△三部中、アヌビス神戦後
△承→ポル


 包帯が丁寧に巻かれた腹を撫でて、承太郎は組んでいた足を真っ直ぐに伸ばす。傷の痛みは波紋で和らいでいるし、すぐにふさがるだろう。目蓋を閉じると昼間の戦いの様子が浮かび上がってくるのはいまだに神経が尖っているからだ。ここまで旅を続けてきて熾烈な戦いも潜り抜けてきたが、あれほどの恐怖を感じたのは、初めてだった。
 先ほどまで丁寧に処置を施していた男の背中が丸まっている。小さく振り返った白い頬がほんの少し膨らんでいた。
「…なに拗ねてる」
「べつに!」
 口とは逆に後片付けをする手つきは荒れていった。ついさっきまでは火が消えたように静かだったというのに、大きな音を立てて救急箱を閉めている。よくわからない男だ。
 そもそもこのポルナレフという男はわからないことだらけだった。怒ったと思えば昼食の肉一つで笑い、上機嫌に鼻歌をうたっていた次の瞬間には照りつける太陽に文句を言い始める。目まぐるしく変わる感情を全身で表す男に内心で首を傾げることは多かった。
 極めつけは家族の仇討ちにと旅の一行に加わり、しかしその目標が果たされた今も同行し続けているということだ。戦力はいくつあっても足りないので国へ帰れ等と言いはしないが、共に来る理由は尋ねたことがない。しかし戦力という意味でなくとも、と伸び上がっている男を改めて見る。薄い服の下から盛り上がった筋肉がこれでもかと主張しているそのさまに、目を奪われる。
 喜怒哀楽がころころと変わるところも、このごつごつな筋肉に覆われた体も、抱き締めて触れてみたいと思うのだ。理由なんてわからないが、それが承太郎の素直な欲求だった。この感情になんて名前をつければいいか、ずっと考えていた。友情と言い切るには熱すぎて、親愛だというには大げさすぎる感情―――承太郎を悩ませていたそれは今日の戦いの中で、ようやく形になったのだ。
 唇を尖らせて腕を組んでいたポルナレフが承太郎の視線に気付いて、視線の置き場に困っているようだ。投げ出した足の先を見て、蛍光灯を見て、床を睨み付ける。口を閉ざしていても感情表現が豊かな男だ。
「おい」
「なッ……なんだよ」
 裏返った声を隠すようにポルナレフは肘を抱いた。
「なんで怒ってる」
「怒ってもねえよ!」
 拗ねているのではないのならこっちだろうと思っていたのだが、なんでそうなるんだよ、と肩をいからせている姿は今度こそ怒っているようにしか見えなくて口を噤む。乱暴な音を立てて座り込んだポルナレフの重さでベッドが軋んだ。
 治療も終わったのだしと横になるよう促した声色がとげとげしいことに自分自身でも気付いたのか、ポルナレフはまた黙り込んでしまった。ふかふかの枕に頭を埋めて体を寝かせると知らずに力んでいた筋肉からも力が抜けて、自然と呼吸が落ち着く。手当ての前にシャワーを浴びておいたのでこのまま眠ってしまいたいところだ。けれど傍らの男が長考しているようなので意識を手放すことはしなかった。
 考える前にすべてを口に出し猪突猛進を体現したような男が、むすっと唇を尖らせて言葉を捏ねまわしているのだ。珍しく。その姿は勉強嫌いのこどもが宿題を前にしている風に見えて、少しおかしい。
「……やっぱり、怒ってる」
「何にだ」
 重苦しい口調で告げたポルナレフはやっと承太郎と目を合わせた。晴れた日の空をそのまま溶かし込んだような瞳が、断言する言葉とは裏腹に揺れた。むっつりとしたぶさいく顔のままタオルケットをたぐり寄せて承太郎に掛けながら言葉は続いた。 「全部だよ…そう、全部!」
 一度口に出すと考えがまとまったのか、低く吐き出された言葉に感情がこもった。
「敵の術中にハマっちまったってことも、お前と戦ったってことも、その記憶がないってことも!お前を傷つけたって、こと、も」
 怒りのままがなり立てていた声が震えている。両手がいつもより白くなっていて、男の激情がシーツを伝わって流れ込んでくる気さえした。ぽたりぽたりと、まだらな染みがよれた布に描かれる。
「…ごめん、じょうた、ろ」
 後悔に震える、死に敏感なこの男に、操られていた記憶がなくてよかったと心底思う。アヴドゥルが死んでいると思い込ませていた数週間、魘されていた横顔は今も鮮明に思い出せた。後悔と焦燥と罪悪感に押しつぶされそうになっていたあんな顔は、もう見たくない。
 しゃくりあげる肩に触れるとざらりと砂の感触がした。指先から熱いほどの体温が二人とも生きているのだと訴えてくる。涙で光る瞳は日の光で輝く海のようだったけれど、美しいとは思いたくなかった。悪戯っぽく光ったり嬉しそうに煌めくほうがずっといい。
「…シャワー浴びて、そのツラどうにかしてこい」
「ん……」
 手の甲で瞼を擦る仕草はやっぱり子供じみている。よろよろ覚束ない足取りで素直に浴室に向かう背中が途中であっと振り返った。痛々しく真っ赤になった目元がふんわり綻ぶ。
「あと、もう二人では出かけねーってとこも、むかつく」
 にっと笑顔を見せてからポルナレフは部屋の奥へと消えていった。ややあって水流が壁に叩きつけられる音が聞こえて、ようやく目を閉じる。
 水音に混じって音のはずれた鼻歌が聞こえてくるのが、何物にも代えがたい幸福のように思えた。瞼の裏にこびりついた光景も、先ほどよりは神経を削らない。
 殺意を孕んだよく知る声。一瞬の隙もなく振り下ろされた剣。
(だが恐ろしかったのは、自分が死ぬかもってことじゃあねえ)
 血を流しながら飛びかかってくる男を止める術が見つからず、浮かんだ一つの選択肢。思いついたと同時に背中に氷塊が滑り落ちた。例えそれを実行して戦いに勝利したとしても、己の心を打ち砕いてしまうほどの苦しみを生んだだろう。
(お前を殺してしまうかもしれないってことが、たまらなく怖かったんだ)
 そして戦いのさなか、思い知ったのだ。―――何があってもおれはこいつを殺せない、と。
 患部を布の上から撫でると、仏頂面をしながらきっちり包帯を巻いたポルナレフの指先の温かさが残っている気がした。仲間を傷つけてしまった事実に、彼はまた苛まれるのだろうか。
 はっきりと名前の付いたばかりの感情が彼の泣き顔にくすぶる。そんな顔をしなくていいと抱きしめて、後悔に震える肩に温もりをわけてやれたらどれほどいいか。けれど彼本人が気持ちにケリをつけなければそんな慰めは意味をなさないだろう。
 ポルナレフが悪夢を見なければいい。明日にはいつものように笑っているといい。そう願いながら、承太郎はゆっくり眠りに落ちていった。

(2015.02/16)
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