澄んだ海を上空から眺めれば、些細な悩みなどきれいさっぱりに流れてしまう。英雄は愛馬の背の上から海面を眺め見るのが好きだった。鏡のように輝く水面はいつ見ても飽きない。目を凝らすと魚影が確認でき、好奇心を刺激されるものだった。
英雄――ドルベはふと、幼き頃の話を思い出した。ナッシュとメラグから聞かされたある生き物の話。

この大海原は全知全能の神が治めているらしい。ドルベの友人、ナッシュとメラグはいつも興奮気味にそう語っていた。幼きナッシュ達がいずれ統治することになる、海に囲まれたこの国にはそんな伝説があるという。ドルベも耳にタコが出来るくらい聞かされた話だ。しかし今日の双子が嬉々として話しに来たのは、いつもの神話では無かった。

「なぁドルベ、人魚って知ってるか?」
「…にんぎょ?」

深海色の髪を揺らしてナッシュはわくわくした表情で問い掛ける。初めて聞いた単語だった。理解が及ばずキョトンと目を丸くしたドルベに、ここぞとばかりにメラグが説明を入れる。

「海に住んでいる、体の上半分がヒトで下半分がお魚の生き物ですわ!」
「すごいな…そんな生物がいるのか」
「えぇ。歌声がとっても美しいと言われているんですの」
「だけどやっぱりマモノだからな、人間は襲われるらしいぜ」
「でも実際会ってみないことには悪い魔物なのか良い魔物なのかは分かりませんわ」

ナッシュは伝承の海の魔物に畏れを抱く。メラグは説話の中だけが真実とは思わない様子。ドルベは二人が興味を示した人魚とやらを見てみたいと思った。



ナッシュの国から故郷へと帰る時のこと、そんな会話が明瞭に思い出された。

「人魚か…」

眼下に広がるのは真っ青な海。自身を背に乗せている愛馬を見てドルベは微笑んだ。翼を生やした白馬、いわゆるペガサスという生き物の背に跨がっている今、ドルベは人魚という生き物が実在するのだと信じて疑わなかった。ナッシュとメラグの話を脳内で反芻させながら、ドルベは碧海に目を落とす。

(ん…?)

陽の光を反射させ輝く水面、そこからひょっこりと顔を出しているのはなんだろうか。身を乗り出し目を凝らす。愛馬のマッハに少し下降するよう頼んだその瞬間、マッハは嘶いて暴れだす。

「マッハ!? どうした、落ち着け!」

利口な彼だが今はどうしてか主の制止の声も届いていないようだ。驚いた拍子にドルベの手から手綱が抜けると、見計らったかのような具合で鐙(あぶみ)からも足を踏み外し、ドルベは訳のわからないまま海への転落を余儀なくされた。



「うぅ…」
「あっ、目が覚めたのですね」

とある小島の砂の上でドルベは目覚めた。ぼんやりとした視界が次第に鮮明な景色に変わっていく。そこには心配そうに彼を見つめるマッハと見知らぬ少女の姿があった。ゆっくり身体を起こして状況を把握する。あぁそういえば自分は海へ落ちたのだった、と。そして命の恩人であろう少女へ目を向けると少女は安堵したような笑みを浮かべる。

「お怪我はありませんか?」
「問題ない。君が助けてくれたのか、ありが――…」

礼を述べる相手は間違っていない。にもかかわらずドルベは言いかけていた言葉をぷつりと途切れさせて思わず目を見張る。なぜならその少女は上半身こそヒトであったが、下肢に近づくにつれヒトからかけ離れたもので造型されていたからだ。言ってしまえば魚、である。太陽の光を浴びてきらきらと虹色に光る鱗は滑らかで美しいが、彼女が人間ではないことを如実に物語っていた。
ドルベが自分の姿を見て言葉を詰まらせているのだと悟ると、少女はあわてて平謝りを始める。

