キラキラと瑠璃色に光る海底を名前は歩く。その少し後ろを、ポケットに両手を突っ込んだアクタベが歩く。名前は瑠璃色にキラキラと光るガラスに張り付く。その場に足を止めて巨大な水槽の中を覗く名前に眉を顰めたアクタベは、「おい」と小声で言ってから名前の肩を荒く掴んだ。
 ぐっと名前の体が巨大な水槽を覗き込むガラスから離れる。アクタベは巨大な水槽の中に作られた巨大なガラスのトンネルの中で眉を顰めながら、チラリと前方に視線をやった。人の流れに身を任せて進めば、出口となる方へ着ける。
「忘れたのか。今は仕事中だ。んな、魚を眺める作業なんざ、後に回せ。」
「なによ、デートだと洒落込んでお洒落してきたって言うのに。いざと言う時に雰囲気をぶち壊したのは誰かしら?」
「つべこべ言うな。ぶち殺すぞ。それか、その口を縫い付けてやろうか?」
「ごめんなさい。マジに取らないで。」
 ぞうっと顔を青ざめた名前は、アクタベが悪魔に対して行った残虐非道の雨嵐と取れる仕置きの内容を思い出して、腕を擦った。アクタベは鼻を鳴らす。
「だったら、ほれ、行くぞ。」
「あ、待って。あともう少し。」
「阿呆。」
 腕をとられたまま、名残惜しくガラスへ駆け寄る名前に、アクタベは罵倒を投げる。小さく罵倒を投げたアクタベの声を無視して、名前は届かぬ距離でガラスに駆け寄る。
 先ほどのように顔と手をくっつけて巨大な水槽の中を覗き込むことは出来なかったが、巨大な水槽の中を海と誤魔化されてスイスイと嬉しそうに泳ぐ魚たちの影や姿を確認することが出来た。
 ぼうっと巨大な水槽の中を見る名前に鼻を鳴らしたアクタベは、グッと名前の腕を引き寄せる。グッと腕を引き寄せられた名前はよろよろ、と体をよろめかされる。アクタベの方に名前の体が引き寄せられる。それに瞼を伏せたアクタベは、よろめく名前に構うことなく、スタスタと足を進めた。名前はアクタベに腕を取られ、体勢を崩されたまま、よろよろと歩く。アクタベは尾行の対象との距離を元の距離に戻した。
 一定の間を置いて歩くアクタベに合わせる。名前は自分の腕を取るアクタベの手を不機嫌そうに見たあと、頬を膨らませながら言った。アクタベはさり気なく、その膨らんだ頬を指先で突き、潰しながら聞いた。
「ぷっ。アクタベさん。それならそうと、そう雰囲気にしたらどうなの?」
「『それならそうとそう雰囲気』、とは?」
「ぷっ。だから、デートって誘ってくれたじゃない。だから、ぷっ。」
「だから、なに?」
 なんだと言うのだ、と脅迫と強調を含意して言ったアクタベは、その脅迫と強調が含意した目で名前を見る。頬を膨らませる名前は膨らんだ頬を潰すアクタベの指に負けることなく、潰された頬をまた膨らます。アクタベはまた、フグのように膨らんだ頬を潰す。
「ぷっ」と名前の頬から空気の抜けた音が出る。しかしそれに構うことなく、名前はアクタベに向かって頬を膨らます。その度に、アクタベは突き立てた人差し指で名前の膨らんだ頬を潰す。腕を取り合う二人の男女に、通り過ぎるカップルはクスクスと笑う。
「ほら、笑われたじゃない。」
「充分なカモフラージュになっているじゃねぇか。それが、どうした。」
「どうした、とかじゃなくて。もう。ほら、腕を組むとか、手を繋ぐとか……。」
 ごにょごにょ、と話す名前にグッと眉を顰めたアクタベは、ガラスの向こうに映る小魚の群れに目を落とす名前を見る。
 巨大な水槽の中を泳ぐ小魚の群れは、とても仲がよさそうに身を寄せ合って、海と模した巨大な水槽の中をスイスイと泳いでいる。しかしそうと見えるのは名前だけで、アクタベにはそれが「巨大な魚から自分たちの身を守るために群れを成しているのだ」と言うことにしか見えない。
 名前は巨大な小魚の群れに目を奪われる。アクタベが仕事で尾行するカップルの一組も、その巨大な小魚の群れが作る影に目を奪われる。通行人は足を止める。巨大な魚の群れに目を奪われる。
 アクタベは巨大な魚の影に目を奪われ続ける通行人たちに目をやったあと、サッと懐からカメラを取り出した。インスタントカメラで尾行の対象とその相手を写真に収める。
 ネガは後から修正することが出来ず、日付さえ入っていれば完璧に証拠となれる。
