※ポルナレフの地元を捏造してます
#5


 長い列車の旅を終えて、その次はレンタカーに乗り込んだ。道すがら腹が減ったと言っては車を止めて、可愛い女の子が困っていたら車を止めて、でこぼこした整備されていない道がお互いを揺らす頃には口数がずいぶんと減った。
 隣に座って地図とにらめっこしていた承太郎はろくなビルもない田舎町を時折見回しては目を細めている。イギリスとイタリアには行ったことがあると言っていたがこんな田舎まで来るのは初めてなんだろうか。田舎なんてどこも変わらない、子供がうんざりするような山、カエルの泳ぐ田んぼや鬱蒼とした森ばかりだと思う。都会にもまれてようやく真価を見いだせる静かな場所。少なくともポルナレフと妹は幼い頃、大きな街に憧れていた。
 そんなポルナレフはといえば正直なところ、ここまで来て今更一種の恐怖を感じていた。妹の仇を討ち取っての凱旋だというのに、気分は沈んでいく。じくじくと心の端を蝕む感情が故郷への足取りを遅らせていた。なぜかと考えるのも胸の内が黒々とするし、現実逃避したまま目的地は近づく。承太郎を故郷へ誘ったときは単に生まれ故郷と家族を紹介したかっただからだけれど、良い選択だった。少なくとも怖気づいて情けなく踵を返すことはしないだろう、こいつが隣にいてくれるなら。

「日が落ちて来たな」
 地図を丁寧に畳んだ承太郎がこちらを見るのを肌で感じた。真っ直ぐすぎる視線が突き刺さって、様子がおかしいことはとっくにばれていると悟る。軽く頷いて、見詰められることに居心地が悪くなってアクセルを踏み込んだ。
 生家へは遠いので車に乗ってからも一泊挟むことは伝えてある。あとは道なりに進んでいくだけでそう遠くはないが、なにしろ道が悪い。おまけに街灯も頼りないので誰かを乗せて強行できる距離でもないのだ。危険をおしてまで急ぐ旅路でもなし、この辺りまで来れば記憶を頼りに宿を探すこともできる。
「車、止めて来る」
 人通りもまばらで安全だとは言いづらいが承太郎なら問題ないだろうと踏んで駐車場を探す。人口の少ない街はゆったりと時間が流れていて、ぼんやりしながらジャズでも聞きたいところだ。
 どこからか菓子を焼いている匂いが漂ってくる。祖父母の家を訪れた時にいつも嗅いでいた甘ったるく、懐かしい薫りだった。妹が好きだった、祖母の手作り菓子。
 脳裏を支配するようにわっと記憶が蘇ると胃が竦み上がった。咄嗟にブレーキを踏んで口を抑える。座っているはずなのに感覚がなくなって倒れてしまいそうになる。頭が重い。待たせているんだから、急がなくてはいけないのに。目の前がちかちかと現実味を失っていく。脳裏に響く甲高い笑い声。無邪気で愛おしい瞳。手をつないで訪れた祖父母の家。あの薫りもまた幸せの象徴だった。過ぎ去って戻ってこない、幸せの。
 おにいちゃん。柔らかい声が鼓膜に焼き付く。花を愛で、友人と駆け回り、勉強に顔を顰めていた、ただの少女だった妹。
 おにいちゃん、おにいちゃん、ねむれないの。寂しそうにうつむくと、長い髪が丸い頬に影を落とす。ミルクを温めてやって、お休みのキスを多めにして。ようやく落ち着いた様子で部屋へ戻る背中に一緒に寝るかとおどけてみせると、恥じらい混じりの罵声が飛んできた。兄妹二人、支えあって生きた。
 ゆっくりと深呼吸して、前のめりになっていた姿勢を正す。考えるのはよそう。背を伸ばしたら少しだけましになって、その隙に駐車した。

「遅かったな」
 住民からじろじろと見られて手持ち無沙汰だったのだろう、地図を広げて観光者然と街に溶け込もうとしていた承太郎がコートをたなびかせた。片手を上げて謝るそぶりを見せるとため息をつかれる。顔を見ると鉛のようだった足に羽が生える。それでも態度についての言及はないのだからこいつってば人間ができてるよな、と誰に対してでもなく誇らしげになった。二つ並んだ影が細く長く伸びている。
 こぢんまりとした宿を営んでいるのは人の良さそうな老夫婦だった。部屋も空いているから、と二部屋もらってしまった時の承太郎の表情は苦い虫を噛み潰してしまったような形容しがたいもので色男がちょっとだけ崩れる。一方ポルナレフは吹き出さないよう自分の足を踏むのに必死だった。