「ごっ、ごめんなさい!」
「どうして謝るんだ?」
「どうしてって…」

少女は俯きがちになって声をすぼめる。後ろ暗さを感じさせる彼女に反して、ドルベは声を弾ませた。先程まで驚愕に満ちていた彼の目は、今やもうすっかり目の前の少女への期待と興味で輝いている。

「君は知らないかもしれないが、人魚を一目でも見たい者と思う人間は多い。私だってそうだ」
「……!」

瞳を真珠のように丸くした人魚は、ぽんと両頬を赤く染める。人間は自分のような種を嫌うのではなかろうか…きっとそうだと思い込んでいた彼女はドルベの好意的な言葉で随分救われたように感じた。

「あの! 私はペガサスが見たくて!」

恥ずかしさを拭うために別の話題を振るも、動揺からかその声はひっくり返ってしまって余計に羞恥心に火を焚きつけることとなってしまった。それを気にする様子も無くドルベは「あぁ」と隣で大人しくしていた愛馬を見上げる。

「マッハのことだな」
「彼はマッハというのですね…!」
「そう。ついでに言えば私はドルベだ、良かったら君の名も教えてくれないか。この先語り継ぐのに名も無き人魚では寂しい」
「私は名前です。語り継ぐのはちょっと勘弁してください…」

随分と内向的というか消極的というか。人魚という種にも人間同様に細かな個体差があるものなのかとドルベは感心する。

「はぁ…いつ見ても美しく逞しい生き物ですね。こんなに近くで見られるなんて夢みたい」
「君はペガサスが好きなのか?」
「はい! いつもあなたが海の上を渡る時に見ていたんです」
「なんと、気が付かなかったな。しかし人魚がペガサスに興味を持つとは驚いた」
「人間だって人魚に興味を持つんでしょう? それと同じですよ」

名前は微笑みながら白天馬をうっとりと眺める。心なしかマッハは彼女を警戒しているようだったが、のんきな人魚は察せないらしい。
妙な絵面になかなか現実味を感じられずにいると、ドルベはふと思い出したように短く声を上げる。人魚と天馬はそれに反応して同時に顔を向けたので、英雄はなんだか面白くなる。

「一つ頼んでもいいか?」
「何でしょう?」

ドルベは昔にメラグが言ったことを忘れてはいなかった――そう、人魚は歌声が美しいのだという話。快く了承してくれると想定し、歌ってくれないかと軽く頼むと少女はちぎれんばかりに首を振った。縦ではなく横に。半ば身を引いてしまうくらいには振った。

「それだけはいけません!」
「そ…そんなにもか? 別に私は滅びの歌を歌えと言っているわけではないのだぞ」
「私が歌えばどんな歌も滅びの歌になるから…歌うのは大好きです。得意ではないのです」

またはじめに戻ってしゅんと頭を垂れる。あぁ、なるほど。しかし不得手だとしても好きならばそこまで卑下することはないだろうとフォローを入れようとするドルベだったが、それよりも早く名前が決定的なことを口走る。

「さっきマッハさんが暴れたでしょう。あれ私のせいなんです」

彼女が言うには、彼女の歌声は動物をひどく興奮させてしまうらしく、これを利用しもう少し近くでマッハを見られないかと歌ってみると、加減が分からず結果このような事態になってしまったと。それを踏まえて名前はマッハとドルベに向かって平謝りを始めたので、ドルベもあわてて彼女の謝罪を止める。

「やめてくれ」
「だってドルベさんは私のせいで命を落としていたかもしれないんですよ!」
「だが助けてくれたのも君だからな、この借りはいつか必ず返さねばなるまい」
「はぁ…あなたの心って海より広いんじゃないですか?」
「まさか。私だって友を傷付けられたら黙ってはいないさ」

意外とも思わず名前はふぅんと変哲ない相槌を打った。ドルベの言葉に力強さが宿ったのを感じて、彼の友とやらはどんな人なのだろうと考える。全然想像がつかない。追加で与えられた情報によると友人は王様とのことだった。名前にとってはドルベが王子様かなにかかと思っていたので彼が騎士だということに少々驚いた。ドルベはそんなに強そうには見えない。