 アクタベは依頼人が裁判を起こして慰謝料をふんだくり取られる証拠を撮ったインスタントカメラを懐に収める。がさごそと懐を探るアクタベと見えたシャッターに名前は頬を膨らませながら、アクタベにトゲトゲしく言った。
「ここ、撮影禁止。」
「お前、仕事だと言うことを忘れたのか。」
「魚に刺激を与えないでください、ってあった。」
「そりゃそうだろう。突然の刺激に、敵がきたのかと驚くからな。」
「ストレスを与えるから、やめてくださいって。」
「あぁ、分かった、分かった。その下らないふざけた口を閉じろ。」
「ふざけてないもん。」
「あぁ、分かった。下らない口を閉じろ。ぶっといチンポを突っ込ませるぞ。」
「……ふざけてる。」
「あぁ、ふざけてることを言うお前並みにはな。」
「私、アクタベさんのように、そうふざけたことを言ってないもん。」
「頭がふやけたことを言ってるのはお互い様だろおが。」
「アクタベさん、頭がふやけてるの?」
「……阿呆。お前の調子に合わせてやったまでだ。」
 名前の唇を撫でていたアクタベは、スイッと視線を逸らす。頬を包み、顔を上げ、親指で唇を撫でつづけたアクタベの手が離れる様子を、名前は見る。名残惜しそうに離れたアクタベの指や手が、ポケットの中に隠れる。名前は離れたアクタベの手が入ったポケットを見ながら、話を聞いた。アクタベは両手を黒いスラックスのポケットの中に隠しながら、キラキラと遠い地上の光を届ける瑠璃色の海に顔を上げた。キラキラと煌めく海水を模した海の中で、巨大な鮫が我が物顔でアクタベたちの上を通り過ぎる。そして見つけた獲物に向かって、真っ直ぐ水を切って泳ぎ始めた。
 名前はその後に起きる血みどろに目を走らせた。だが、海を模した巨大な水槽の中で血が薄く広がることはない。名前はどこかに逸れるように真っ直ぐ進む巨大な鮫を目で追った。
 真っ直ぐ地上へ向かう鮫が飼育員の手から離された生肉へ向かう様子を見たアクタベは、黙って名前の腕を引く。巨大な鮫の行方を追っていた名前は、後ろへグラリと揺らされる。
「ほれ、行くぞ。見失う。」
「うん、分かってる、分かってるけど……。」
「餌の時間だ。」
「なにそれ、感動クラッシャー。」
「こんなまがい物の中で生命の神秘やらを見ようとしたお前の方が、どうかしている。」
「自然の法則がないだなんて、それこそ人間が作った理想の人工物の中だよ。」
「お前の言っていることがいまいち分からない。」
「アンドロイド、ホムンクルス。」
 名前の発した一言に、無表情だったアクタベの眉間に皺が寄る。一気に機嫌を悪くしたアクタベに構うことなく、しれっとした名前は巨大な水槽の中に移る疑似的な海底に目を向ける。巨大なガラスには、不機嫌に自分を睨み下ろすアクタベと、それにしれっとしている自分の姿が映り込んでいた。
「……なんか、ホラー。ね、あの、ほら……あの、ほら、あの……あ、十三、金曜日。」
「十三日の金曜日?あの、黒人が裕福で人生が充実した白人を妬んで殺害に至ったと言う動機をモチーフにしたB級ホラー映画のことか?」
「そう、それ。……って、十三日の金曜日をB級、って。」
「A級は、日本の映画だろ。ジャパニーズホラーと言って、外国じゃ有名だぞ。特に、リングが一番すごい。」
「アクタベさん、何気に情報通だね。新たな一面を発見しちゃったて言う感じだよ、今。」
「そうか。お前がよく好むからな。スパニッシュホラーと言い、イタリアンホラーと言い。あぁ、アメリカの場合はあれか。アメコミヒーロー。」
「アクタベさん。色々と言いたいことはあるけど、私、好んでない。私、好きでホラーを見てるわけじゃないよ?!」
「あぁ、分かってる。じゃなけりゃ、オレに泣きついて続きを見るよう、せがまないからな。」
 しれっと視線を逸らしたアクタベは、尾行の対象へ目を移す。アクタベの視線が尾行の対象の動きを追う。しれっと恥ずかしいことを暴露したアクタベに、名前は顔を真っ赤にする。ぽかすかと腕を叩く名前に構うことなく、アクタベは足を進める。昼間見た、ホラーの映画を思い出した名前は、ブルリと身震いをしてアクタベの腕にしがみ付いた。
