薄れゆく意識の中で、誰かが私の身体を強く抱き締めてくれていた。
呼吸も上手くできなくて、ただ分かるのは私がいる場所が水の中だということ。

「名前ちゃん」

名前を呼ばれてから唇に柔らかい感触が触れる。
その人は何度も何度も必死に私を呼んでいた。

「……く…ん…」

誰?…貴方は、誰なの?

私も名前を呼んでいるが、誰を呼んでいるか分からない。

朧気のままに伸ばした私の手は、力強く大きな手に握られる。
誰か分からないその人に「人魚姫」という物語を重ねながら、私はとうとう意識を失った。


ミーン、ミーンと蝉の鳴き声が聞こえてくる。
それに混じり男子達のかけ声や、女子達の黄色い声援も鼓膜を揺らした。

「………ここ、」

「良かったわぁ!気がついてくれてっ!」

目が覚めると見慣れた天井が視界に映り、そのすぐ側で私の顔を覗きこむように保健医がいた。
段々と覚醒してきた頭で、私はここが学校の保健室だということに気付く。

「あの、私はなんで保健室に…?」

「あら!覚えてないの!?」

「はい、すみません…」

私の言葉に驚いたように保健医が声をあげる。
ちょうどその時、ガラッと勢いよく保健室の扉が開かれ、そのまま私に向かって鮮やかな桃色が突進してきた。
例えるなら、闘牛士の気分。

「名前ちゃんっ!心配したんだよっ!」

「さっ、さつき…苦しい…っ」

パッと離れてから今度は私の手をぎゅっと握り、さつきは泣きそうな表情で私を見つめてくる。
なんだか、すごく心配かけてしまったらしい。

「ごめんね、心配かけて…」

「本当だよ!いきなり熱中症で倒れるからびっくりしたんだから!…でも、本当に、生きてて良かったぁ」

「それ、ちょっと大袈裟だから」

さつきと一緒に笑い合う。
少しだけふらつくが、身体はだいぶ楽になっていた。
これなら部活に戻れそう。

「先生、ご迷惑をおかけしました」

「いいのよ!でも、無理しちゃ駄目よ?」

「はい、ありがとうございました」

保健医にお礼を言ってからさつきに向き直る。
「はい、これ」と手渡された冷たいスポーツ飲料に、流石よくできたマネージャーだと感心させられた。
同じマネージャーなのに熱中症で倒れる私と大違い。

「ありがとう、さつき」

「ううん!…あっ、桜井くんにもお礼言うんだよ!」

「桜井?」

「うん!だって、名前ちゃんをここまで運んでくれたのは桜井くんなんだから!」

そっか、じゃあちゃんとお礼を言わないと

そんな風に考えながらさつきと一緒に体育館に戻る。
そういえば、長い夢を見ていた気がしたが、どんな内容か今はもう忘れていた。


「あっ!苗字さん!」

夏休みのある日のこと、相変わらずの部活のために私が体育館へ向かっていた時、聞き慣れた声が私を呼んだ。

「何してるの、桜井?」

「あっ、その、実は…」

私を呼ぶ桜井がいる場所はプールサイド。
そのプールを囲んだフェンス越しに見える桜井の手には、何故かバケツとデッキブラシが握られている。
どう考えてもプール掃除の格好だ。

どうせ誰かに頼まれたんでしょ、桜井は人がいいから…

それに至るまでの経緯を想像してしまい、思わず苦笑いが零れる。
人がいいのも考えものかもしれない。

「それ、部活開始時間までに終わるの?」

「人がいないので、難しいかと…僕が不甲斐ないばかりにすみません!」

「不甲斐ないというより、ただのお人好しだよ」

仕方ない、それに桜井には恩があるし…

「桜井、待ってて!すぐ戻るから!」

私はその言葉だけを残して急いで部室に向かう。
適当に自分の荷物を置き、それからプールに向かう。
その途中で今吉先輩に「掃除してきます」と一言告げれば、先輩は全てを悟ったように片手をあげた。

「さっさと終わらせるよ!」

「うわぁぁぁ!苗字さんまで巻き込んでしまってすみません!すみません!すみません!」

「この間のお礼だから気にしないで!」

桜井と2人で広いプールをブラシで磨く。
桜井曰く、つい先程まで水泳部の人達がいたのだが、ほぼ全員が熱中症でダウンしてしまったらしい。
おい、何してるんだ、水泳部。

その水泳部員が保健室送りにされる所を偶然遭遇してしまった桜井に残りの掃除を押しつけていったとか。
本当、想像通りで言葉がでない。

「ねえ、桜井…」

ふと、隣にいる桜井を呼んでみる。
素直に振り向いてくる姿に思わず頬が緩む。

「どうしました…って、うわぁ!?」

バシャンと涼しい音を立てて桜井に水をかける。
全身ずぶ濡れにさせた桜井は、今度は私に向かってホースの水をかけてきた。

「僕だって負けないもん!」

どうやら私は地雷を踏んでしまったみたいだ。
いくら負けず嫌いでも、こんな時にその性格を発揮しなくてもいいのに、そんな言葉は今の桜井には通じない。
結局私達はしばらく掃除を忘れ、お互いに水をかけあって楽しんでいた。

「もう、冷たいよ。びしょ濡れ…」

濡れたシャツをしぼってみれば、吸い込んだ水分がたくさん流れ落ちていく。
私の隣で桜井も困った表情でシャツをしぼる。

「結構濡れちゃいましたね…」

うんうんと頷いてから桜井に近付こうとした時だった。
私の足が濡れたプールに足を滑らせてしまい、あっと思った時には私は後ろに向かって倒れていった。

「名前ちゃんっ!」

桜井が私に向かって必死に手を差し伸ばし、そのまま私を守るように強く抱き締める。
プールの中に私達の身体は叩きつけられ、先程転んだせいで私達が持っていたホースやバケツが宙を舞った。
バシャンと激しい音を立てて、お互いに頭から水を被ってしまう。

あれ、この光景、何処かで…
それよりも、桜井はさっき、私を…

「大丈夫ですかっ!?怪我してないっ!?」

桜井が必死に私を呼んでいる。
同じだ、この光景、知ってる。
そうだ、私、以前にも同じことがあったんだ。

「同じだ…」

「えっ」

「幼い頃、海で溺れた時と、同じ…」

あの日も、友人に声をかけようとしてこうして足を滑らせてしまった。
あの時は岩場で足を滑らせて海に落ち、溺れてしまったのを助けてもらったんだ。

「ありがとう」

そっと手を伸ばせば、桜井がぎゅっと握ってくれる。
力強く抱き締めてくれる腕に、懐かしさが募っていく。

「本当にありがとう、あの日もこうして助けてくれて。…忘れててごめんね、良くん。やっとちゃんと思い出したよ。」

「……ずっと忘れられたままで、僕、寂しかった」

「教えてくれればいいのに…」

「だって、名前ちゃんが気付いてくれるまで待とうと思っていたので…」

ごめんね、もう忘れないよ

想いをこめて口付ける。
温かな唇の感触はあの日のままだった。


私はずっと彼に助けられていた。
それなのに、私は彼のことをずっと忘れてしまっていたにもかかわらず、彼は何も言わず私の側にいてくれた。
まるで、彼は性別は違えど「人魚姫」という言葉がぴったりだと思う。
そうすると、私が彼の「王子様」になってしまうのだけど。

でも、私達が「人魚」と「王子」なら悲しいストーリーには絶対にしない。
その証に、私達はお互いを見つけることができたのだから。



恋に溺れた人魚姫

優しい人魚姫を泡になんてさせないから

   
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