「好きだ」
彼女にそう伝えてから一週間が経とうとしていた。
「〜♪」
夕暮れの海辺の砂浜に、腰を下ろしながら気持ちよさそうに鼻歌を歌う彼女。その横顔を見つめながら砂浜を踏みしめて歩いていくと、近づくおれの姿に気づいた彼女はその歌を止めて、ゆっくりと振り返った。
「準備、もういいの?」
まるで、準備が終わってほしくない、とでも言うように彼女の顔には懇願の色が滲み出ていた。おれは、また少し歩いて彼女の隣に腰を下ろす。
「ああ。あとは始めるだけだ」
「そう」
おれから外れ、砂浜に落とされた視線。その瞳は、海で生きる者だけがもつ、深く美しい海の色。しかし、その瞳は不安の色に染まるように、ゆらゆらと揺れていた。
大丈夫だ。
そんな気休めの言葉のひとつやふたつ、口に出来れば良いのだろうけれど、おれには決してできなかった。
これから、おれたち陸の人間と名前たち海の人間は海神様とおじょし様が出会った頃の一番最初のおふねひきをやろうとしている。
“おふねひき”、それは昔、おじょし様と呼ばれる生け贄の少女を船に乗せ海神様に捧げる儀式だった。今では、その少女の代わりに木で作ったおじょし様と供物を捧げ、海からの恵みへの感謝の意を込めて行う儀式となっている。しかし、今年は陸と海の人々の対立でやらない予定だったのだが、おれや光達、中学生が中心となって大人達を説得しここまでやってきた。絶対に成功させようとみんなで誓った儀式だ。
しかし、今回のこのおふねひきは今までのものと違う。
対立の多い陸と海の人間が、意見を出し合い、仲良く共存できるように。陸海関係なく、みんなにそれぞれ大切な誰かがいて、その人たちとずっと一緒にいられるように。そんな願いを海神様に届けようとしている。
「早い、ね」
ぽつり、彼女が言葉を零す。その言葉に、おれも月日の流れの速さを改めて実感した。
ほんの数ヶ月前に、おれの通う美濱中に転校してきた名前たち。はじめのうちは、おれたち美濱中の生徒と相容れない様子だったが、今ではすっかり馴染んで冗談言って笑いあえる仲だ。ほんの数ヶ月。ほんの数ヶ月のできごとなのに、名前たちと出会ってからの毎日は、まるで知らない世界に飛び込んだように青の光が眩しくて、充実した日々だった。そんな日々の中で芽吹き、膨らんだ彼女への気持ちも、月日の早さを物語っている。
「そう、だな」
名前は、海の人間だ。日々近づいてきている氷河期に備えて、海の人間は冬眠をしなければならない。彼女もその対象から離れることはなく、冬眠の日、つまり今日、おふねひきが終わったら、いつ目が覚めるかもわからない冬眠に入ることになっている。
いつ、目が覚めるかも、わからない……。
もし、もしだ。このまま本当に、名前たちが冬眠に入って何十年も眠り続け、おれが生きている間に目が覚めなかったらどうなるのだろうか。今日という日が、彼女に出会う最後の日となってしまったら……。万が一、おれが生きている間に彼女が目を覚ましたとして、おれの記憶がなくなっていたらどうすればいい。
そんなネガティブなことばかりが頭に浮かんで頭を抱えていると、隣から砂に何かを描くような音が聴こえた。なんだろうと視線をそちらへ向けると、そこには彼女の独特のあの少し丸まった字で、“紡”、“名前”、そしてその下に書きかけの文が並んでいた。彼女の手には小さな貝殻。しばらく砂に書かれた文字にくぎ付けになっていると、ぴたりと名前の手の動きが止まった。
海風が彼女の髪をさらう。名前の微笑みに、空気が震えた。
「あたし、紡が好きよ」
彼女の口から告げられる、気持ち。
本当は、ずっと前から知っていた。名前がおれのことを好きなことを。おれたちは両想いだってことを。きっと、彼女も知っていた。それでも早くに気持ちを伝えなかったのは、さよならをするのが怖かったから。でも、そのお互いの暗黙の了解を切ったのはおれだった。変な意地を張っているのはおかしいと、自分の気持ちは自分の口から伝えたいと、そう思ったからだ。でも、彼女の方はやはり今日という日の訪れが怖かったようだ。それでも、今繋がったおれたちの気持ちに、おれの心は幸せに包まれる。
“ありがとう”、とやっとのことでしぼりだした声に彼女が笑った。
「なぁ、」
「ん?」
「歌の続き、おれのために歌ってくれないか」
おれがそう頼めば、名前は返事の代わりに綺麗に微笑んで、唇に歌をのせはじめる。やはり彼女は人魚のようだと、心地良い歌声に耳を傾けた。
『ずっと、一緒にいたい。』
砂に貝殻で描くおれたちの未来。冬眠に入って目覚めた彼女の隣におれがいる未来。冬眠に入ってしまえば、いつ目覚めるかを知るものはいない。それでも、何年経ったとしても、おれは名前の隣にいるから。
ふたりで描いた道しるべ。隣で微笑む彼女と共に歩んで行けますように。