー……」と大きなあくびが出た。
 カツカツと靴音を鳴らしながら通路を歩き、端にあるエレベーターの前で止まる。すぐ横にある階段から冷たい風が昇ってきて身震いする程寒い。もうお昼に近い時間で太陽は微力ながらも照りつけているというのに。
 早くエレベーターこないかな、とすでに赤くなっていそうな鼻の先までマフラーを潜り込ませて、隠れるようにあくびを噛む。

 それにしても昨日は全然眠れなかった。上の部屋の人(たち)が朝方までずっとドタバタ音をたてていたからだ。時計の秒針の音でさえ気になり始めたら眠れなくなってしまう私にその状況下で寝ろと言われても無理な話だった。
 今から遊ぶ相手がナミじゃなければ夕方くらいまで寝てやるところだ。でもナミとの約束をドタキャンでもすれば必ずキャンセル料を請求されてしまうであろうことは容易に想定出来る。だから、この時間にこうしてエレベーターをぼーっと待っているわけだけど。睡眠よりもお金と信頼、円満な交友関係を取るのが普通だろう。
 薄汚れたエレベーターが下りてきて、俯きながら乗り込む。
 3階建てのアパートの2階に住んでいるから、エレベーターを待っている間にささっと階段を使っていれば今頃はとっくに駅前に向かって歩き出しているところだ。
 時間よりも楽を取る。これは私にとっての常。だから私はいつまで経ってもダイエットが成功しないのだ。ある物は使う、というケチくさい概念を持っているせいもあるのだけど。

「おい、降りねェのか」

 どうにか頭を働かせて眠気を飛ばそうと色々考えているうちに1階に着いていたらしい。
 私が降りるまで律儀にドアを開けて待っていてくれている人に慌てて謝罪の言葉とお礼を言い、冷え込むロビーに出る。このアパートは小さいなりに設備が整っている、かと思いきや粗が多い中途半端な物件だ。
 というかエレベーターに先客が居たことに全く気付いていなかった。やっぱりまだ寝ぼけているらしい。

「……こわっ」

 私の後にエレベーターから降りてきた人をただの興味本位でチラリと盗み見し、改めてよく見てみると、真っ赤な髪な上にとてつもなく悪い顔をした男の人でひどく驚いた。大きな口を開けてあくびをしているだけなのに、そのままガブッと食べられてしまうんじゃないかと錯覚してしまったくらいの強面。
 思わず"怖い"と口に出してしまって、すぐさま素知らぬ顔を取り繕った。彼に聞こえていないこと祈るばかりだ。
 こんなに目立つ人が同じアパートに住んでいただなんて初めて知った。3階から下りてきたのだから、きっと3階に住んでいるのだろう。……もしかして昨日騒いでいた人達の一人かもしれない。だとすれば血迷って文句を言いに行ったりしていなくて良かったと心から思った。
 でもエレベーター内の事を考えると、間違いなく不良に分類されるであろう風貌の彼も中身は意外と紳士なのかもしれない、と思い直す。これはいいギャップ。
 人は見かけによらないなあと失礼なことを思いながらアパートを出、彼とは逆方向へ歩を進める。
 ごしごしと目を擦った後、マフラーの下で無意識に口を開けたけど、眠い時特有の生理現象は顔を覗かせない。いつの間にか眠気はどこかへいってしまったようだ。きっと衝撃のビジュアルだったお兄さんのお蔭だろう。
 心中でもう一度お礼を言っておき、携帯を取り出してナミに"遅れてごめん"とメールを打った。

***

「おい、ビール持ってこいよビール!」
「私も焼酎〜! いややっぱりウイスキーで!」
「そんなもん置いてないよ。てか苦情きちゃうからもう少し静かに……」
「ああ!? 苦情なんかどうでもいいだろ。文句あんなら言いにこいやー! ウチが相手してやる!」
「いいぞボニーもっとやれー!」
「ちょ、怒られるのは私なんだからほんとに勘弁してって!」

 完全に酔っ払いと化したナミとボニーは大声を出すだけでは飽き足らず、床や壁をバンバン叩き出してたまったもんじゃない。
 朝ナミと待ち合わせていた場所に着くとボニーも居て、3人で買い物したりご飯を食べたりしてから私の家で呑もうということになったわけだけど。まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。日を跨いでも2人の勢いは衰えない。お土産で貰っていた泡盛なんか飲ませるんじゃなかった…!

 ――ピンポーン。ピンポンピンポンピンポーン!