 案内された部屋でそのことを散々にからかった後、ぶすくれながらも律儀に自分の部屋へ戻ろうとする承太郎を引き止めた。
「話が弾んで雑魚寝したって言えばいいだろ」
「それもそうか…」
 そういう所クソ真面目だな、と揶揄ってベッドに寝そべる。靴を脱いだ承太郎が煙草に火を付けてやかましいと会話を切り上げた。図星だった時や恥ずかしがっているときの常套句が可愛くて己を身軽にしていく動作をにまにまと見つめる。いやらしい視線に耐え切れなくなったのか、承太郎はうんざり顔だ。
「何見てやがる」
「いやいやー?おれは可愛い恋人を見守ってるだけだぜえ」
「……。オラ、とっととシャワー浴びて来い」
 含ませた言葉には反応しない方向に決めたらしい。物理的にも一蹴されても構わず、ベッドにしがみつく。シーツを乱しながら自分の荷物を手繰り寄せ飲み物を取り出して水分補給。立ち上がればすぐの距離なのに腕を目一杯伸ばして横着しているのが気になるのか、呆れた様子でポルナレフを見下ろしている承太郎がシングル用のベッドに腰をかけた。
「明日も運転すんのはお前だろ、早めに寝ろよ」
「こんな時ばっかガキのツラしやがってこの〜ッ」
「免許はまだなんだから仕方ねえだろ…、第一こっちと向こうじゃあ勝手も違う」
「いけるって!花京院だって運転したし、承太郎なら楽勝で」
「断る」
 行儀悪くペットボトルを傾ける背中を言葉とは裏腹な仕草で撫でられてとてもむずがゆい。もっと粗雑に扱ってくれていいのに。相当おモテになる外見に似つかわず硬派な承太郎にとってポルナレフは初めての恋人のようだから、距離を図っているんだろうとは思っていてもだ。キスは何度か交わしたが、性的な接触もしてこない。これは恐らく別の理由も絡んでいるだろうから、焦ってはいないのだけれど。
 重い肩甲骨を回して承太郎の横顔を盗み見る、が、思いがけずばっちりと視線が絡んだ。こちらを射抜くきらきらした瞳にびくりと肩が跳ねて、取り繕うこともできない。
「な、なんだよ。どーかしたか?」
「いや……肩、揉んでやる」
 いーって!と笑いながら、筋肉をほぐそうと伸ばしてきた承太郎の腕を逆に引っ張る。思ったより簡単に転がってくる体を受け止めようとして、神妙な顔をしていた承太郎が焦って両手をベッドについて倒れ込むのは防いだ。スプリングが鈍い音を立てる。相変わらずすげえ反射神経だな。訝しげな抗議は受け流して近くなった顔を掴んで唇をくっつける。
「向こう着いたらワイン飲もうぜ」
「泥酔しないってんなら考えてやるよ」
 濡れた音に挟まる声は柔らかい。漏れる吐息すら触れ合う距離が楽しい。無抵抗の唇を捕まえて思う存分可愛がると少しずつ頬が紅潮していった。
「ポルナレフ…」
 声が甘さを帯びている。恋情に浮かされたままの真っ直ぐなもの。告白以来好きだなんて言わないくせに、目に、指先に、声色に、溢れんばかりの想いを乗せてくるなんて卑怯だ。もしかしたら以前からそうだったんだろうか。気持ちを隠すために細かい所作を見逃していたとしたらずいぶんもったいないことをした。こいつは全身で好きだと訴えていたのに。
 その分を埋めて聞き飽きたと言われるくらい言葉にしようと考えながら、ポルナレフは口付けた。気の済むまで、飽きるほど。



 運転席を飛び出して大きく伸びたのは次の日の昼頃。太陽が降り注いで暖かいせいか、承太郎は助手席で優雅に微睡んでいた。話し相手が眠ってしまえば頭がぐるぐる回り出して、寝息を立てる額を何度か小突いた。けれど、座っているだけといっても見知らぬ土地での長旅の最中でたたき起こすのも。自分に言い聞かせて気持ちが沈みそうになる度に車を止める。こっそり口付けては律儀にむにゃむにゃ反応する恋人を心ゆくまで弄り倒した。
 のんびりとだが目的地に到着してから叩き起こすと、承太郎は首を傾げた。
「思ったよりも時間が掛かったな」
