「溺れたい」
それは、彼女の突飛な一言で幕を上げた。
一体何を言い出すのかと思えば、出来もしない理想論ばかり。
それを成し遂げたことは一度もない。
机を挟んで、向こう側にいる苗字は、どこか寂しげな色を含んだ瞳を窓の向こうに向けていた。
「早くしないと、今日中に終わらないぞ」
彼女の言葉を無視して、パチン、とホッチキスの音を響かせる。
教師に頼まれたこの仕事は少しでも手を休めると終わらないだろう。
それほどに膨大な紙の束を前にしても、彼女は全くと言っていいほど焦っていない。
苗字はオレの方を見て、控えめに笑う。
そして、オレの名前を呼んだ。ゆっくりと絞め殺すかのように。
「人って、どうして水の中で息出来ないんだろうね」
「人の体に鰓がないからだ」
何がおかしいのか、オレの言葉に苗字は笑い始める。
「私ね、溺れたいな」
「意味がわからな…」
「海で溺れたい」
そう言って、微笑む彼女の肩から、サラサラと流れる長い黒髪。
その黒髪は水中の中でも綺麗なんだろう、と不覚にも思ってしまった。
人に死ね、と言っているも同然の事を思ってしまったのだ。
そう認識した瞬間に体を駆け巡るような何かに襲われた。
規則的に響いていた音は止んで、代わりに大きな音を立てて椅子が倒れる。
「……っ!」
立ち上がった弾みでプリントが散っていく。
そのプリントと息を飲んだオレを見て、苗字は僅かに目を見開いた。
「赤司、君?」
彼女の声は、水を通したように霞んで聞こえた。
ボコボコと水面に上がっていく泡の音が、どこからか鮮明に聞こえる。
乱れる息を必死に抑えて、苗字と目を合わせた。
「溺れたら、死ぬぞ」
そう告げた俺に彼女は口元を緩めて、目を細める。
クスクス、と妙に控えめな笑みを零して目を開けた。
「赤司君、どうしたの。何時もの君じゃないみたい」
もう一つ、笑ってから、苗字は持っていた紙束を閉じる。
パチン、と爽快な音が規則良く響き始めた。
「じゃあ、人魚姫になろうかな」
「は」
「人魚姫だったら、泡になって消えちゃうけどハッピーエンドでしょ?」
苗字はまるで当たり前のことを言うかのように呟いて、
作業を進めながら話を続ける。
先程から、オレの手は止まっていて、鳴る音は一人分。
彼女の作業している音しか響いていない。
「どうして、」
「ん?」
「そんな事を願うんだ」
「知りたい?」
彼女がニコリ、と微笑むのに一つ首を縦に動かせば
彼女は微笑みを崩さずに、パチンと音を鳴らした。
床に散らばった紙を集めて、椅子に座り直すと、
それを待っていたと言うかの様に苗字は話し始める。
「溺死すれば、少しは綺麗になるかなって思って」
「意味がわからないな」
「人魚姫、って結構いいかも」
王子様のために死ぬって理由があるもんね。
意味なく死ななくて済むもんね。
楽しげに話す苗字を見て、狂っていると思った。
彼女のは性格も明るいほうだと思うし、こんなにも可笑しなことを考えそうには見えない。
家庭の事情についても悪い噂は一つも聞かない。
どこに、死にたいと言える要素があるのだろうか。
「赤司君」
突如、飛んできた彼女の声に肩を少し揺らせて、
それからゆっくりと彼女の目を見た。
純粋で透き通っている。
綺麗になるもなにも、コイツはもともと汚れていない。
「私と人魚姫しない?」
「は?」
「そうしたら、人魚になれるかもしれないし。
私が人魚姫するから。で、地上の娘とか魔女とかはまた誰か誘ってくるからさ」
赤司君が居てくれて良かったよ。ぴったりだね。
魔女誰がいいかな。適任はいっぱいいるけどなぁ。
あ、そうだ。赤司君。
楽しそうに話しながら苗字が資料を閉じる。
パチン、パチン、と音は未だに一つだけ。
苗字は、無垢な笑みを向けてオレに言う。
「赤司君が王子様、してくれる?」