「アクタベさん。私、ホラー映画を好きで見てるんじゃなくて……ほら、猫の好奇心とか、そう言うの……。」
「馬鹿の救いようもねぇ。」
「あれ、それから言っちゃう?それから言っちゃうの?ねぇ。ほら、馬鹿の無用の長物とかそうの……。」
「馬鹿の救いようもねぇ。」
「あれ、なんで二度も言っちゃうの?ねぇ、ねぇ?」
 ねぇ、と理由をせがむ名前に「チッ」とアクタベは苛立たしく舌打ちをする。嫌にしつこく理由をせがむ女の本性に、アクタベは苛立たしさを覚えた。そのような女のまどろっこしい性格を嫌うアクタベは、嫌がらせのように受ける強請りを反らすかのように、目を巨大な水槽の中へ向ける。エイや鮫、観賞魚と言った様々な魚が、それぞれの縄張りの中で優雅に泳ぐ。
 ふと、その中に紛れるように、一つのサンゴがアクタベの目に留まる。
 コーラルピンクのサンゴの中から、一匹の小魚が顔を覗かせる。パクパクと口を開きながら餌を強請る稚魚の様子に、アクタベは目を細める。
 話を聞かないアクタベにムッとした名前は、アクタベの目に留めるサンゴを目にして、パァッと顔を輝かせる。そして先ほどの機嫌の悪さなどなかったように、アクタベの目に留めるサンゴが見えるガラスへ飛び移った。
「わぁ、サンゴだ!綺麗……!滅多にない筈だったのに。」
「……は?『滅多に』?」
「そりゃそうでしょ。海水汚染、気温の上昇などで年々サンゴが枯れ、それに住まう生命体も破壊の一方……でしょ?」
 違った?と尋ねるように上目遣いで見る名前に、アクタベはグッと堪える。ポケットの中に隠されたアクタベの両手が、グッと握りこぶしを作る。事象を思い出すように指を折った手をもう片方の手で覆った名前は、確認を取るようにアクタベを見上げる。
 プイッとアクタベの視線が巨大な水槽へ逸らされる。名前はそれにムッとした。
「もう。人が聞いてるのに!無視するなんて、あんまりじゃない。」
「煩ぇ、止めろ。ウソ泣きなんざ、みっともないんだよ。目障りだ。さっさとやめろ。」
「なによなによ、ウソじゃないって言うのに!馬鹿!」
「ああ?」
「いだい、いだい!」
「ああ?」
「いだい!」
 再度尋ねるアクタベに名前はそう応える。
――触れば琴線に触れてしまう。
 そう堪えたアクタベは、名前の放った罵声の一言で、いとも容易くその琴線をぶった斬り、別の琴線を鳴らしてしまった。
 頬に青筋を立てたアクタベはすぐさま、左手で名前の頬をギリギリと抓る。怒り、殺意、憎悪を言った苛立ちを孕んだアクタベの眼光を真正面から受け、それらを凝縮したような指の力を受けた名前は、別の意味で涙を垂らす。
 一瞬にして場の雰囲気が変わる。喧嘩をし始めるのか、と思い始めたカップルの一組は、そそくさとその場を立ち去った。
 名前はアクタベに抓られた頬を擦りながら、恨めしそうにアクタベを見る。「フン」と鼻を鳴らしたアクタベは巨大な水槽へ顔を反らす。キラキラと水面や海底を照らす、作り物ではない光へアクタベは顔を上げる。恐らく、太陽の光であろう。でなければ、このような光沢は生まれない筈である。
 アクタベは人工で照らされた海底の中を思い出しながら思った。名前は脇の少し空いたアクタベの腕を両腕で掴みながら言った。
「もう!ちゃんと話を聞いてよ!」
「あぁ。やっとそれらしくなったな。」
「は?え、なによ……。」
「お前の言葉遣いもそれらしくなったし。なんだ、やればできるじゃねぇか。」
「……なに、もしかして。私がそう出るのを待ってたわけ……?」
「ほれ、またそのガキっぽい口に顔。いい加減、その癖を直せ。まぁ、そのままでも別にいいが。」
「その棒読み加減と呆れ加減も素敵だよね!ハッ……し、仕事!」
「お前のその癖が本当消えたらいいなって思うよ、最近は。え?」
 名前に顔を合わせることなく、頬に青筋を立てたアクタベは据わった目でそう吐く。「チッ」と今にも舌打ちをしそうなアクタベは、巨大な水槽へ目を逸らす。今ではこの作られた海底すらも、忌々しいもの以外に他ならない。アクタベはポケットに突っ込んだクシャクシャの紙を取り出した。
 名前はアクタベのポケットに入れられてクシャクシャになった地図を覗き込んだ。