 お前で遊んでいたせいです、とも言えず曖昧に笑ってろくに整備されていない道を迷わず進む。田舎は時の流れが遅くて、飛び出したあの日から何一つ変わっていない。
 まずは家族に挨拶だと一直線に墓地を目指すが、時折すれ違う住人が息を飲む音が聞こえて顔を俯かせた。中には名前を呼んでくれる影もあったけれど片手を上げるのが精一杯だった。足元の小石を睨んで承太郎の表情を確かめることもできない。何も言わずただ付いてきてくれる足音が有難かった。説明を求められても言葉にはできないから。
 歩いた時間は長くない。あっという間に民家の並びを通り抜けてもっとひとけのない道へ入る。誰とも会いたくない一心で足早に通り過ぎて捧げる花も買えなかった。失敗したなあと思っても引き返す勇気もない。
「本当になーんもねえだろ?美味い飯屋はあるんだぜ!あとで連れてってやるよ」
「お前よりもか?期待しておくぜ」
 無言のままでは思考も良くない方へ引っ張られていきそうで他愛もないことを口にした。ざくざくと砂利道を進む。墓地の入口のアーチが目に入ると心臓がやかましく鼓動を早めて足までも震えそうだ。仇を討ち果たしたことをやっと報告できるのだから、これは武者振るいだと言い聞かせて声を張り上げた。
「おれなんか足元にも及ばねーって。昔ながらのママンの味だからな!っていうかウチどうなってんだろ。三年もほったらかしだからまず掃除だよな、キッチンと寝室だけは使えるようにしねーと。ねずみの巣になってたら困るよな〜、家を出る時に食いもんは処分したけどさ。おめーの家でも家事ばっかしてたのにこっちでもやることになるなんて、もうおれ家政婦にでもなろうかな。どう?ハンサムが貴方のお家をお掃除します、とか。あー、シェリーたちの墓も綺麗にしなくちゃあな!きっと待ちくたびれ、て」
 臆病な自分を振り払うように口を動かす。無理に頬を持ち上げて明るい調子でやいやい話しかけ続けた。
 けれどふわりと優しい拘束に阻まれてポルナレフは肩を跳ねさせる。そうすると足は全く動かなくなって全身が震える。承太郎に抱きしめられて、背中から体温が伝わってくる。お互いに表情は窺えない。
「もういい」
 低く抑えられた声は小さくて春風にかき消されそうだ。周囲からは呑気な鳥の歌声しか聞こえず、さんざん音を立てる心臓が承太郎に聞こえてしまいそうだった。
「お前にそんな顔をさせたくて来たんじゃあねえ。今つらいなら来年でも、その次でもいいんだ。お前が会いたくなったらで」
「…家族に会うんだぜ、つらいも何もあるかよ。離せ、承太郎」
「だったらなんで泣きそうなツラしてやがる」
 見てねえくせに!抗議しようとした口から漏れたのは震えた吐息だけだった。酸素をうまく吸い込めない。
「お、れ」
 吐き出した言葉はみっともなく揺れている。腹に回された腕の力が強くなっていっそう体が密着すると振り払いもできず、俯いてぼたぼたと瞳から流れる水滴で承太郎の手を濡らした。違うのに、つらくなんてないのに。
 ふとあの子の声が蘇る。甘やかな声が誘うように呼んでいる。頭の中はふわふわと再び輪郭を失って、体に触れる承太郎の体温だけが確かなものだった。ぐしゃぐしゃに歪んだ視界には何もうつらない。
 だいすきよ。そう言ってくれたのはポルナレフの誕生日だった。いつもは気恥ずかしくて言えないからと視線を逸らされても、何よりも嬉しいプレゼントだった。若さ故の未熟さもあった自分を自慢の兄だと言い切ったことも。本当に、優しく家族思いの少女だった。
 なぜ奪われなければならなかったんだろう。
 泣いている理由なんて自分でもうまく説明できなくて、与えられる温度に身を委ねきることもできなくて、ポルナレフはいよいよ立ち尽くすことしか出来なかった。目蓋の裏で愛しい笑顔がはじけて、消えた。


 促されるまま挨拶もせずに墓地をあとにしたことが心に引っかかったまま、生家を見上げる。他の民家と変わらない茶色っぽい屋根の家にたどりついて、ようやく強ばった体が緩んだ。庭の雑草は伸びたようだけれど、他は変わっていない。どことなくがらんどうに見えるのは何年も人間が住んでいないからだろうか。沈む気分を振り払って、務めて明るい口調で告げた。
