百物語六ノ話「蜃気楼」

冷たい真夜中。かんなびの林を抜けると、目に眩しいあらたかな丘が見えた。光の粒が千千と立ち上る丘には、和琴で紡がれたようなやわらかい風に吹かれた沙棗(さそう)の花弁がきらきらと揺れている。
来るべきは此処ではないということは直ぐに分かって、俺は林に踵を返した。しかし、気がつくと二本の足は丘の上にあった。

「どちらへ、お帰りのつもりで」
「みんな寝たままなんだ。早く起こしにいかなきゃならない」

縁取る線がやけに細い男が刹那の内に現れて、俺の血濡れた戦闘装束の袖を引いた。男は、目元にたたえた綻びを転た(うたた)にして笑う。

「貴方は優しいのですね」
「俺は鬼だ」
「鬼は鬼だと名乗りません」
「あんた、都合のいいことを言うよね」
「これはそもそも私の物語ではなく、彼の物語だからね」

男はすげない調子でまた笑う。
俺は三度瞬いた。

「帰りたいのですか」
「帰りたくない理由がしっかりしないから、帰りてーよ」

やはり此処にいてはいけない気がして、俺は袖に添えられていた線の細い手を退けた。しかし俺の手はその朧ろげな形に触れる事はなく空をすかした。
俺の顔の正面にぼんやりと合わせられていた男の焦点が逸れる。

「自分は一番長くいるのだから、好きになった方が賢い」

男と自分との間に一陣の青嵐(せいらん)が駆けて、それから気がつくと、かんなびの林を背にして立っていた。
光の丘はもう見えなかった。


***


有田/Boronia


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