日が暮れてもうどれくらい経つだろう。すっかり窓の外は漆黒に染まり、家屋の明かりも点々と星のようにしか光っていないような時間だ。上の住人の物音さえもしなくなった。
 ゆっくりとバスタイムを過ごした私は先日買ったいつもより少し高めのパックを手に取り、テーブルの上に置きっぱなしだった鏡の前に座り込むと、背中の向こう側からガチャリと鍵の開く音に不意に振り向き、少しだけ封に切れ目を入れてしまったパックを手元に置いた。扉の向こうから現れる姿はもう容易に想像できる。


「あ、おかえりー」
「おう、ただいま」
「遅かったね」
「残業させられた」
「お疲れぇ」
 想像通りに疲れた様子で帰ってきた私の彼氏。朝しっかりセットしていた髪も既に弱々しく崩れている。
 ドサッと汚れた作業服を乱雑に置いたキッドは、パンツ一枚の姿でコタツに入りこんできた。いや、とりあえずズボン履いてきたら?なんて私の言葉は彼の耳には届いていないようで寒い寒いと言いながら肩までコタツにすっぽりだ。


「つーかお前、今日仕事休みだったんだろ?」
「うん?」
「……」


 何かを言いたそうに辺りを見渡すキッド。こたつの周りにはさっきまで読んでた雑誌とか、今朝から置きっぱなしの服とか取り込んだ洗濯物とかが見事に散乱。キッドの視線は見事にそれらを追っていて、バカな私でも何が言いたいか何となくわかったくらいだ。


「…一日中何してた?」
「んー…とね、この前出た新作のゲーム。仕事でなかなか手つけられなくてさー、やっと始めたんだけど楽しくて止まんなくて!」
「もっとやるべきことあんだろ」
「何よ小姑みたいに。めんどくさー」
「はァ?」


 逆切れも甚だしいことは重々承知だ。だけど私は彼のこういうところが嫌いで。もっとハッキリ「ちゃんと部屋片づけろよ」とか言われれば素直に謝る気にもなれるけど、こうも遠まわしに嫌味のように言われると妙に腹が立つ。
 とはいえ、今の自分の立場はわかっているつもりだ。ふてくされた態度を取りながらも、まずは山積みになった洗濯物を畳むことにした。


「夕飯食べてきたんでしょ?」
「おー」
「お風呂入る?それとも私?」
「風呂」
「冷たっ!もうちょっと構ってよ!」
「うっせェ!こっちは疲れてんだよ!」


 大きな声をあげるキッドに耳を塞ぐような仕草を見せると、バカにしてんだろだなんて首からぐいっと彼の方に引き寄せられた。だから私は寒さで少しだけ赤くなった彼の鼻をきゅって抓んでみる。別に意味はない。目の前にきたもんだから、ただ何となく抓んだだけ。


「なんらよ」
「可愛いなあと思って」
「バカにすんら!」


 鼻を抓まれたせいかうまく喋れてないキッドはいつもの数倍可愛かった。そんなキッドを見て、いひひって頬の筋肉を緩めた隙を突かれると今度はキッドも私の鼻を抓む。
 テレビから聞こえるバラエティー番組の音と、追い炊きが終了したことを知らせるピピピピッという電子音。私たちの周りに聞こえる日常の音の中で、私たちが見せる日常の姿はきっと他人から見たらバカらしい光景なのだろうけど、私にとっての幸せの形のようなものだ。キッドがどう思ってるかは知ったこっちゃないけど。


「アホくせェ。風呂入ってくる」
「一緒に入りたい?」
「一人で入りてェ」
「あーらら」


 口を尖らす私なんて放ったらかしで、パンツ一丁のキッドは脱衣所に向かって行ってしまった。
 とりあえず、お風呂から出てきたキッドにまた小姑のように小言を言われる前にさっさと洗濯物を畳んで、適当にテーブルの上を片付けて。あとは林檎でも剥いておけばそれで少しは機嫌が直るかな。ずっと地べたにくっつけてたせいで重たい腰を上げると、浴室の扉が開く音が私の耳に届く。


「うおっ、ぎゃぁあああ!!!!」
「?!」


 それと同時に聞こえた叫び声。ドッタンバッタン、まるで子供がいる家のような足音が響き渡りながら、腰にタオル一枚巻いただけのキッドが再び私のいる部屋に走り寄ってきた。


「ゴッ…ゴ…!」
「はい?」
「ゴキブリが出たじゃねェかよ!!」「うげっ、マジ?」
「てめェが掃除しねェからだぞ!!」
「えー、掃除したってゴキブリくらい出てくるよ」
「これじゃ風呂入れねェだろ!!」
「はい、殺虫剤」
「ばっ、てめェが責任もって退治しろよ…!」
「……怖いの?」
「こ…っ、怖く…ねェよ、俺が?ゴキブリを?俺様がゴキブリなんか怖がるわけねェだろ?」
「じゃあ早く、はい」
「断る!」


 ほらやっぱり、怖いんじゃん。って言ってやろうかと思ったけど、今はやめた。時計は既に日付を越えて1時間ほどを指している。ここでキッドをからかったりなんかしたらきっとまた大騒ぎされるし、うるさいカップルがいるだなんて苦情が来ちゃうかもしれないしね。



103号室
本日もお騒がせしております




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20111213
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