「おれ、恋人泊めるの、初めてかも」
「…邪魔するぜ」
 お前がおれの部屋に泊まるときみてえに、遠慮なく。わざとらしいおどけた口調が似合っていなくて、ポルナレフはうっかり吹き出した。しゃちほこばっていた足を踏み出して郵便受けを探る。中には何通か手紙が入って、でも消印はない。埃をかぶっているそれらは三年前にここへ持ってこられたものなんだろう。どの筆跡にも見覚えがあった。
 また目頭が熱くなるのを歯を食いしばって耐え、壊れ物を扱う仕草で埃を払って手紙を抱いて、鍵を取り出す。不思議なことに鍵は汚れていなかった。古びた鍵で開錠して玄関を開く。宣言の通り遠慮のない足音を背中に受けながら内部を見て回る。
 おかしい。家具が減ったでなく妙なものが置いてあるのでなく、放置していた年数に反して部屋は綺麗なままだ。怪訝な眼差しで部屋のあちこちを見て回る。床は時折ぎしぎし鳴って他人行儀だ。雛のようにいちいち後ろをついて来る承太郎を引き連れて違和感の拭えない家を一部屋ずつ覗いていく。
 リビングにその答えがあった。家族が団欒していたテーブルの上に、勝手に入ったことへの謝罪と、無事を祈る手紙が置いてある。筆跡は手紙と同じものばかりで、両親を失ったポルナレフ兄妹を何くれと世話してくれた友人たちだった。簡素なメモに走り書きしたらしいそれは一つではない。田舎町だから鍵の置き場も仲の良い友人たちは知っていたけれど、勝手に飛び出していった奴のことなんか放っておけばいいのに。滲む涙を腕でごしごし拭った。
「突っ立ってることねえよな、ちょっと座ってて」
「ああ」
 頷いたものの承太郎は部屋の中のものに興味津々だ。きょろきょろと辺りを見回して母が集めていたティーカップを覗き込んでいる。ポルナレフは手紙をまとめてテーブルの端に寄せた。今読むと明日どこへも行けないほど泣いてしまいそうだから、また後日に。持ってきた茶葉を片手に湯を沸かし始める。
「なんか面白いもんでもあったか〜?」
 座ってろと促したのに承太郎は本棚の前に突っ立っている。紅茶を手に隣へ近寄って覗き込む。分厚いそれはアルバムだった。母の丁寧な字で綴られる家族の記録。腫れぼったい目蓋を上下にするとカップを奪った恋人が掠め取るように頬へ口付ける。小さく添えられた礼の言葉はフランス語だった。音もなくソファに腰を落ち着けるのも絵になっている。
 気障ったらしい真似が悔しいほど似合う美形を悔し紛れに睨んで、どくどくやかましい心臓へのせめてもの抵抗として向かいに座った。二人して黙り込めば部屋は紅茶の香りで満たされていく。ゆっくりとページを捲る承太郎は年下を慈しむ兄のような目で過去の自分と家族を見下ろしていた。
 久しぶりの帰郷なのだから懐かしい部屋を見てまわろうにも、目の前の恋人が気になる。記憶にないほど幼い自分が写っているアルバムをまじまじと見られるのはなんとなく落ち着かない。そうは思っても承太郎の部屋を片付けた折、家族写真をみせろみせろと強請ったことがあるのは事実だし、止める理由もない。日本に赴けば同じことを自分がするだろう。
 そわそわと尻が浮く気持ちで紅茶を啜っていると頬に何かが触れる。ぎょっとして振り向けば承太郎の精神であるスタープラチナがいつの間にか顕現していた。本体によく似た、どこまでも見透かす瞳に感情は見いだせない。恋人を見ると変わらずアルバムを眺めている。なんだと問おうとして、伸びてきた筋肉質な腕にがっちりと顔を掴まれて至るところにスタンドの唇が落とされる。熱いわけでも冷たいわけでもない、不思議な感触が肌に触れる。
 額、目蓋、頬、唇。手を取って爪の先へ。音も立てず、羽が当たるような感触が残る。むき出しの肩や硬い二の腕にまでも優しく触れて、最終的には腕の中に閉じ込められた。スタンドを介して承太郎の気持ちが流れ込んでくるように思えるのは、こいつが精神そのものだからか。釣られて心がぽかぽかと温かくなった。見下ろしてくる目を見つめ返す。
