カレーを作ろうとしたら、鍋に穴が空いていた。そしてシチューの代わりにカレーを作ることさえ値しない。
 名前は底にポッカリと空いた穴をのぞき込んで、そう思った。
「どーしたんやぁ? 一体。まぁたアクタベはんにパシられとんの?」
「パシられてないよ。アクタベさんにご飯を作ろうとしただけだよ」
「え。それで……? もしかして……え、うわ。新たな上司イジメ?!」
「違うよ。たまたま、穴が空いていたというだけで……うわ。どうしてどれもこれも穴が空いてんだよ、最悪。なにか心当たり、ない?」
 台所で他の鍋を探していた名前は話しかけてきた悪魔、アザゼルにそう尋ねた。
 しかし、アザゼルは名前から顔をそむけたまま、なにも喋ろうともしない。
 アザゼルが見逃すはずもない――ヒップラインごと浮き出たヒップを衣服越しに触れるという絶好の――隙をアザゼルに見せた名前は、下の棚を覗き込んだ体勢のまま、アザゼルに振り返った。
「……ねぇ。なにか心当たりがないかって聞いてんだけど」
「し、知りまへんなぁ、わしにはなにも! もももももしかして、べーやんやったらなんか知っとりますとちゃうん?!」
「いや、どうしてベルゼブブがそこででてくんだよ。うん……ベルゼブブ……? もしかして……」
『暴露』の悪魔、ベルゼブブの単語を聞いて、名前の灰色の脳細胞が閃光を光らせる。
「硫黄……まさか、硫黄の強いものを鍋で煮込んでそのまま……? いや、それだったらコンロが……」
「そそそそそんなことよりでんなあ! は、はようそれを直したほうがいいとちゃいます?! やって、そのままにしとったら、アクタベはんにもさくにも怒られんし。な?!」
「うーん……別に、私が怒られるわけもないんだけど……。ま、いっか。ことのついでに直せば」
(よっしゃ!)
 ゲスな目を細めたアザゼルは、心の中でガッツポーズをした。
 名前は穴の空いた鍋をすべて事務所のテーブルへもっていったあと、事務所を出た。
 アザゼルは一人、誰もいない事務所で寂しく待つ。
『役立たず』とのレッテルを貼られたアザゼルは、今日も留守番を任されていた。
 だが、今の契約者とひどく関係が悪いせいか相性が悪いせいか――契約者にかけられた悪魔の呪いと自身の呪いとで吐き気を促されるほどの邪悪な最悪な変化と結末を味わわされたせいか――、本来はひどく使えるはずである悪魔アザゼルは、『使えない』などという不名誉なレッテルを貼られていた。
 だが、一族の代表者であるものが不甲斐ないものであった場合、こればっかりはどうしようもないケースがある。
 その『ケース』に当てはまったアザゼルは、一人寂しく、事務所の窓を眺めていただけだった。
 雲のたゆたう空に、カラスが一匹、横切る。
 事務所の扉が開いた音を聞いて、アザゼルは後ろを振り返った。
「はー、重い……」
 大量の小瓶や巻物を両腕に抱えた名前が、事務所に入ってきた。
 アザゼルはソファに体を預けたまま、事務所に入ってくる名前の様子を見る。
 魔界ではゴツイ中年のおっさんのような体を持つ悪魔であるが、人間界の――ここ、『芥辺探偵事務所』の所長であるアクタベの結界によって――二頭身のプリティな姿になったアザゼルは、両腕の力によって体を支えられているといっても過言ではなかった。
 ダランとソファの背もたれに寄り掛かるアザゼルを無視して、名前は両腕に抱えた小瓶や巻物を、テーブルの端に置く。
 鍋のつみあがったテーブルの端に、コツンコツン、と瓶が置かれる。
 アザゼルはチラリと見える巻物の端と小瓶の頭に気がいって、ポスンとソファに尻を落とした。
 人形のようにソファへ座ったアザゼルに構うことなく、名前はテーブルの端に色とりどりの小瓶と巻物を置いていく。
 アザゼルは名前の手に摘ままれた小瓶をさしていった。
「なんやぁ、それは」
「『妖精の小瓶』」
「それは?」
「『砂糖黍の楽園』」
「……それは?」
「オオトカゲの糞」
「どうしてそこでクソがでるんや! おかしいやろ?! もっとメルヘンにゆーことはできへんのか! それともなに? ソイツがソイツであるケジメっつーんがあるんか?! え?!」
