-1-

ああ、骨になりたいと云った彼女の真意が解らず、私は実に雲散霧消とした相槌をした。端から聞いたら唸り声だ。図らずもぎょっとしたからかもしれない。平生から明朗な彼女から出た言葉は、私にとって意外以外の何物でもなかった。私は惑う。一体骨とは何なのだ。

「水母の骨ですよ。タツさん」

そう云って彼女が笑むものだから、私はどうしようもなく哀しくなってしまった。





-2-

そもそもの出会いというのは実に単純なことで、まあ、その間には色々あったのだが、そんなの路傍に転がった石ころと同じだと私は思う。くだらない。幼友達は兄妹にも無二の親友にもなりえないものだ。絆は呪い。見えないから実際相手がどう思っているかなど解せるはずもないのに、どうしてだか縋ってしまう。
見事な夕日だった。見る度にあの日のことを思い出す。買い物をした帰り道、隣を歩く榎木津さんはうんと伸びをして破顔した。

「今日は鍋だ! すき焼きだ!」

長身の彼のしっかりした腕の中でネギがひょこんと生えているのが滑稽だった。優しく持たないと卵が割れてしまいますと云ってみるものの、彼は一向に気にかけようとしない。足取りは軽く、夕日に向かって一直線に歩いていく。しかし、私の窘めた声も一体どうして優しげなのだから、これは仕方ないことだった。

「一人暮らしだとなかなかこういうものは食べられないので、今日は誘ってくださってとても嬉しいです」

そう云うと彼は鼻で笑う。

「じゃあ、うちに住めばいいんだ。僕もいるし寂しくなんかないだろう」
「それは楽しそうですねぇ」
「楽しい? そりゃ愉快に決まってる。ただ、僕は和寅やマスカマがいるからいつも骨折りのくたくただ!」
「あははは」
「僕は常々考えていたことがある。何故京極堂の家に千鶴さんがいて、関君に雪ちゃんがいるというのに、僕のところにはむさ苦しい野郎しかいないんだ。華がまるでないじゃないか」

華は自分が華であることにまるで気付かない。だからこんなにも綺麗なのだ。

「榎木津さん、質問をしても構いませんか」
「この場合、そう尋ねること自体がまどろっこしい。訊くならさっさと訊く。簡潔にだ」
「はい、簡潔に。私は榎木津さんにとって何なのでしょう。友人ですか、それとも数ある下僕の一人ですか」

鳶色の瞳がこちらを向いた。猫がまどろんだように目を細め、その中に私が映る。唇を薄く開いて、どちらともつかない顔。目を逸らすと榎木津さんは勝ち誇ったように表情を崩した。燃えるような日の光と相まって精巧な顔のつくりがより一層際立つ。しかし、それも夜があっという間に覆い隠してしまうのだろう。

「つまらないな」

白い息が宙を舞う。

「誰であろうと僕以上の者はいない。つまり僕がてっぺんなのだ。だから、下僕と云えばみぃんな下僕。ただ下々の者に慈悲を恵んでやらねばならないから、時には喜ばせてやろうと思う」
「神様というのも大変ですね」
「そうだろう。しかし、関君は、あれは元々けなされ、撲られるために生まれてきたような猿だから情けはかけぬが、それでももう何年も一緒にいる。思えば気味が悪い。しかし、そういうと君は恵まれてるよ。僕は君に優しい。感謝しなさい」

榎木津さんは目が悪い。戦時中浴びた照明弾の光が彼の視力を奪ったらしい。皮肉なことだ。自らが光源のような人なのに、光が彼の目を奪ってしまうだなんて。優しさは残酷だ。空のてっぺんは既に青みがかった色をしている。冬に差し掛かった季節の境目というのは瞬きしている間にも時間を攫っていく。
事務所に帰ると、和寅さんと益田さんが迎えてくれた。すき焼きということで探偵助手も今日は居残りらしい。鍋と卓上コンロがミスマッチにテーブルに置かれている。帰った途端に寒い寒いと騒ぎ始めた榎木津さんは抱えた荷物を手放して、一直線に向かってコンロの火をつけた。