 物心つく前からスタンドを使役していたポルナレフには、それがどういう存在なのかよくわかる。自身が悲しめば弱った己を守ろうと鎧う。怒りで闘争心が強まれば限界を超えて力を発揮する。精神をそのまま形にしたのだから感情に左右されるのは当然の結果だ。そして誰も自分の心を偽ることはできない。
 こうしてスタープラチナに触れるのは、承太郎の心に触れているのと変わらないのだろうか。腕を逞しい背中に回して甘えてみる。心臓の脈打つ音は聞こえないが、いっそう承太郎の心に近づける気がした。
 守りたい、自らの手で守ろうという意思が直接注ぎ込んでくる。さっき涙を流したせいなのか回された腕の力は強くない。まるで壊れ物を扱うような仕草。顔を上げると水面に似た透明感を持つ瞳がポルナレフを見守っている。惜しみなくくれた愛情のお返しに背筋を伸ばして唇をくっつけた。
「おい」
 突然スタンドが掻き消えてポルナレフを睨む本体の方がおそろしげな声を投げた。宙に漂ったままの腕がなんとなく不格好だ。向き直る前に隣へどさりと座った承太郎が膝の上へポルナレフを乗せた。
「そういうことはおれにしやがれ」
 自分からやり出したくせに、いっちょまえに嫉妬したらしい。間髪いれずに
「スタープラチナだっておめーだろ」
 返せば無言で腰を抱き寄せられた。胸筋あたりに当たる帽子が邪魔なのでさっさと取り上げると微かに赤くなった目元がじとりと恨めしい雰囲気を纏って見つめてくる。
「可愛いな、承太郎」
「やかましい。落とすぞ」
 物騒な口とは裏腹に腕は固定されている。そういうところが可愛いんだけど、とポルナレフは笑った。答えないまま承太郎が口で口を塞いでそれ以上の追求を許さない。濡れた音に挟まった吐息が口元を擽っていく。
 あんなに荒れていた心が、承太郎といると凪いでいく。
 触れた唇からは同じ紅茶の香りがした。
 

 日も落ちて長旅の疲れもあるだろうからとさっさと寝室に引っ込んだ。両親が使っていたベッドは気恥ずかしくて使えないから、自分用だったシングルへ。二人で寝転べば狭くて密着するハメになる。恋人相手に遠慮することもないとは思うが、やっぱりベッドは渡して自分はソファで寝ようと踵を返したところ、承太郎に抱き寄せられて腕の中に落ち着いた。いつもの口癖を呟きながらしっかりと体温を伝えてくれるのが嬉しくてそわそわと足でシーツを乱した。
 お互いの心臓の鼓動まで聞き取れる距離。柄にもなく緊張して軽口も出てこず、なんて声を掛けようかと悩んだ。子供のように泣いて情けないところを見せてしまったり、勝手な理由で予定を狂わせた。しかし謝罪するのも妙だ。うんうん唸っても、腰に回された腕のおかげで寝返りすら打てない。拘束しなくても後ろは壁だし、どっちかっていうと承太郎は自分が蹴り落とされないかの心配をした方がいいと思う。つらつら考えて、ちらりと片目で様子を窺った頃には穏やかな寝息を立てていた。――ほんの少しだけ腹が立って、頬を抓った。
 恋人の深い呼吸につられて目を閉じる。
 飛び出したあの日、ここへはもう戻らないだろうという確信があった。妹を理不尽に奪われた自分は憎悪にまみれて、他人を愛したりできないだろうとも。そのどちらもを覆してくれたのは承太郎だ。言葉少なに包んでくれる背中に腕を回して優しさを享受する。意地を張ったり虚勢で強がってみせたりしたが、これが幸せというヤツなんだろう。
「シェリー…」
 こぼれた名前は揺れていた。体も震えて承太郎の胸元を涙がしっとりと濡らしている。
 ―――そうして唐突に、自分を蝕んでいた感情を思い知る。家族以外を愛することが、彼らを忘れてしまうことに繋がるのではないかと思って、後ろめたかったのだ。黒々と侵食していた靄が明るみに出る。自分だけが承太郎と愛し合って、未来に足を進めていく。妹は恋も知らずに殺されたのに。好きな相手からの想いをもらって、笑顔で生きていくべきは妹だったのに。
 そんな馬鹿な考えは愛してくれた家族を侮辱することになる。そうは思っても思考は止まらなかった。
