「平成」という前世を覚えていることについて、私が何か不満を抱いている訳でも不都合があった訳でもない。その時代錯誤な知識をけしてひけらかすことのないよう、注意して日々を過ごしているだけである。
 四国は土佐、どうやら私の知るそれとは大きくかけ離れた幾つかの点を包含する、この群雄割拠の「戦国時代」に再び生を受けた。何の因果か、私の父はこの国で一番偉い人の臣下であり、私は父にとって四番目の子供であると同時に、遅くに生まれた長女でもあった。兄達はとうに初陣を済ませ、戦から帰ってくると、十にもならぬ幼い私を父も交えて四人で代わる代わる抱き上げて頬擦りをするという習慣がある。こういう時、嗚呼私は愛されているのだなあと実感するのであった。
 父がそんな私を連れて城へ出仕し、敬愛する主人へのお目通しをお願い申し上げたのは、私が生まれて九年ほど経った秋の日のことだ。苗字の屋敷よりもずっと広く大きな城の広間で、私は父の隣に小さくなって座っていた。上座に現れた男の人は、曇りのないからっとした笑顔で父と私を出迎えた。
 男の人と父が幾つか言葉を交わしているのを話し半分で聞いていると、ふいに名前を呼ばれたので驚いた。申し訳なさそうな顔をした男の人が、自分の長男と仲良くなってはくれまいかという旨のことを私へ持ち掛けてきたのである。その長男というのが、なんとまあ引っ込み思案で人見知りで泣き虫な上に引きこもりという、どう考えてもコミュ障を拗らせまくった子供であった。父の上司直々に頼まれてしまっては、嫌ですだなんて口が裂けても言えない訳で、私は幾らも経たないうちに、此処の侍女に連れられて城の廊下を歩いていた。
 侍女の話によれば、部屋には父母と弟妹しか入れず、どの侍女も色々あって(この辺りは上手く誤魔化された。何なのだろうか)誰一人として側近えが続かず、悉くお手上げだという。何という問題児…。かくいう侍女も、部屋の手前の曲がり角で足を止めて私を見遣る。ああ、此処からはお前だけが行け、と。私はとくに何も言わないまま、一人で曲がり角を曲がった。無邪気な子供らしく侍女を追及しても良かったのだが、肉体は九つでも精神的な年齢は彼女より上なのだ。つまりは私の矜持の問題で、そこまで大人げないことをしようとは思えなかった。
 よく晴れた昼間だと言うのに、障子はすべて閉まっていた。この時間は件の子供が一人でいるそうだが、何と声を掛ければいいやら、引きこもりの相手などしたことがないのでいろはが分からない。私の唇がはくりと空気を吐き出した。

「……だれ…?」

 声変わりのしていない、少年にも少女にも聞こえる高い声音が誰何を問う。その細い声に私はようやっと腹を括った。

「あなたのお父上の部下に、苗字という者がおります。私はその娘の名前です」
「名前…」

 かたり、と部屋の中で微かな音が聞こえる。帰れとか言われたらどうしよう、とぼんやりした頭で思考していると、本当にほんの少しだけ、廊下に正座している私の目の前の障子が動いた。条件反射の要領で、無意識のうちに私はかんばせを持ち上げていた。
 敷居を跨いだ向こう側で私と同じように膝をつき、さながら鼻を突き合わせる格好の子供がひとり。雪のような白銀の髪に、真っ白い頬がうっすらと赤らんで可愛らしい。朝露みたいにきらきらと光る、青みがかったひとつきりの瞳がとても綺麗だった。その小さな顔の半分を頭ごと包帯で隠し、それすらもすぐに紅色の袖でぱっと隠してしまった。
 女の子の私より女の子らしい仕草と色彩に目を奪われているうちに、開いていた障子の隙間がぱたりと閉まる。無理矢理開ける訳にもいかないし、微動だにしないまま内心おろおろしている私の耳に、ともすれば聞き逃してしまいそうな泣き声が届いた。

「…っご、ごめんね……嫌なもの見せて、ごめん」

 この時、私は此処までのすべての違和感が払拭されるのを理解した。この子供がこの部屋を出られないのも、側近えが長続きしないのも、私の視線を拒絶したのも。二度目の人生の中で初めて、この時代を酷く忌々しく思った。記憶の中の前世なら少なくとも此処までは、人の心に巣食う偏見と忌避の鋭さはなかっただろうに。
 私が何を言ったところで、気休めにさえならないことはよくわかる。恐らくは生まれた時から「こういうこと」に悩まされてきた筈だ。そんな生半可な言葉で解決するような問題ではないのだ。私は目を閉じて考えた。