「おお! 暖かい!」
「そりゃ暖かいでしょうよ。じゃなくて、先生。寒いならストーブがあるのにコンロの火をつけないでくださいよぅ。空焚きなんて危なっかしくてしょうがない」
「なら、中身があればいいんだな! よし、すき焼きだすき焼き!」
「その前に手洗いうがいですよ。全く、困ったオジさんですねぇ。ね、それくらい子供でも解る。そう思いません?」

益田さんの言葉に私は曖昧に笑んで返した。割と小声だったのだが、耳聡い榎木津さんはすかさず彼に詰め寄ってその頬を延ばす。益田さんはあられもない悲鳴をあげた。

「ひぎゃっ! 痛い痛い!」
「うはははは! マスカマの癖に調子に乗るからこういう目に遭うのだ。どれ、喋れないように口を引きちぎってやろう!」
「そんなぁ」

賑やかな場所に私も頬を緩めた。彼も懲りないですなとひとりごちる和寅さんと夕餉の支度を始める。ネギや白菜を切る。牛脂をひいて具を入れる。割り下で味をつけて、器に卵を割っている間も榎木津さんの容赦ない攻撃は続き、出来上がった瞬間に彼の関心が漸く移った。

「肉!」
「はいはい、肉ですね。ついでだから水菜と豆腐も入れておきますね」

流石に扱いに慣れている。和寅さんは彼の器に適当に具を放り込んだ。

「じゃあ、君のは僕が入れてやろう」
「え、いいんですか?」
「いいも悪いもないだろう。この僕が云ってるんだから、君も一々面倒な奴だな」

私の手から強引に器を奪い、和寅さんから菜箸を取り上げると、ひょいひょいと肉をつまみ上げた。無造作に入れるものだから、溶いた卵やすき焼きの汁があちこちに飛んで仕方ない。返ってきた私の器にはこんもりと山になるくらい具が入っていた。

「どうだ! 一杯食べてたくさん大きくなるんだぞぅ」
「はぁ、彼女はもう立派なご婦人なんですから大きくはならんでしょうよ」
「煩い! 喜んでるんだからいいじゃないか」
「ふふふ、ありがとうございます」
「ほらみろ。バカオロカも見習って、僕を感謝し崇めるべきだ」

いっぺんに頬張った肉と白菜はとても美味しかった。あんまりもここは暖かくて、こんなにもすき焼きが美味しかったことなどないと思ってしまう。ぐつぐつ煮えた鍋の蒸気で窓が曇っている。ブラインドの隙間から見えたぼんやりした月は満月だ。卵の黄身を彷彿とさせるような色に見えた。手を伸ばせば届きそうな気がして目を細める。実際、届くはずもないのだ。光を反射した天体はただ地球を回っているに過ぎないのだから。





-3-

私は歩く。彼女の手を引いて。彼女の表情は見えない。私の少し後ろを歩く彼女は呼吸が荒い私と真逆で、息が乱れることもなければ跫さえも殆どなかった。私は突如幽霊の手を握っている気がしてぞっとする。しかし、それは私の錯覚なのだ。彼女の指先はほんのりと熱を帯びていて、確かに此処にいる。

「タツさん」

いけないわと彼女は云う。何がいけないのかと思う。私はこうして彼女を救わんとしているのに。

「何処に向かってるの」
「海だよ。君は海が好きだっただろう」
「……覚えてくださっていたんですね」

見えないが、彼女が目を伏せる気配がした。睫毛が長く、頬に影を落とす。とても美しいものを汚してしまった気がして手を離したくなったが、緩めた途端、彼女の手の力が強まった。落日と私が呟くと、好きですと彼女が答えた。ぎょっとした。