「あ、次はどこに行くの?それとも、まだ仕事?」
「あぁ、そうだな。張り込みもあるし。……が、粗方目途は付いている。たまの息抜きも必要だろう。」
「でも、予想外のこともあるかもよ?」
「だからこその、短時間で済ませるものだ。」
 と言って、アクタベはツイッと名前に地図のある部分を指し示す。名前はアクタベの指が示したところへ顔を近づける。
「『トドのサービスキャッチ』……?」
「あぁ。どこがどうサービスキャッチなのか、と言うことが分からんが。」
「……アクタベさん。もしかして、トドの横に描かれた人魚を見て、言ってる……?」
「さぁな。ちょうど、奴の性癖もそんな辺りだろう。ほれ、行くぞ。ちょうど、オレたちと同じ方向へ行こうとしている。」
「いや、ちょ、待って。どうしてそんなことが分かるの?!まだ、その域にまで達し」
「あんなブルドック面と付き合ってんだ。きっと、獣姦とか好きに決まってるだろ。」
「あ、そう言うこと……いや、そうは言ったって、きっと、体とか色々とかじゃな、」
「デブ専か。」
「何気に酷いことを言うな!アンタ!あ、ごめんなさ、ごめんなさ……大声出して、ごめんなさ……」
 ぽかすかと叩くアクタベに手を差し出しながら名前は小さく謝る。さり気なく突っ込んだ名前に軽い力でポカスカと叩くアクタベは、キラキラと光を落とす瑠璃色の水へ目を落とす。海底を模した巨大な水槽の中に作られた、巨大なガラスのトンネルは、その海を模した水の中でスイスイと泳ぐ魚の群れを映す。巨大な水槽に溜まる水の水圧に耐えれるよう設計を施されたガラスは、今も尚割れる様子もない。
 アクタベは無言でその様子を見たあと、海を模した海底に生えるサンゴに目を落とした。植物の形を模した生命体は今日も尚、元気に酸素を吐いている。
 アクタベはそれらの様子を見たあと、無言で名前の腕を引っ張って行った。よろけた名前は慌ててアクタベの後を追った。
「な、なに?」
「別に。あぁ、そうだ。冥土の土産に教えてやろう。」
「え、なに!?冥土の土産?!」
――何気にその姿も素敵だよね!その後ろ姿も背中も!だって!
 そう続く名前の叫びを嫌と言うほど飽きるほど聞いて、既にその予兆を感じ取ることが出来る域まで達したアクタベは、そのふざけた口が名前の口から出ない内に振り向く。ふざけた口を叩こうとした名前は、突然振り向いたアクタベに驚いて、きょとんとする。大きく開けた口を小さく閉じたことを見て、アクタベは話を切り出す。
「人魚が泡となって消えた理由と、ジュゴンが絶滅した理由について、知っているか。」
「あ。え、まぁ……?確か、人魚の元となったのはジュゴンで、もしくは何かしらのメタファーかなにかで……?えっと、人魚姫は、夢を破れた作者が悲嘆の余りに、恋に……?なにたら、なにたらで、えっと……。人魚姫が泡となって消えたのは、二度と夢を叶うことの出来ない体になってしまった作者がそれを嘆いた余りのもので、あれ……?」
「…………。」
「えっと、えーっと……あ、ジュゴンは、乱獲?」
「……ま、そう言うところだ。メタファーではなく、アレゴリーだが。」
「む……そう、難しいところまで分からないよ。」
「そうか。……勉強不足だな。」
「あ!顔を背けないでよ!プイッと!もう、かわいいなぁ!」
「そのふざけた口を今すぐ叩き直せ。ぶち殺すぞ。」
「本音と建て前がごった煮!もう可愛いなぁ!」
 続く発言を拒むように、アクタベの手がグッと名前の口を覆う。片手で口をグッと覆われた名前は恐る恐る、アクタベを見上げた。アクタベの形相は怒りと悲嘆に暮れていたような気がした。
「……阿呆か。ま、トドの場合は、ただの宣伝文句だと思うが。」
「そ、そっか。と、ところで……あー、えーっと……あ!サンゴ!」
「……あぁ、そうだな。サンゴだ。」
「そう言えば、赤色のサンゴが見かけないよね。どうしてだろう?」
「海水の温度や塩分の濃度で変わるんじゃねぇのか?」
「あ、そっか。それもあるよね……。」
 アクタベに手首を引かれたまま、名前は海底トンネルの中を歩く。アクタベは話を逸らした名前の話に付き合いながら、海底トンネルの中を歩く。

――それならそうと、なんで、そんなことを聞いたの?