「なんで怒ってんだよ……。そうじゃなくて。材料に必要なんだよ、これが」
「クソが? 砂糖黍とか妖精とかメルヘンなことゆーとったのに? あ、ごめん。自分の頭ん中、いっつもメルヘンやったな」
「グリモアの以上のことすんぞ、オラ。じゃなくて、隠喩だよ、それは。魔術師ってのはね、秘密を隠す主義なの」
「へー」
「鼻ほじんな、コラ」
 興味なさそうに小指で鼻をほじりはじめたアザゼルに、ピキリと青筋を浮かばせたまま名前は話を続ける。
「魔術や魔法に使うものっていうのは、バレたら魔術師生命にかかわるものなの。だから、中二病とかポエムポエマー的なのが多いわけ。わかった?」
「中二病とかポエマーとか多いんか? うわ。それやったら、アクタベはんとお前やんか。それって……うわ。うわ……」
「なんだよ、その一言。ムカつくなぁ」
 むくれた顔をする名前をアザゼルは距離をとって見る。
 アザゼルは日ごろのアクタベと名前を見て、そう思わずにはいられなかったのだ。
 名前は『妖精の小瓶』と『砂糖黍の楽園』と紹介した小瓶を手にとって、説明を始める。
「『妖精の小瓶』ってのは、妖精の羽の鱗粉を採取したもの。『砂糖黍の楽園』ってのは。まぁ……そのまんま、の意味だよね」
「おっまわりさーん! ここに、ここにヤクの売人がおりまっせー!!!」
「コラ! 人聞きの悪いことをゆーな! そうじゃなくて。量を間違って接種しちゃうと、お砂糖のようなメルヘンのような夢を見続けちゃうってことなの」
「……いや、それ。非合法なものとちゃいます?」
「悪魔に言われたくないなぁ。まぁ、人間にとっちゃぁ、人間のほうがより恐ろしいわけなのですけれども」
(もちろん、人間も悪魔も怖いのだけれども……けどやっぱ、『人間』のほうが、悪魔と人間にとってどっちとも、怖いわけだよなぁ)
 遠くを見て心の中でそうぼやく名前を構わずに、アザゼルはテーブルの上に置かれた巻物を開く。
 魔界で使われる言語と似通ったものが使われているらしいが、ピンポン玉大の脳味噌しか頭のなかにないアザゼルは、その巻物に書かれてあることがチンプンカンプンであった。
「……なんやのん、コレは」
「まぁ、最後の仕上げみたいなもんだね。『妖精の小瓶』と『砂糖黍の楽園』『黒い山椒魚』を混ぜ合わせてできると……」
「くろいさんしょーうおって、なんやのん」
「さっきのオオトカゲの糞の名称。隠語だけれども。まぁ、それらにも規則性があって……うわ。ちょっと、その小瓶をとって」
「これ?」
 アザゼルは名前が指差した二本の瓶のうち、一本を手渡す。
 試験管に混ぜた液体から上がる群青色の煙から目を離さずに、名前はアザゼルからその小瓶を受け取る。
「それは?」
「『イピリアの涙』。見た目は濁った泥水のようなものだけど、一滴を垂らせば虹色の……なんでだよ?!」
 アザゼルから受け取った小瓶を傾けながら説明をしていた名前は、試験管に落ちた一滴を見て、大きくどよめく。
 アザゼルは不思議そうに首を傾げるだけだった。
「なんや? どしたん?」
「どうしてこれなんだよ! これ、『イピリアの涙』じゃない! チョンチョンのよだれじゃない!」
「ちょんちょん? なんや、どっかでちょんぼでもしたんかい。しょうもないやつやのぉ。ほら、アザゼルさんに頼れや。どーんと解決したるで?」
「そういう場合じゃない! いい?! 妖精の羽の鱗粉とカーピ・チャクルーナにチャリポンガとその他もろもろをあわ、」
 早口でまくしたてた名前の口が、止まる。
 アザゼルはコントのように食いついた名前が、ふっと意識を失った様子を見て目を開いた。
 間違った材料を入れてしまった名前は、その試験管から溢れる煙を吸って、ソファに倒れた。
 名前は目を瞑り、無防備に口を開けたまま、スヤスヤと眠る。
 アザゼルはそれをテーブル越しに見たあと、そろそろと名前に近づいた。
「なんや……寝てはりますの?」
 チョンチョン、とアザゼルが赤ん坊のような柔らかい爪の上に生えた丸い爪で名前の頬をつついても、名前は起きようともしない。
 アザゼルは黒い爪を引っ込めて、顎に指をあてて小さい脳細胞を閃かせた。