「日が昇る時もそうですけど、空の色がぼやけるでしょう? 私はあの青と赤の間にある色が好きなの」

上手く説明できないけどと彼女は言葉を濁したが、元来失語症を発症している私よりかは幾分も的確に述べる。曖昧に云うよりも、意図するところと違っても具体的に述べた方が相手の理解を得られることがある。彼女はそういった意味では非常に直線的な人だった。
幼い頃、私の住んでいる辺り一帯を取り仕切るがき大将に唆されて、木登りをさせられたことがある。当時から私は軟弱な奴だったから、運動が苦手で、もちろん木登りなんて以っての外だった。高い所から見る景色はいいと云うが、私からすれば地に足をつけることでやっとなのだ。景色なぞ木に登らずとも見れる。それにいい悪いは主観的なもので、登ったところでその景色が美しいと思うかは私の勝手だ。その考えは例によってその頃から変わらず、確か舌足らずな言葉で同じようなことを云ったと思う。皆、呆れ顔だった。度胸のない奴だと思ったに違いない。実際、私自身もそう自覚していたのだから。彼女は私の手を握った。汗ばんだ掌だった。真っ直ぐ切り揃えた前髪から覗く二つの瞳が私を捕らえる。逃げられない。

「じゃあ、私が代わりに登ってあげる」

手が離れる。汗ばんでいたのは私の方だった。あれよあれよという間に彼女は木の凹凸の激しい部分に手をかける。幹に腰掛ける。

「綺麗よ。とっても」

彼女は私の目の代わりになった。スカートから伸びる細い脚が頭上でゆらゆら揺れる。思えば、彼女はいつも私の側にいたような気がする。旧制高校の学生だった時も、手違いで戦線に立たされた時も、確かにそこはいなかったが、どこかで誰かが見守っているような感覚があった。彼女はいわば保護者だったのだ。私の目の、手の脚の身体の代わりになって。
電車に乗り込んだ途端、未だ躊躇いのあった彼女の動きが急に柔順しくなった。諦めたのだろう。私達は空いた席を見つけるとそこに座った。彼女はあれきり沈黙を貫いていたが、目だけは真っ直ぐ光り輝いていた。彼女の視線の先を追うように車窓を眺める。海は遠い。彼女から金木犀が香った。果実が爆ぜた時に近い甘美な匂いに嗅覚が敏感になる。私は瞼を下ろした。少し眠ろう。そうすれば海が見え、彼女だってまた笑ってくれる筈だ。それはそうに違いなかった。





-4-

働くということは責任を持たなければならないことだと云う。しかし、どうしたって責任は必要なのではないだろうか。貴金属店で働く私は高価なものだからと、とても慎重になる。時世はまだ日々暮らしに困窮する者への風当たりが強い。しかし、そんな時だからこそ貴金属は要るのだと同僚は云って笑う。

「例えば、そこの首飾りの真珠だって放っておけばただの白い玉よ。善哉にして食えやしない。けどね、これを身につけたいって思う人がいるでしょう? すると、ただの玉は人々が憧れる太陽となる。手に入れたいという欲求が人を強くするの」

光源は身近なところに存在する。見る角度によって、そう見えるか見えないかだ。私は少しでも明るい光が皆に届くように愛想を振り撒くだけ。あれは私の光なんかじゃない。私の太陽はすぐ、そこに。

「ありゃ? 奇遇ですねぇ」

仕事終わりの商店街。魚を買って帰ろうとすると、彼の探偵助手に会った。益田さんだ。

「こんばんは。今帰りですか?」
「ええ、そうです。益田さんも?」
「そりゃあ。僕ぁこの通り、事務所に顔出して今日の成果を報告した後、くたくたになって帰路につく真面目で善良な一市民です」
「よろしければご一緒に」
「あ、いいですか?」

疑問符をつける割に遠慮心がないのが益田さんのいいところだと思う。私は笑うと、荷物は持ってくださいねと云った。うひゃあ、尻に敷くつもりですかと益田さんは態とらしく反応する。今日も夕日は赤く燃えている。益田さんは隣に立つと、早速私から手鞄を優しく奪った。