 恐らく、名前はそう聞きたくて話を切り出したに違いなかった。アクタベはなんとなく、名前が言いよどんだ理由を知っていた。それは、自分を怒らせたくなかったことと、腹を拗らせてデートを模した仕事の時間を壊されたくなかったことと、その先に続く答えの意味を聞きたくなかったからに違いないだろう。
 アクタベはグッと眉を寄せる。人魚姫は王子様を殺すことが出来ず泡となって消えた。それは筆者の夢が潰えたこと、筆者が幾多の失恋を重ねて独身を貫いたことと関連していると言われている。だが――。
 アクタベはもう一度、眉間に皺を寄せる。そしてもう一度、名前の手首を掴む手に、力を入れた。ミシリ、と名前の手首の骨が軋んだ。
 恋に破れた人魚姫が王子を刺し殺すことも出来ずに泡となって消えたように、非情になり切れず助けてしまって、人知れず泡となって消える名前のことを、誰も知らない。
 歩く度にナイフを抉る痛みを受ける人魚姫のように、幾多の呪いや枷を担いで痛みを受ける名前は、今日も歩く。ヘラヘラとそれがなかったかのように笑う名前に、アクタベは人知れず憎悪を抱き、そして怒りを抱く。
 ミシリ、と名前の手首が握るアクタベの手によって悲鳴を上げる。痛みですらヘラヘラと笑う名前に、アクタベは反吐が出た。「仕事」と偽らなければ誘いに乗らない名前にアクタベは反吐が出た。
――ふざけるな。
 一向に幸せを受け取らない名前に対して、アクタベはそう吐き捨てたくなった。

――コーラルピンクの楽園にはほど遠い。その忌々しいほどの枷や呪いを外して腕を広げなければ、とてもじゃないが辿り着かない――。

 しかし、アクタベにはそれがとても嫌なように思えた。グググ、とアクタベの眉間が皺を寄せる。それと同時に下がったアクタベの目尻と口に、名前はハッと気付いて、悲しそうに顔を歪めた。
――それらのように自由に翼を羽搏かせる様子は、アクタベに死を連想させた。
 アクタベに握られる名前の手がミシリ、と悲鳴を上げる。どちらとも、泡となって消えることを未だ、望んでいなかった。
 アクタベはポツリと、俯いたまま言葉を吐く。
「……いいか。勝手にどこかへ行こうとするんじゃねぇぞ。ぶち殺すからな。」
「あ、うん。……それはそうと、ターゲット、見失うんじゃ……」
「あぁ、分かってる。」
 ……ふざけるな。と背中で語ったアクタベは、プイッと名前から顔を反らして、正面の道を進む。
 一本道を進ませられながら、名前はアクタベの背中を不安そうに見る。アクタベは無言で名前の手を引き続ける。名前はアクタベに手首を引っ張られ続ける。
 何度目の前にナイフを落としても、背後にいる人魚姫は枕を刺していた。
 アクタベはこっそりと思い出しながら、名前の手首を引っ張った。名前はまた足元をゆらされる。そう、痛みを与えて悲鳴を上げさせなければ、泡となって消えないのかと言う不安を払拭されなかった。アクタベはまた名前に痛みを与える。それが不安を払拭されるための行為だと言うことに、名前は到底気付かなかった。
――コーラルピンクの楽園、それは互いに認めがたい互いの両面にしっかりと意識を向けなければ、到底たどり着けなかったことだった。
 綺麗な水泡の宝石がなるサンゴの林の中を歩くことを夢見たい名前は今日もまた、リアリストのアクタベによって夢から引き戻された。

   
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