 ひとり残されてしまった。自分が忘れてしまえば彼らの笑顔や柔らかな声を知る人はいなくなってしまう。それがひどく悲しくて寂しく、ポルナレフを縛る。復讐の旅をしている間は良かった。将来のことなんて考えず憎しみに浸っていればなんとか立ち上がって歩くことは出来た。悩む余裕も暇もなかった。
 けれど憎い男を殺したとき、「妹を殺された兄」ではいられなくなった、決着はついたのだから。今は「J=P・ポルナレフ」という一人の人間として歩かなければならない。それは家族の死に向き合って受け止めなければできないことだ。あの旅の最中ではそんな事を考える時間がなかったが、きっと今がその時なんだろう。そうでなければ一緒に歩もうとしてくれている承太郎にだって申し訳が立たない。
「……っ」
 心に嵐が吹き荒れている。激情と呼ぶに相応しいものが胸中に渦巻いて吐息が弾みはじめた。妹を愛しているのと同じくらい、承太郎を好きだと思う。悲しんでいるのなら涙を拭いたい、喜んで笑うなら分かち合いたい、苦しんで悩むなら手を伸ばしたい。どちらも同じように大切なら、新たに記憶を積み重ねていく承太郎の方の比重が大きくなって、いつか家族を忘れてしまうのか。そんなのは嫌で、ありえないと思っていても未来は誰にも分からなくて、それでも承太郎の手を離したくない。
 なんて臆病で我が儘なんだろう。
 涙を止めなければ承太郎を起こしてしまう。そうと分かっていても、ポルナレフは承太郎の服を濡らし続けた。シャツが水分を吸い取って色が濃くなっている。せめて起こさないように、ひっそりと涙を落としていく。
「…ポルナレフ」
 掠れた声が響くのと同時にシーツが擦れた。承太郎の足がポルナレフに絡みついて、触れていない箇所などない程に体が密着する。抱きしめられているというよりは抱き枕にされていると言った方が近いが、どこからも伝わってくる体温に涙の量が増えた。上手く開かない喉で呼吸しながら抵抗しても承太郎は力を緩めない。
「泣けよ」
 もう泣いてるよ! 抗議したくても意思とは関係なくしゃくり上がって跳ねる体は言うことを聞いてくれない。近すぎて表情なんて分からないが、ぬいぐるみにでもなったように承太郎は微動だにしない。みっともなく泣きながら、無条件で甘やかしてくる年下の恋人はやっぱり気障に見えて、垂れてきた鼻水をシャツで拭いてやるつもりで鎖骨に頭突きした。
「じょ、た…ろ」
「なんだ」
「…すきだ」
「知ってるぜ」
 低い声は、全部理解していて尚許してくれているようだ。真っ直ぐな優しさが嬉しくて、ゆえに苦しい。
「好き…ッ…すき……!」
「おう」
「ご、めん」
 腕も足も力が増して、言外に謝罪を遮られて苦しくなる。
 相変わらず涙は止まる気配を見せない。思考だってあやふやで纏まらない。それでもいいと、耳も目も塞いでくれる恋人に、今は甘えよう。今夜だけは。


 目蓋が重い。鏡がなくても自分がひどい顔をしているのがわかる。鼻を啜って二酸化炭素を吐き出すと体中がだるい。頭はちょっと痛みがあるが、散々泣いたお陰か妙にスッキリとしていた。
 狭いベッドなのにお互い寝返りも打たなかったらしい。正確に言うとポルナレフは拘束されたままなので身動きがとれなかったのだが、狭苦しい中でさらに縮こまっているお互いがおかしくて仕方なくて、くすくすと笑みが漏れた。
 承太郎はいつもより幼い顔で眠っている。まばゆい朝日のなか、ふっくらと厚い唇を人差し指でぷにぷに弄りながら幸福に目を細めた。
 今日こそは墓参りに行って、友人たちからの手紙を読もう。昼は昨日告げた場所で食べて、掃除と家の管理の感謝も伝えて、夜には手料理を振舞おう。大したものは作れないけれど、承太郎に自分の家の味を食べて欲しい。自分のことを、少しずつでも知って欲しい。そして教えて欲しい、承太郎のことも。
 これからもきっと自分はくよくよ悩むだろう。過去を振り返っては傷が痛むと騒いで泣くかもしれない。それでも歩いていける。――こいつが、隣にいてくれるなら。
 
「おはよう、モン・シェリ。良い朝だぜ」

(2014.05/11)
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