「聞きましたよ。関口さんの幼なじみなんですって」
「よくご存知で。榎木津さんですか?」
「猿の分際で生意気だッ! 彼女の頭の中はいつも醜い猿でいっぱいだ! なんてそりゃあもうこてんぱんに」
「ふふふ。それは非道いですねぇ」
「いやしかし、僕にはちっともわかりませんが、そんなに関口さんだらけなど物好きな」
「そうですか? そうでもないでしょう」
「いや、まさか恋しい人だったとか?」
「……いやだ、昔の話ですよ。彼には雪絵さんがいますし、私はもう役目を終えましたから」
「んん? だからもう恋しくないと? それじゃあ、理屈が通りませんよ。オジさんは何かと煩いですし」

私は笑って誤魔化した。榎木津さんは視力を失った代わりに、人の過去を視る力を手に入れたらしい。厳密に云うと、それは幼少時代からだったと聞くけれども、私の頭の中の像と像を結び付けることができるだなんて、そうでなくても信じられないことだ。もう真っ暗ですねと益田さんが都合よく話を変えたので、私は頷いてそれに答えた。寒い。吹く風は冬そのもので上着の襟を合わせる。私の好きな時間は一瞬で終わりを告げる。
沈黙を埋め合わせるように一緒に夕餉を食べますかと誘ってみたものの、女性の一人住いに上がり込めませんよとやんやり辞退された。そりゃそうだ。訊いた私が馬鹿だった。けけけと独特の笑い声をあげるものだからむくれる。まあ、嬉しい誘いではありますけどねぇと益田さんは云った。

「僕なんぞがお宅にお邪魔したら、翌日にはうちの探偵にその事実が発覚して、半殺しの刑です。疚しいこともないのに、たまったもんじゃない」
「この間すき焼きをご馳走になった時、榎木津さんが和寅さんや益田さんの世話をしてくたくただって云ってましたよ」
「くたくたぁ? そりゃあ、こっちの台詞でしょうに」
「あははは。そう榎木津さんにお伝えしましょうか?」
「非道いなぁ。僕なんて小物、煮て食ったって腹の足しにもなりゃしません」
「あら、それはやってみないと解りませんよ」
「うへぇ」
「それは鳥口さんの物真似?」
「違いますよぅ。もう、あなたも人が悪い」
「悪くて結構ですよ」
「で、榎木津さんは」

ふいに話が戻ったから苦笑した。自分で話を切り上げた癖にやっぱり気になるんじゃないか。

「優しい人です。でも、益田さんが勘繰るような仲じゃありませんよ。榎木津さんは私の太陽ですから」
「太陽ぅ? 云いすぎですよ」
「いいえ、太陽ですよ。云いすぎでも彼は元々そんな人なんですから」

困っていたのに、素直に云うことができた。これが時の流れなのだろうか。だとしたら、私は随分と図太いつくりでできている。益田さんは鼻を赤くし乍ら、オジさんが太陽なら湯たんぽ代わりになってくれないですかねぇと零す。曰く、冬は寒くて朝が辛くて仕方ないだそうだ。私はまたお鍋が食べたいものですねと返して笑った。空を見上げる。一番星はとうの昔に輝いていた。生憎、星の名前は一寸も解らなかったが、幸せは気付かぬうちに道端に転がっていたのだと思って、私は彼を想って泣きたくなった。





-5-

潮の匂いがする。着きましたよと優しく揺する彼女に起こされて、私は電車を降りた。海には背の低い堤防があって、私達はそこから海を見下ろした。満潮になると堤防の半分くらいまで波が来るというのがこの町の老人の話だったが、海は随分と遠い位置にある。ここまで来てあんまりだった。

「いい匂い」

それでも彼女は喜んでくれているようで、私は人知れずほっとする。繋いだ手はすっかり汗ばんでいた。図らずも少年時代を思い出す。切り揃えた前髪も今では結い上げた髪の中へ、洋服から覗く脚も女性のそれへと変わっていたが、彼女は昔のままだった。彼女は私の太陽だった。
喉が渇いたと云うので、辺りを歩くことにした。駄菓子屋を見つけてラムネを買った。二本。しかし、私は炭酸が苦手だった。彼女が美味しそうに飲むのを見乍ら、私は町の様子を見て回った。復興が遅れているのだろうか。どことなく寂しげな所だ。ぽつねんと取り残された気持ちになる。でも、大丈夫。私にはこの手がある。彼女の手を握っている限り、私の不安は取り除かれた。もっとも、離してからのことを私は知らなかったのであるが。

