そこは本当にがらんどうで古ぼけていた。ひっそりと、息を殺すように建っている小さな家。足を踏み入れればぎし、と床が重く軋んだ。
 イタリアの郊外、良く言えば時間がゆっくりと流れていきそうなその町は、田舎町の例外に漏れず余所者に優しくなかった。これみよしがな視線は気にならない方だが、お喋り好きのあいつにこの環境は辛かったのではないかと思いを馳せて、狭い台所に立つ。玄関は閉めた筈だが、いまいち建て付けが悪いらしい。冷たい風が吹き込んでくる。

 空条承太郎がイタリアに来るのはこれが二度目だった。一度目は、仲間との再会の為。宿敵の息子と対面した際SPW財団とギャング連中を巻き込んでのポルナレフ争奪戦が勃発し、不毛なスタンド大合戦になりそうだった事については、ここでは割愛するが。ともかく久し振りの再会で、随分と話し込んだ。懐かしい、今尚眩く輝くあの五十日に及ぶ道中。
 そこで彼の、ポルナレフの口にのぼった物。彼はジョルノ含むギャング達と巨悪ディアボロに立ち向かうとき、この家にあったほとんどの私物を燃やして痕跡を消した。しかし完璧に抹消するには至らなかったのだという。二度目の来訪はその僅かに残った私物を回収するためだった。財団員を連れていないのは大袈裟にしなくていいという本人の意思と、少しの私情故。かつての想い人の足跡を追うのだ、一人が一番良い。
 戸棚や家具の隙間をくまなく見て回る。ほとんど物が置かれていない室内は数分で調べ終わってしまった。ベッドサイドに置かれたキャビネットにはぼやけた色をした鍵が掛けられている。了承も得ているので遠慮なく鍵を破壊した。
 捨てるに捨てられなかったと目を伏せたポルナレフの口元に浮かんだ笑みが、自嘲を含んでいるようにも見えたその理由。

「……………アヴドゥル、イギー、花京院」

 空っぽの引き出しの中、煤けた布に包まれていた写真。せっかくだからとよくわからない理由を掲げて自分たちの一瞬を切り取った祖父の気持ちが、今はわかる。吸血鬼を倒してその時に撮ればいい、と全員で生還する未来を疑っていなかった自分が写り込んでいる。今の承太郎にはひどく煌めいて脆く見えた。
 見付かったものは捨てるなり、燃やすなり、持って帰ってはくれるなよ。嘯いたポルナレフの頬は少し痩せていた。どんな気持ちでこの写真を眺めていたのか。行き場のない感情が頭を渦巻いて世界が歪む。たまらず承太郎はベッドに腰を下ろした。
 傷ついた体を引きずって、一人断絶された生活を送っていたのだろう。言葉だって思うように操れなかった彼は、たった一枚の写真を糧に、腐らず、いつ来るとも知れぬ未来を信じていたのか。現れるかもわからない、矢を託すに値する人間を信じて。
 肺から漏れた息は重い。事の顛末を聞く前、後悔はしていないと毅然と言い放った友人の横顔がじくじくと胸を刺した。彼の負った重さは自分が負うべきものでもあったのに。
「…ポルナレフ」
 固いマットレスを撫でて脳裏に彼を思い浮かべる。手のひらは冷たい感触を伝えてくるだけだった。痛いくらいの静寂が室内を満たしている。
 思うままに滑らせていた指が何かに触れる。自然と伏せていた目蓋を持ち上げるとそれは枕の下敷きになっているようだった。残していったものはあの写真だけだと思っていたが、こんなところに置いてあるくらいだから本人も忘れるようなものかもしれない。たいした大きさでもないそれを引きずり出す。
 ずいぶんを年季の入った手帳だ。ところどころ禿げた革には読み取れないほど掠れたフランス語が印刷されている。全体を検分するとまだらに黄ばんでいたり染みが窺えるところからも長年愛用していたと推測できた。読んでいいものか否かを悩んだが、好奇心に後押しされてほつれそうな小口を開いた。

 ―――98年、11月。ここ数カ月の記憶が曖昧だ。エジプトのカイロにいるという男の手中に落ちていたらしい。火傷が熱を持っていて、まだ頭が働かない。

 日記ともいえない簡易なメモ書きのようだ。流れるようなフランス語は癖が強いが、こんな時学者で良かったと痛感する。様々な資料に目を通すので喋る方はともかく、読む分には困らない。手帳に自分たちと出会う前の記録はなかった。引きちぎった跡が見て取れるので破いて捨てたのだろう。再び手元に目を落とすと気だるげな筆跡が打って変わって続きを綴る。

 ―――同日。スタンド使いを束ねている悪党がいると聞いた。妹の仇がもちろん最優先だが、家族を救う旅だという老紳士には胸を打たれた。ガキの方は可愛くない図体しちゃあいるがお袋さんのため、目覚めたばかりの能力を駆使しているという。化物のせいで家族が奪われるなんて不条理なことはない。同行を断る道理はねえ。首洗って待ってな、DIO!