 ああ、ついにやってきてしまった。下の階の人か隣の部屋の人か、はたまた管理人さんだろうか。誰が来ても最悪なことに変わりはないけど。
 容赦なく押され続けるインターフォンの音を何だか遠くで聞きながらナミとボニーを睨みつける。先程までの勢いはどこへやら、知らぬ存ぜぬといった顔を明後日の方向に向けている2人のなんと憎らしいことか。
 2人の暴走を止められなかった私も悪いし、ここは私の家で私が住んでいるアパートだ。不祥事の責任は私にある。
 大きく嘆息しながら玄関へ向かい、恐る恐るドアを開けて相手の顔を見る間もなく深く腰を折った。謝り倒す他に私がなせることはない。

「夜分遅くにすみませんでした!!」
「ほんとにな。一体何時だと思ってんだよ」
「夜中の2時近くでございます、すみません!」
「うるさくて全然寝れねェんだけど」
「本当に申し訳ないです!」
「……お前とりあえず謝っとけばいいとか思ってねェ?」
「そ、そんなことは…!」

 私の"とりあえず"がバレてテンパってしまい、図らずも声が上擦ってしまった。なんとかフォローしようとペコペコ平謝りしていた頭を上げる。
 くたびれたエア・ジョーダン、黒いジャージとネックウォーマーの上には、数時間前に初めて見て衝撃を受けた顔があった。脳が一瞬動きを止める。
 まさかの再会に「あ、」と2人の声が揃った。さして特徴もない私を覚えていたことにも驚く。
 朝はどうも……と歯切れの悪い言葉を掛けると「おう」と短く返事をされ、少しだけ表情を柔らかくしてくれた。

「お前201号室の奴だったのか」
「はい」
「……昨日、上の部屋うるさかっただろ?」
「え、はい。朝方まで眠れませんでした」
「……やっぱそうか。それ俺ら。悪かったな」
「い、いえそんな、滅相もないです! むしろごめんなさい!」

 図らずも本人の目の前で愚痴ってしまった上に、謝らなければならない立場だった私が逆に謝られることになってしまって慌てる。そんな私に苦笑して「お前が謝る必要ねェだろ」と言ってくれたお兄さんはやっぱり何だかんだ紳士なところがあるなあと感心した。
 そして私の勘通りお兄さんは上の部屋の人だったみたいだ。上にまで騒音が響いていたのだと思うと更に申し訳なくなってきた。明日、隣と下の部屋の人達に謝りに行った方がいいかもしれない。

「お前も昨日迷惑しただろうし、今回はお互い様ってことで勘弁してやるよ」
「本当にすみませんでした……後で騒いでいた友人に上に向かって土下座させておきます」
「どんな体勢か見当もつかねェな。つーか何で上?」
「え、だって上の部屋にお住まいなんですよね?」
「いや下だけど」

 下…だと…? 頭上にクエスチョンマークを浮かべる私を見たお兄さんは、ぶはっと勢いよく噴き出した。笑いながら説明してくれた彼曰く、上の部屋の人はお兄さんの友達で昨日はそこで宅呑みしていたらしい。……納得。紛らわしいこと言ってんじゃないよとも思ったけど勿論言えるはずもない。
 それにしても笑ったら可愛いな、と思っていたら、「遅ェぞー! まだ文句言われてんのかー!?」とリビングからボニーの大きな声が聞こえてきた。どこまで空気の読めない奴なんだ。
 機嫌を損ねてはいやしないかとお兄さんの顔色を伺えば、可愛らしい笑みから苦笑いにシフトチェンジしていて少し残念に思う。怒っていなかったことには安心したのだけど。

「だいぶ出来上がってるみてェだな」
「そうなんですよ、もう手に負えなくて」
「ふーん。……俺ん家来る?」
「え。……ええ!?」
「くく、冗談だよ」

 ニヤリと口を上ずらせたお兄さんは「お前も呑みすぎんなよ」と私の頭をぽんぽんっと撫でた。手の重みで俯く形になり、そのまま固まる。何を言われ何をされたのかようやく理解して頬を赤らめた頃には、お兄さんが乗ったエレベーターのドアが閉まろうとしていたところだった。
 ハッとして「おやすみなさい!」と思わず大きな声で叫んでしまう。少し目を丸くしたお兄さんは、薄く笑って右手を軽く上げてくれた。
 ちょっと待て。不覚にもめちゃくちゃトキメいた、というか、惚れた。私は決して惚れっぽいタイプではないと思う。ただ、あれに惚れない奴は女じゃないだろう、と思えるくらいにお兄さんの一連の流れがただのイケメンだっただけの話だ。

 エレベーターが下りていった後も、しばらく真っ暗な通路をどこか遠くで見ながらぼーっとしていると「何やってんだよー!」とまたボニーの声が耳に飛び込んできて我に返る。
 まんまと恋に落ちてしまっている場合じゃない。私には酔っ払いの世話と、明日隣の部屋の人に謝罪するという大役が残っているのだ。
 頭が一気に憂鬱になったけど、お兄さんを思い出すとそれも途端にどうでもよくなってしまった。昨日満足に眠れなかったことも、ナミに遅刻の罰金を払わされたことも、今ではもうどうでもいい。ものの数分で頭が煩悩の塊になってしまったみたいだ。
 静かに玄関のドアを閉めながら、隣の部屋の人に謝る前にロビーのポストでお兄さんの名前を知ろうと考えた。見た目通りのヤンキーな名前なのか、中身のような紳士と見せかけたチャラい名前なのか。あの顔で山田とかだったら面白いよなあ、と一人で笑ってしまった。
 この中途半端なアパートにも、文句を垂れずに住み続ける理由が出来たある日の夜。


201号室



 浮足立ちながら先程の出来事を2人に話すと、「床を5回殴ってアイシテルのサイン送ろうぜ!」なんて言い出したもんだから土下座してまで阻止した。
 やっぱりお兄さんについて行っておけば良かったと心から思ったのだった。


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