「僕の背骨は丸い」

思わずそんな言葉が零れ落ちた。支離滅裂だ。案の定、彼女は目を丸くして私を見ていた。恥ずかしくなって目を逸らす。見ないでくれと叫びたくなる。彼女は微笑んだ。

「確かに姿勢は悪いですね。猫みたいに真ん丸」
「う、うぅ」
「姿勢が悪いと肺や臓器を圧迫して身体によくないそうです。だから、元気でいるためにはしゃんとしなきゃいけませんよ」

彼女はやんわりと私の手を握り返すと暖かいと呟く。ラムネを飲んだ彼女の掌はひんやりとして気持ち良かった。辺りは薄暗い。せっかくだから帰る前にもう一度海を見ようという話になって、私達はまた歩き出す。
海は先程より僅かに水位が上がったように思う。ただ、遠いのには変わらない。私は彼女の隣で海を眺め乍ら、ふいに妻は今どうしているだろうという気になった。映画を観に行っているだろうか。それとも洗濯物を取り込んでいる最中だろうか。割烹着を着て夕餉の支度をして、夫の帰りを待つ、あの寂しそうな背中を私は今の今まで忘れていた。また不安になる。波に飲まれてしまいたいと考える。妻の疲れた笑みが海の中にある気がした。だから、私は暫くの間彼女が私に話しかけているのに気が付かなかった。

「タツさん、もう帰りましょう。タツさん」

ラムネは雪絵さんのお土産にと彼女は目を細めた。ああ、彼女は全て解っている。彼女は私の浅はかな態度なぞとうにお見通しだった。真逆。救おうとして掬われていたのは私の方だった。私はまた彼女に縋っていた。私は謝る。何に対して。彼女は泣いた。何故。繋いだ手が離れた。私達は他人として歩いていく。帰りの電車は一言も言葉を発しなかった。がたんと電車が揺れる音だけを聞く。私の肩に彼女の頭が乗った。眠っているのだ。上下する動きは一定のリズムを刻み、私をも眠りの世界へ誘おうとする。しかし、私はその甘い誘惑を断ち切ろうと彼女を支える樹木となる。まだ若く、脆弱な木。私は真っ直ぐ太陽を仰ぐことさえままならない。背骨が曲がっているから。呼吸することもできない。彼女は降りる駅の一つ前で、まるで頃合いを見計らったように目覚めた。起きた瞬間、大きな目を瞬かせて私を見る。電車を降りた瞬間、彼女は笑い声をあげた。

「ごめんなさい。疲れたでしょう?」

いよいよ別れるという時になって、私はどうしようもなく後ろめたい気持ちになった。彼女はいたって平然としていて、清廉さをそのまま体現したかのようにそこに立っていた。さようならと彼女が手を振る。今生の別れという訳でもないのに、何故かこれで会うのは最期であるような気がした。きっと明日になれば今日の出来事は忘れてしまうし、ただの日常と化してしまうのだろう。私は柄にもなく、手を振り返した。

「また明日」

彼女は驚いた顔をした。しかし、すぐに口角を上げるとまた明日と返す。日溜まりのような笑顔は麗らかな春を思わせた。眩しすぎず、柔らかな春の光。私はそんな光に背を向けた。彼女は私の背中を見送ってくれているだろうか。否、彼女ももう歩き始めているだろう。自問自答する。彼女はもう私の母親ではないのだ。彼女の柔和な笑みは私のものではない。京極のところに顔を出そうかとも思ったが、真っ直ぐ家に帰ることにした。夜の帳が降りている。星が光っている。妻は夕餉をつくって待ってくれていた。お帰りなさいと妻は微笑む。

「タツさん、寒かったでしょう? 今日はお鍋にしたんです」

ただいま。私はそう云って自らも笑った。


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -