「玲央」
少女が自分の名を呼ぶ時の声や表情が実渕は好きだった。
少女が言うそれは、カタカナ表記のようでなく、あだ名でもなく、漢字のちゃんとした、意味を持つ呼び方。
「だっておばあちゃんが言葉には力があるから大切にしなさい、って言ってたもの」
英国人の祖母譲りのペリドットを煌めかせて、誇らしげに言う少女が実渕は愛しくてたまらなかったのである。
「名前、貴方どこに行っていたの?」
「おばあちゃんのお庭だよ?アフタヌーンティー用のハーブ摘んできてって。そうして今戻ってきたところ」
こてん、首を傾げる少女は自分の状態に気付いていないようだった。
黒髪に絡まる白い花びらはハーブを摘むだけではそうなるとは思えないけれど、ここは彼女の祖母の庭だったからなんらおかしくはなかった。
「こっちにいらっしゃい。髪に花びらが絡みついているわよ」
「え、本当?またやられたのね……」
手招きをすると少女は大人しく従い、縁側に座る実渕の隣にやってきて、くるりと実渕に背を向けて座る。日本人らしい艶やかで指通りの良い髪に、落ちることなく絡みつく花びらは不思議としか言えなかった。
「私って気付けば悪戯されてるのよねぇ。されてる感覚は全くないのに」
実渕が己の髪から花びらを取っているのに身を任せ、呟く。
視界をかすめるのは極彩色の羽ばかりで、彼らの姿は見れていない。
「玲央には見えてるんでしょ?」
「えぇ、普通に。現に今も花びらで遊んでるし」
「不思議だなぁ……別に見えなくなった訳じゃないのに」
「あら、そう?」
作業が終わったことを告げると少女はくるりと実渕の方へ振り返った。
瞬時に極彩色の輝きを残して、実渕の背に隠れてしまった彼らが、背後でパタパタとせわしなく羽をはためかせている様子が、見ずとも想像できて実渕は頬を緩める。
「何笑ってるの?」
「そりゃあ、ねぇ……名前。両手を揃えて出しなさい」
「こう?」
水をすくいあげるポーズで差し出された少女の手に花びらをそっと落とした。
「真っ白……あれ?」
手の平にこんもりと盛り上がる花びらをよくよく見てみると、種類が違う事に気付く。
白薔薇、桜、林檎、苺にエトセトラ。
「季節バラバラ……」
その呟きもやはりこの庭ではありえてしまうことだった。
緑の瞳の老婦人を庭主とするこの庭にはおとぎ話にしかいないはずの存在が住んでいる。少しの不思議も追及することの出来ない婦人のミニチュアガーデン。
「昔から知っている可愛い女の子にあげたかったんじゃないかしら?」
「…………玲央はさらっと恥ずかしい事を言う」
「あら、本当の事よ?こんな可愛い子に真正面からプレゼントをするのは恥ずかしかったんじゃないの?」
そうだ、と自分の背後で頷く彼らに実渕はますます笑みを深めた。彼らはきっと私達よりも長く生きているはずなのに、好きな女の子を前にドギマギしてる様子は微笑ましかったから。
恥ずかしがり屋の恋心を遠回しにアピールする様子は世界中の少年少女とよく似ていて、クスリと笑みがもれる。
「そういうもの?」
「えぇ。だから、その花びらはポプリにでもしてあげて」
「うん、じゃあ一回戻ってしまってくるね」
「いってらっしゃい」
とたとたと軽やかに走っていく少女の後ろ姿を眺めていると、背後にいた彼らが漂いながら出てきた。蝶の羽ばたきによく似たそれらから彼らの誇らしげな顔から上機嫌な事が窺える。
「嬉しそうで何よりだけど、本当に恥ずかしがり屋ねぇ……。別にあの子は驚いたりしないと思うわよ」
呆れ半分で言うと彼らは無理無理と激しく首を振った。
「まぁ、良いけど……あの子は私のだし」
そうすると今度は、むぅと唇を尖らせる様子が実渕にはおかしくてしょうがなかった。クスクス笑っていると帰ってきた少女が実渕の名を呼んだ。
「玲央?……何笑ってるの?」
ぴゃっと散っていった彼らが更に実渕の笑いのツボを刺激した。
「いえ、ね。ちょっと優越感に浸っていただけよ」
「……そう?おばあちゃんがアフタヌーンティーの準備が出来たからおいでって」
「分かったわ」
縁側から立ち上がると、そわそわとした羽ばたきが実渕の視界の隅に映り込んだ。そんなになるなら大人しく出てくればいいのに。
きょとんとした少女の黒髪に、リップ音を立ててキスをしたら彼らも、少女も驚いたようにびくりと震えた。
「え、えっ!本当、何なの……玲央!」
「可愛い子にキスがしたくなった、ただそれだけのことよ」
少女の祖母が用意しているだろうケーキに添えられた生クリームよりも、少女の髪を飾った花びらの香りよりも甘い。
胸をとろりと溶かすほどの甘美な優越感に浸って、実渕は午後のお茶会に出席するべく紳士よろしく少女の手を取って歩みを進めた。