 己が天涯孤独の身の上のせいか、事情を説明したあとの彼の表情は剣呑さすら帯びていた記憶がある。情に厚い生来さも相まっているのか、文字が固い。

 ―――シンガポールに入った。ホテルにまで敵が待ち受けているとは……。足はすぐに良くなりそうだが、買い物は任せよう。ロビーで煙草を吸っているとアヴドゥルがすっ飛んできて部屋に連れ戻された。二度目の奇襲に備えて同室になったが、こいつは煩くて小姑のようだ。自分の限界値くらいわかってるってのに、面倒な奴に目をつけられちまった。

 思えばアヴドゥルとポルナレフはよく衝突していた。両者とも性質の違う頑固者だったから致し方ないとはいえ飽きもせずよくやるものだと花京院と首を捻ったりもしたものだ。ページを捲るに連れてあの旅の記憶が鮮やかに蘇る。

 ―――延々と車窓を眺めているのに飽きた。華のない連中と顔突き合わせてるのも限界だ。潤いが欲しい。
 ―――ジョースターさんはトランプが得意らしい。花京院と一緒に大負けした。知ってたから承太郎はさっさと避難したんだろう。むかつくから今度孫に仕返ししてやるぜ、このいかさまじじいめ!
 ―――アヴドゥルとやりあったから承太郎に八つ当たりしにきたが、二人でこっそり酒を飲んだ。スカした奴だと思ってたが話のわかるやつだ。本当にティーンか?っていう疑惑は未だに払拭できねえ。

 感情のままに記しているのが見て取れる筆跡。自分の視線ではなく、ポルナレフの目を通して追想すると不思議と心も動いて、自然に承太郎の口元も緩んでいた。
 時計の針が昼過ぎを指している。つい読みふけっていたようだ。手帳をハンカチに包んで、慎重に懐へしまう。本人にばれなければ持って帰っても問題はないだろう。多少の罪悪感はあったが宝物を発掘したような心地で承太郎は立ち上がった。色あせた写真を手に、来たときよりも軽い足取りで家を後にした。




 話が終わったら声を掛けて下さいね、と隙を見せずココ・ジャンボから出て行った少年を見送って承太郎はため息をついた。どうにも警戒されているらしい。初めて会った際に拳銃使いの部下をぶん殴ったのが尾を引いているのだろうか。
「座ってくれ………あの子も思うところがあるだけさ、気にするな」
 紅茶を差し出しながら聞きなれたトーンよりも低音で笑うポルナレフの姿は、未だに見慣れない。空を切り取ったような澄んだ瞳が一つ隠されているのも気に入らないし、痛々しい足や指も気に入らない。眉間を険しくしないよう努めながら彼の向かい側の席に腰を落ち着けた。
「…何か不便はないか」
「まさか。ジョルノたちも良くしてくれているし、それは財団を通してお前にも伝わっているだろう?」
 死人であるポルナレフはここから出ることができない。何かよくないこと、例えばギャングの抗争であるとか、危険に巻き込まれたとき、彼は満足に助けを乞うこともできないのだ。そういった最悪の事態に備えて亀ごと手元に置いておきたいのだが、当の本人は首を縦に振らない。愚痴の一つでも零してくれれば無理矢理にでも拡大解釈して彼を連れ出す理由にしてみせるのに。内心くさくさしながら渡されたカップを傾ける。かつて抱いていた恋情と心を許せる仲間への思いが彼を間近に縛り付けたいと願う。まるで恋に取り憑かれた愚か者の科白だ、もう割り切ったはずなのに。
「アレはちゃんと捨ててくれたか?」
「……回収した物だ、受け取れ」
「ん?」
 核心をつく言葉にひやりとしたが持ち前のポーカーフェイスで年月に色素を奪われた写真を懐から取り出す。呆気にとられたポルナレフが口を開いたままそれを見つめて数秒、形作るのに失敗した笑みを浮かべた。
「持って帰ってくるなと言ったじゃあないか……」
「燃やしたりしたらおれが屁をこかれる」
「………それは、否定できないが」
 きちんと写真立てに入れたそれを渋々といった様子で受け取った彼は、言葉とは裏腹に目元を和ませた。褐色の男と制服を着た少年、小さな犬の輪郭を優しく撫ぜていく。銀色の睫毛が伏せられて、承太郎は叩こうとした無駄口を引っ込めた。
「持っていたってバチは当たらないだろう」
「……。もうすぐ会えるのだから、写真は必要ないだろう」
「てめえ」
 乱暴な語調になりかけて、まごついた。ポルナレフの瞳に悲しげな光があったからだ。亡き仲間たちを辿る指先は慈しむように優しい。
「感傷に浸るなんて年寄り染みたことはしたくないんだがな」
 漏れた呟きは落ち着いたものだったが眼帯に覆われた目がうっすら濡れているように見えて、二の句をつげない。下唇を噛んで反論の言葉が出てこない悔しさを紛らわせた。ポルナレフの視線は過去に囚われたままこちらを見ようともしない。
「飾っておくよ……ジョースターさんが撮って、お前が取り戻してくれたこの写真を」
「…そうしてくれ」
 彼のことになると簡単に心を乱される自分が滑稽で、一言答えるのが精一杯だった。