「もしかして……これ、チャンスとちゃうん?」
 おおよそ、子ども向けでは放送できないような単語とイメージがアザゼルの脳内を飛び交う。
 アザゼルは一人、よだれをたらし満悦した。
 そしてその妄想を実行に移すべく、行動に出た。
「よしよし、ここはアザゼルさんが『据え膳食わねば男の恥』に免じて、代わりにじ、」
 スリスリと手をこすり合わせて名前に近づいたアザゼルが、横から飛び出してきた長い足によって壁へ吹き飛ばされる。
 長い足の持ち主であるここの事務所の所長、アクタベは、ひどくおかんむりだった。
「な、なんやのん……あ、アクタベはんやないの……お、おはやいおかえりでんな」
「ああ。どこぞの馬鹿がいらんことをしている様子が目に入ったんでな。おかげで急いで事務所に入ればこのザマだ。チッ、いったい何をしようとしてたんだ? え?」
「ちょちょちょちょ、ま、待ってくだはいやぁ! わ、わしに怒ったかって、どうしようもありまへんで? な? な?」
「元はといえば、お前があの女を怒らせてグリモアの罰を受けたことが原因だろおが。この惨状……いったい、どうしてくれる? このままでは、客の一匹たりともとることができねぇじゃねぇか。……あ?」
「ひ、ひぃぃぃぃい……!」
 アザゼルは芥辺の眼光を受けて、涙と小便を漏らしながら縮み上がった。
 ひどく機嫌が悪いアクタベは、頬に青筋を立てて「チッ、チッ!」と舌打ちを続けたまま、事務所の窓へ向かった。
 ガラッと窓が開くと同時に、室内に充満していた煙が外へ出ていった。
「あ、あんのー……あ、アクタベはん? それ、外に出しても大丈夫なものなんでっか?」
「いや。おそらく、隣のビルや下の階では急に眠気に襲われて仕事を続けることができなくなるやつが続出するほかに、ここを通りかかった奴らは全員、強烈な眠気に襲われることだろう。それに、この濃度だ。もしや、数百メートルにわたり、強いまどろみを起こすものさえもいるだろうな」
(なにをベラベラにしゃべっとんの、こんひと……)
 アザゼルは恐ろしいことをベラベラとしゃべるアクタベに戦慄を覚えながら、話を続ける。
「で、でもでも、それやったら、アクタベはんはどーしてんなピンピンにしとりますの? やって、ふつうやったらそうなるんやろ? そうやったら、ここでよだれたらしながらぐぅすかと眠る名前はどうなんでっか? やって、名前あれなんでっしゃろ? あれ」
「……それについてはどうでもいいことだろう。それより、アザゼル」
「は、はぃぃい! なんでございましょうかぁ?!」
 ソファで眠りこける名前を肩に担いだまま、アクタベは肩越しにアザゼルにいう。
 重装備を施した兵士の格好に早着替えしたアザゼルは、ピンと背筋を伸ばして敬礼をしたまま、アクタベが話すまで待った。
「よくもまぁ、悪魔のくせにその小瓶を選ばなかったものだな。そいつを渡していれば、悪魔にとってこれ以上にない喜びを味わわれるはずだったのにな……クッククク」
「は、はぁ……?」
「ともかく、さっさと事務所を客に出迎える状態にしろ。さっさとせんと殺すぞ」
「はぃぃい! かしこまりましたぁ! 上官!」
 喉の奥で笑いながらわからないことを言い出したアクタベに鼻水を垂らしたアザゼルは、急にピンと背筋を伸ばして、最敬礼をしてアクタベを見送る。
 ぐうすかと眠りこける名前を肩に担ぐアクタベは、【人間ならば誰でも強烈な眠りに襲われて目覚めることがない、眠り姫の状態にさせる】効果が充満する室内から出た。
 パタン、と扉の閉められたアザゼルは、窓の開いた事務所で鼻水を垂らしたまま、茫然と立ち尽くす。
 乱暴に足で扉を閉めたアクタベは、自室へ向かう。
 強烈な幻覚と浮遊感、恍惚感へのトリガーになったピンク色の小瓶を渡しそこなったアザゼルは、白い雲のたゆたう空を見上げる。
 飛行機雲が一つ、空を横切っていた。
「この、阿呆が」
 ベッドに寝かしつけた名前に、そうぼやくアクタベの心境を知るものは、誰もいなかった。

   
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