「名前ももう私の友人だな」
「え?」
「む、勘違いだったか? たしかに人間の友人など必要はないか…」
「違います! 友人なんて……とっても、嬉しいです」

名前はこんなに素敵な友人ができたことを今にも仲間達に自慢したいくらいだった。人魚に、魚に、海鳥に。


楽しい時間というのはあっという間に終わってしまう。ドルベも日が落ちる前には国に帰らなくてはならない。

「さぁ、水を差すようで申し訳無いがそろそろお別れだ」
「そんな…せっかく友達になれたところなのに…もっと地上のお話を聞きたいです」
「名前…」

永遠の別れを迎えたかのように不安げな顔をするものだから、悪いとは思うもドルベは我慢できずにくすくすと笑い声を漏らす。おもむろに未だ濡れたままの左のガントレットを外してから、彼女の右手を取ってみた。驚き固まる名前をよそに、海水と同じひんやりとした体温にドルベは種族差を実感していた。

「そう肩を落とさずとも、ここで待っていてくれればまた会いに来る」
「じゃあ、ずっと待ってます」
「そんな簡単に信用して、もし私が悪人だったらどうするんだ」
「それはないです」
「断言は嬉しいが少し照れ臭いな…」

触れ合う手から、なまぬるい体温がじんわりと広がっていく。それは名前の知らない暖かさだった。日の光とは違う、胸の深いところにまで沁みていくような暖かさ。いつまでも冷めることはなく、手のひらから伝わる熱はやがて胸をも焦がした。

これが今世における二人の最初で最後の遭逢だった。ドルベは程なくして天馬と共に先途を遂げ、彼の不幸を知らず彼を待ち続けていた名前も、人の手によってその命を奪われてしまった。生まれ変われるのなら、今度は人間になりたい、それが人魚の最期の願いだった。






「――おい!」
「っ!」

男の声で、弾かれたように名前の意識があるべき場所に戻ってくる。眠り過ぎた休日の朝のように彼女の脳みそはぼうっとしていたが、自分の置かれている状況を理解すると呆けてなどいられなかった。
崩壊していくナンバーズの遺跡で、先程は凌牙が穴に落ちかけたところを間一髪で敵であるバリアンに救われ、今は彼女がその状況にある。人とは異なる彼の冷たく硬質な手が名前の手を掴んでいる。声も出せないまま、人間には出せないであろう力で引き揚げられると、名前は大きくため息をついた。ため息をつきたいのは二人の方だ。
窮地を脱し安堵する名前は掴まれていた左手がじんと痛むのに気付いた。余程に強く掴まれていたのだ、決して離すまいと。冷ややかな痛みが妙に響く。

「あ、ありがとうございます…えぇと、ドルベ、さん?」
「…あぁ」
「その、質問してもいいですか」
「何だ」
「昔…どこかで会ったことありませんか?」

突拍子もなく出た問いだった。ドルベなどつい最近に見知った存在であるから、名前にしてみても覚えも心当たりもない筈なのに、何故か訊かずにはいられなかったのだ。返答は案の定である。

「昔? …いや、無い筈だが。私はバリアンで、お前は人間だろう」
「そう、ですよね、私ボケてるから勘違いしたみたいで…ごめんなさい」

おかしな事を問うた彼女に、横で見ていた凌牙は怪訝な顔をして舌打ちする。

「おい名前、もうそいつに構うな。行くぞ」
「っ、うん!」

名前はドルベに一礼して、紺藍の後ろ姿を追った。数歩進んですぐに振り返る、彼はまだそこに居た。なぜだか懐かしさで涙が出そうで、魂が裂けるくらいに悲しくて、それでいて震えるほど嬉しかった。
今すぐにお気に入りの歌でも歌いたいくらい気分だ。

   
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