 キーボードを叩く音が無機質に響く。頭に靄がかかったようにうまく言葉が出てこない。体が重くなっていることに気づいて承太郎は背もたれに体を預けた。険しくなっていた眉間を揉みほぐして、一息入れようと立ち上がった。深夜の研究室には誰もいない。ごぼごぼと音を立てるコーヒーメーカーの傍らで件の手帳を開く。持って帰った当初こそ後ろめたい気持ちがあったが、最近では日常の合間にポルナレフの世界を覗くことが日課になっていた。

 ―――今日はジョースターさんと同じ部屋だ。あとでこっそり抜け出して、可愛こちゃんとお喋りしに行こう。
 ―――ちくしょう、ばれた。おこられた。

 独り言ばかりが記されるそれは驚くほど自分に滑り込んできて冷えていた心がほころぶ。ベッドに潜り込んで寝転んだまま、だらしなくペンを滑らせている姿が瞼の裏に浮かぶようだ。
 熱いコーヒーを手に給湯室のパイプ椅子に腰掛ける。同じ銘柄の吸殻が溜まっている灰皿を手元に手繰り寄せて、ポケットから煙草を取り出す。以前煮詰まったとき息抜きにと思い出したら喫煙の習慣が戻ってしまった。気を遣うべき妻子と離れてからは他人と深く関わることもなくなって、雰囲気も変わったのか自分では知りようもないが、同僚にも遠巻きにされている。笑顔を振りまいてフレンドリーになんて柄ではないし、特別親しい人間がいるわけでもないので困ったことはないが、元暴走族だのとはやし立てられている現場に居合わせてしまったときには少し笑った。すこしやんちゃではあったが、暴走した記憶はない。
 ニコチンが舌に張り付く。煙を吐き出すのに合わせて凝り固まっていた筋肉から力を抜いて、頭の中を整理する。

 ―――承太郎とぐだぐだ喋ってると花京院が部屋に入ってきて、煙たい!と喚いた。ここはおれたちの部屋だっていうのに。仕方ないからベランダで吸うハメになった。
 ―――寒いと布団に潜りに来るイギーが朝起きるとだいたいおれの顔にケツ向けて眠ってやがる。爆笑してだれもどかしてくれないし、あのクソ犬たまには他の毛布に入れよな!
 ―――買い出しの途中で女の子に声を掛けられた。喜んでお茶に誘おうとしたら女の子はみんな承太郎の方を向いてる。ちくしょうおれだってハンサムだろ?!東洋人が珍しいだけだろ?!

 短い日記に自分の名前が出るたび、少し浮き足立つ。なんとはなしにこぞばゆいような、ポルナレフから見て自分がどんな存在だったかが垣間見えて面白い。旅が佳境へ向かいはじめるのと同時に、自分に対しての記述が増えているような気がする。
 じっくり読んでいたそれを持ち直そうとして、指から手帳がこぼれ落ちる。慌てて拾い上げるが年季の入ったそれの表紙を引っ張った瞬間、ばらばらと中身が散らばっていく。やってしまった。持ち主に謝罪しつつ、気落ちしながら紙を拾い始める。どうにか元あった形に近づけようと手に取ったそれに目を通した。

 ―――こんなことになるなら、伝えとけばよかった。もう一生会うことはないと分かってれば言えたのに。
 ―――好きだ、承太郎、お前に会いたい

 拙い文字で書かれた一文に心臓が疾走しはじめる。ところどころ歪んでいる文字は何かの液体でよれていて、それが彼がこぼした涙だと気づくのに時間はかからなかった。震えてしまう指先で何枚か紙を回収する。