「私は、戦が嫌いです。女の身ゆえ、戦場に立ったことなどありませんが、父や兄達は違います。皆身体は傷だらけで、それらが醜いからと私の目に触れるのを嫌がります。距離を置かれ、お前は知らなくていい、見なくていいと諭されます。私は、」

 喉が震える。怪我をした兄が部屋の中から、掠れた声で入るなと私を止める記憶が脳裏に蘇る。酷い怪我だから見せたくないのだと。頭では、兄が私を思って言っていることだとわかっているのに。

「私はそれが、何よりもつらい」
「……隠されるのが、つらいの?」
「ええ。 それと、心の距離が離れてしまうこと」

 堪えた涙で揺らぐ視界の真ん中、障子の向こうの影に問う。私とあなたは今この瞬間、この世界で誰よりも一番近くにいるのだけれど、私の言葉はあなたの心に届くでしょうか。

「銀色はお嫌いですか」

 息を飲む音が聞こえる。布擦れの合間。

「……きらい」

 自分に言われたのではないのに、それでも声は私を襲う。涙が一筋、頬を滑り落ちた。

「寒い冬に北国の地を覆う雪が、日の光に照らされた時の色です。夜の闇に沈む瀬戸内の海を照らす月の光の色です。皆を守る白刃の色です。とても美しくて、強い色です」

 障子がさっきよりも大きく開く。揺らめく海に似た青い隻眼が、私を真っ直ぐ見詰めている。私の表情がどんなものだったか、私に知る術はないが、相対する子供は瞠目からくしゃりと泣き笑いのような顔になった。

「泣かないで、名前」

 白く温かな手のひらが躊躇いを乗せてぎこちなく触れ、濡れた私の目尻をやわらかくなぞる。照れくさそうに微笑んだ海の瞳からも、透き通る雫が一筋溢れて着物に染みを作るのが見えた。

「…あなたこそ」

 小さな子供がふたり、秋の高い青空の下で顔を寄せて笑いあっていた。






 夕方近くから強まり始めた風は、とっぷりと日が暮れた今、激しい雨を伴って瀬戸内の海を好き放題に荒らし回っている。城下の町衆は皆雨戸を閉め、明かりを消して床に入るころだろうか。港の船が流されないといいのだけれど。
 嵐の夜というと、私は前世で読んだひとりの人魚の話を思い出す。真っ赤な蝋燭を残して香具師に売られ、嵐の夜の海へ帰っていった人魚の少女。彼女は何も悪くなかった。ただ、人魚を思う人の心が酷く愚かだっただけ。
 そういう愚かな人間達に鬼だと言われ続けた人は、幼い頃からちっとも色褪せない青い瞳に私を映して笑った。部屋に灯された橙の火が、銀の髪と外された眼帯を淡く照らし出す。私の背を引き寄せた手の温もりは、いつかの秋の日と変わらない。

「…まだ、銀色は嫌い?」

 きつく抱き締められた力強い両腕の中、広い肩に顔を埋めてそっと尋ねる。吐息のような低い笑い声が、耳の傍にあった。雨音が遠くに聞こえる。

「お前は好きなんだろ。この色」
「あなたの色ですもの」

 誇らしさに胸を張って答えると、細められた眼と嬉しげな笑みが降ってくる。塞ぐ唇は何処までもやさしい。
 彼は傷を隠さない。色を、心を隠さない。幼い私の拙い言葉を今も覚えているのだ。勿論私も彼の言葉を忘れない。自分が好きになれないなら、その分も私があなたを好きでいよう。

「泣くな、名前」

 青い海がゆらゆらと揺れる。
 俺が俺を好きになれなくたって、名前が俺を好きだと言ってくれんならそれで構わねえさ。俺はそれ以上にお前が大好きで、大切だからよ。
 私の髪を撫でる手のひらは、昔より随分と大きくなったけれど。

「…元親こそ」

 泣き笑いの表情は今も変わらず、私は愛しい旦那様の背に同じように腕を回して微笑んだ。
 溢れ零れた雫が先に滑り落ちたのは、果たしてどちらの頬であっただろうか。

   
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