百物語九ノ話「天邪鬼」


 ならば次は俺が、と彼は言った。
 俯いたその顔は見えない。新月の夜の闇より黒く揺蕩う髪が、その肩に流れるのみ。だが彼が再び口を開く前、その薄い唇が僅かに笑みを食んだのが微かに見えた。

   ×××

 今からもう、十年以上前の話だ。ある村に、仲がいい……とは言い難いが、互いに切磋琢磨して成長せんとする三人の子供がいたらしい。彼らは揃って教場に向かい、師の教えを受けてまた共に帰ることを日々の常としていた。けれどある日、いつもの待ち合わせ場所に三人のうちの一人が来なかった。普段は一番先に来ている者だったから、遅れているのを不審に思いつつも二人は大人しく待っていた。けれど、待てど暮らせど彼は来ない。
「風邪でも引いたんかな」
「あのヅラが?風邪の方が避けて通るだろ」
 そんな風に話をしつつ、ギリギリまで待ってから教場に向かった二人が飛び込んだ教室で目にしたのは、待ち合わせ場所に現れなかった彼がすでに着座している姿。
「てめえ!先に行くなら先に行くって言えよ!!」
「ずっと待ってて、馬鹿みてぇ……」
 そんな風に非難の声をあげる二人を、彼は不思議そうな顔をして見つめていた。だがやがて彼は、にっこりと笑う。
「そうだったな、すっかり忘れていた。明日からはまた一緒に来よう」
 もうずっと一緒に教場に来るのが習慣となっていた彼らにとって、それを忘れていたという彼の発言には違和感があった。だが、それを問いただす前に師が教場に現れ、そのままその一件は有耶無耶になった。
 それから後も彼らは、共に教場へ行き共に帰る、それを繰り返した。それはずっと変わらなかったが、三人の関係は少しずつ少しずつ変化した。あの日、待ち合わせに来なかった彼のことを他の二人は、それまでは手のかかる幼馴染みだと思っていた。それはずっと同じ。けれどあの日以来、何故か二人の目には彼が妙に艶めいて映った。
 教本を取る手の白さ、細さ、滑らかさ。高く結った髪が風に揺れ、微かに鼻腔をくすぐる匂い。目を細めて華やかに笑う、その整った目鼻立ち。そして、柔らかそうな唇から溢れる声まで。
 その声が己の名を呼ぶ瞬間、ぞくぞくとするような不思議な快感が背を抜ける。
 年頃のことゆえ、彼も、彼を取り巻く二人も、蛹が皮を脱ぎ捨てるように刻一刻と変化する。昨日まではただの友達であった相手が、明日には想い人へと変わるのもまた道理。甘く切ない思いは、思春期にある者だけの特権であったから、二人は己の胸に抱く思いも彼の変化も、その種の淡く儚いものと判断した。
 だが唯一、あだ名で彼を呼ぶ度「ヅラじゃない」と否定するのだけが奇妙であった。そのあだ名は長年彼と共にあったけれど、そんな風に否定したことはこれまでなかったから。

 ある時、二人のうち一人が高熱を出した。もう一人の少年と彼は連れ立って教場へ行き、そして帰った。別れ際、
「じゃあ、また明日」
そう笑いかける彼に頬が熱くなるのを感じつつ、少年は違和感を感じる。
「ヅラ」
 呼びかければ必ず返される
「ヅラじゃない」
の言葉に、また、違和感は深まった。
 少年はこの村に来るまではずっと戦争孤児として各地を転々としていたから、不思議なものや不気味なものを色々と目にしている。恐ろしいものも、怖いものも沢山知っている。少年が彼に感じる違和感はこれまで経験したことのないものだったけれど、何かが違う、何かがおかしい、その感覚が間違っていないことを少年は経験的に知っていた。
 立ち去ろうとする彼の手を思わずつかんで、驚く。彼の手は、初夏のこの時期には考えられない程冷たく、冷え切っていた。
「銀時?」
 それでも、振り返り、首をかしげて笑む彼の姿に脳髄が痺れような感触を覚える。口腔がカラカラに渇き、唾を嚥下した喉がゴクリと鳴った。
 冷えた手を温めてやりたくなって、つかんだ手を己の手の中に押し込める。柔らかなその頬に触れたくなって、空いたもう片方の手を伸ばした。けれど次の瞬間、身体に震えが走った。
 柔らかく温かそうに見えていた彼の頬は鉄のように固く冷たく、生きた人間の皮膚とは思われなかった。
「どうした?」
 なのに彼は、急に手を離した少年の顔を覗き込んで、不思議そうな顔をする。そうしてまた、咲きこぼれる花のように可憐で美しい笑みをその端正な顔に浮かべた。
「……お前、誰だ?」
 少年の問いかけに、彼は笑うだけで答えない。
「ヅラじゃねえだろ」
 腰に下げた刀を左手を添えつつ、一歩下がる。そしてまた、一歩。
 十分な間合いをとってから、左手で鞘を押さえ、右手を刀の束にかける。そんな少年を見ても彼は動揺一つせず、警戒一つしなかった。
 ゆるりと唇を開き、言葉を紡ぐ。
「いいや、……ヅラだ」
 その残酷にして恐ろしい言葉の意味は十二分に理解できるのに、その声の甘さに耳が震える。それを掻き消すために全力で斬りかかる。捉えた、と確かに思ったのに、振り下ろした刀の下に彼の姿はなく、振り返ってもそこには誰もいなかった。
 ただ渺々と風が鳴るのみ。
 風の音に交じって、彼の声が聞こえた。
「裏庭に誰かの姿、誰かの着物」
 見回しても猫の子一匹見当たらない。いくら怒鳴り、叫んでも、彼は二度と現れなかった。

 後日、彼の住まいの裏庭の、柿の木の根本に縛られた子供が倒れているのが見つかった。多少の衰弱は見られるものの、命に別条はないという。だが、何故そこにいたのかという問いかけに、子供は次のように答えた。
 教場から帰って裏庭の柿の木の下を通りかかった時、上から声をかけられたのだという。見上げるとそこには自分そっくりの子供がいて、柿が食べたくはないかと尋ねた。初夏のこの時期に柿が手に入るはずはないとは思ったものの、そう言われれば無性に食べたくなる。食べたい、と答えると、木の上にいた子供は上から柿を放って寄越した。それを受け取ったのを見届けてから、代わりにお前を食わせろと言ったのだそうである。その後の記憶は一切ないという。
 その話は、明らかに彼が待ち合わせ場所に来なかった日の前の晩の出来事と思われた。彼がここで縛られている間、声をかけてきたという偽者が彼に成り代わって生活をしていたものと考えられたが、しかしそれにしては見つかった時の彼の着物が、いなくなった時に着ていた着物ではなく、彼の偽者が着ていた着物であったのが怪しく、不審であった。けれどそれに対する明快な説明は、誰にもできない。
 子供たちは、彼の偽者が、あだ名を呼ばれる度に必ずそれを否定し、否定された時にはそれを肯定したことから、正体は天邪鬼だったのではないかと噂した。

   ×××

 語り終わり、行灯の火を消すために立ち上がった彼の肩を艶やかな黒髪が滑る。その場にいた者のうちの誰かが、「ヅラ」と声をかけた。
 その声に彼は立ち止まる。ゆっくりと振り向いた顔は、その白い面にあでやかな笑みを浮かべた。細めた目が一同を見回し、口角が上がる。妖艶な笑みを残したまま、唇は低く甘い声を紡いだ。

「ヅラじゃない、……桂だ」


***

佐藤ざらめ/Two by Two equal Zero


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