 ―――義足は慣れないが車椅子を押す筋肉は残っていてよかった。これなら一人でも生活に困らないだろう。
 ―――無くなった足が痛い、眠れない
 ―――承太郎たちはどうしてるだろう、探してほしくない、奴は危険な男だ
 ―――一人が苦しくてさみしいのはあいつらのせいだ。ずっと一人で生きてこれたのに、おれを仲間にして、一人じゃないって思わせて、また届かなくなるなんて、本当にひどいやつらだ
 ―――生きなければ、死ぬわけにはいかない。
 ―――承太郎は無事だろうか、同じ空の下であいつが生きてると思うと希望が湧いてくる。アヴドゥル、花京院、イギー、あいつを見守ってやってくれ。

感情の記しているのが見てわかる筆跡。筆圧が強い。祈りにも似た独り言のそれは真っ直ぐだ。
承太郎はぐっと胸を抑えてそのまま立ち上がれない。何を見つけても持って帰るなよ、そう零しながら歳を重ねて寡黙さを覚えてしまった想い人の儚げな笑みが弾けて消えた。
頭が真っ白になっている。彼と過ごした僅かな時間をさらうが、時間が経ち過ぎていた。50日。その短くて鮮烈な記憶を抱いて過ごしていたのか。
激情が胸中を荒らしている。後悔とも絶望ともとれない重苦しい息を吐き出しても、承太郎は仕事に戻る気にはなれなかった。


「どうしたんだ、承太郎。お前に会えるのは嬉しいが、ここに出入りするのはあまり良い事ではないんだぞ」
 3度目のイタリア。ポーカーフェイスを保っていた金髪の子供にも怪訝な顔をされたが、それでも彼に会う必要があった。あの家の整理を、遺品を綺麗にしたいと申し出たのはポルナレフにとって恐らく賭けだったのだ。それも勝率なんてないに等しい、自分勝手で自己満足しかないもの。彼を卑怯だとは思わない。
「長居するつもりはないさ、一言伝えに来ただけだからな」
「……忙しいだろうに、わざわざお前が訪ねて来るほどの事か?」
「そうだ。おれが言わなくては意味がないものだ」
  ソファに座りもしないまま車椅子で近付いてくる青い瞳を見下ろす。空を思わせるその瞳が、大好きだった。

「捨てたぞ」

 何をと問おうとしたポルナレフが片方の目を見開く。ひゅうと息を吸い込む音が亀の内部を満たした。或いはとぼけられるとも思っていたが、ポルナレフは深く頷いた。
「そうか」
「………」
 言葉は返さない。彼を想っていた事実を伝えることは、生きているものは前を向かなくてはいけないと言い切った彼を侮辱することにもなりかねないし、どれほど深く強いものであったとしても、それは過去だ。受け取った。その真実だけが必要なものだ。義手を見詰めて俯いていたポルナレフが顔を上げた。晴れやかな笑顔を湛えている。
「承太郎、」
「なんだ?」

「ありがとう」

 頬に伝うそれを見たくなくて、見せたくなくて、抱き締めた。薄い背中に腕を回して、くすぶって行き場をなくしていた想いも込めて力を入れる。衝動的で乱暴な抱擁。ポルナレフもぎこちなく背中にすがりついてくる。コートの肩口がしっとりと濡れていく。

「もし、生まれ変わったら」
「今度は初恋が実るといいな」
「心から、そう思う……」

 どちらともなく腕を離して、濡れた唇に唇を重ねて。
 そしてそれが、彼と会った最後の記憶となった。






「あッ、承太郎てめえ、人の日記覗いてんじゃあねえ!」
「見られたくないならベッドに散らかすな。いつから書いてる?そんなマメなところがあったとは意外だな」
「うるせえ少しは悪びれろよ!」
「……あの旅からか?随分長いな」
「見んな!遡るな!」
「…………」
「じっくり読むなァアア!返せ!スタープラチナ使ってまで人の日常盗み見るんじゃあねえこのアホッ」
「……そういやポルナレフ、来月、アヴドゥルたちがこっちへ来るそうだ」
「懐にしまうな、返せ!」
「何故だ?内容のほとんどがおれへのラブレターみたいなものなんだから構わないだろう」
「〜〜〜!!」
「顔真っ赤だぜ」
「ああああもうッ!もうおめーなんか知るかッ!出ていってやるアヴドゥルと浮気してやる!」
「そう怒るな……悪かった」
「ちゃんと反省しろトンチキ!今日はお預けだからな!」
「それは困るな。明日から学会でこっちには帰れないんだぞ」
「おーおー仕事しながら後悔してろ!」
「…………、ポルナレフ」
「可愛い顔したって許さねえから な。おやすみ!」
「……嫌がるお前を組み敷くのも嫌いじゃあねえから、おれはいいぜ」
「なんでそーなんの?!」
「ポルナレフ」
「なんだよ」
「悪かった」
「……チーズセット」
「……分かった」

「今日も愛している」
「おれもだ」
end.


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -