第捨伍話-1

 ゆっくりと覚醒する意識に合わせる様に目を開くと、見慣れない天井が視界に飛び込んだ。
 見慣れてはいないが、見たことのない天井ではない。ここは恐らく医務室だ。
「あ、目が覚めた?」
 そう声を掛けられて視線を動かすと、新野先生と話をしていたのだろう勘右衛門が心配そうに私を見下ろす。
「倒れたのは覚えてる?」
「……ああ」
 まだ少しぼんやりする頭を押さえて起き上がれば、新野先生が歩み寄ってきた。
「気分はどうですか?」
「大丈夫です。頭痛も収まりました」
「突然痛みを覚えていたそうですが、前から何か前兆のようなものはありましたか?」
「前兆かはわかりませんが、少し前から」
「それはどんな時にどのくらいの頻度ですか?」
 新野先生の問診にそのまま答えて良いものか一瞬迷いながらも、私は素直に答えることにした。
「……天女様が来てから毎朝です」
 新野先生が目を丸くし、勘右衛門が息を飲むのが分かった。
 やっぱり私は何かを忘れているのだろう。
 覚えていない夢の中で誰かが訴えてきているのは本当なのかもしれない。
「……他に何か異常は?」
「いえ」
 私は首を横に振り、考え込んだ新野先生を横目にぐるりと医務室を見渡した。
「……誰もいないんですね」
 怪我人も、保健委員も誰も居ない。
「福屋くんは来ていますよ。今日は悠里殿に呼ばれているので居ませんが」
「ちょ、新野先生……」
「これだけ正気に戻っているんです。問題ないでしょう」
 新野先生の言葉に勘右衛門がぐっと詰まる。
「新野先生、私は何を忘れているんでしょうか」
「忘れている、ですか。……そうですね」
 新野先生は腕を組み少し考える。
「久々知くん。君が三年生の時、倒れて医務室にやってきた日の事は覚えていますか?」
「それは……はい」
「あれから君は何度か倒れて医務室に運ばれるようになった。火薬委員から用具委員に移って再び火薬委員に戻る時、君は自分自身に変化を与えましたね」
 四年の長月。一月の夏休みが過ぎ、私は火薬委員に戻った。
 その時私は俺と言う一人称を止め、私と言う一人称を使うようにした。
 忍を目指すものとして、片桐先輩の隣に立ちたくて……そんな小さな背伸び。
「忘れていたのは……想いですね」
 なんでこんな大事な想いを忘れられていたんだろう。
 そう思いながら憑き物が落ちたように軽くなった胸を押さえた。
「久々知くんだけですよ、自力で正気に戻ったのは」
「そうそう。でも本音を言うなら思い出して欲しくはなかったかな……」
「それ、さっきも言ってたけどどう言う意味だよ」
「あー……説明しづらいんだけどさ……平成の世から来たのは本城夢美だけじゃないんだよ」
 これで大体はわかるだろうと言うように、勘右衛門が言い辛そうに言った。
 平成の世。この時代から遙かに先の未来の世。
「……片桐先輩が?」
 一人を好んだ、でも本当は寂しがり屋な小さな先輩。
 俺に“久々知兵助”を重ねてみていたのは、鉢屋での事ではなく、平成の世での事?

「失礼します」

 がらりと戸が開き、立花先輩が医務室に入ってきた。
 天女様に何かあったんだろうかと思ったけど、一緒に居るのは八左ヱ門くらいで、何事だろうと困惑する頭のまま首を傾げた。
「新野先生に尾浜に……久々知?福屋は居ませんか?」
「福屋くんなら片桐くんと悠里殿と一緒に、藪ケ崎先生の所へ行きましたよ。忍務から戻ってこられましたからね」
「ちっ、田村を先に当たればよかったか」
 舌打ちをした立花先輩の様子に眉根を寄せていると、勘右衛門が先に口を開いた。
「その様子だと先輩たちも正気に戻りましたか?」
「と言う事は久々知もか。お前たちも記憶はあるのか?」
「記憶?」
「2010年2月12日までの平成の世の記憶だ」
「2010年?」
 首を傾げれば、立花先輩は僅かに驚いた様子を見せ首を横に振った。
「わからないならいい。尾浜はどうだ」
「記憶としてはありませんが、話だけは聞いています。どういう事ですか?」
「詳しく説明している時間が惜しい。知りたいならついてこい」
「まあまず間違いなく二人も関係してると思うぜ」
 苦笑を浮かべる八左ヱ門は、すでに歩き出している立花先輩の後を追って歩き出した。
 早足のそれに、俺は慌てて布団を飛び出して追いかけ、勘右衛門も共に並ぶ。
 新野先生が背中に「調子が悪くなったらまた来て下さいね」と声を掛けてくれた。どうやら起き抜けに飛び出すのを見逃してくれるようだ。


  *    *    *


 目を伏せ、平成の世での記憶を思い出していると、勢いよく戸が開いた。
 考えにのめり込んでいた私はその勢いに驚いて顔を上げた。
 戸の先に居たのは見慣れ過ぎたはずの立花。だけどその顔が大人びたまるで別人のような顔とダブる。
“あの馬鹿に良く似ている”
 一度だけしか会った事はないけれど、寂しそうに私の頭に手を置き、そう言った男。
 母の友人だと名乗った、母よりも随分と年若い男。父親でないことは理解できたけど、何者なのかは結局わからなかった。
「あの頃に比べれば随分大きくなったではないか」
 ぽすんと置かれた手の懐かしさに、私は目を見張った。
 立花はあの男だ。そしてあの男の記憶を持っている。
 立花が私の羽衣?帰る為の術……呪を解くための鍵。
「暁殿の時とまた違うが、ミキ坊が女子になってしもうた……つまらんのう」
「いや、つまらなくないですって」
 唇を尖らせた悠里さんに福屋はがくりと肩を落とした。
 私は自らの手のひらを見つめ、目を細めた。
 この十四年で見慣れた掌とは違う、小さい“色葉”の手。
「……元に、戻った?」
「そのようだな」
 肯定する立花に、私は再び掌を見つめた。
 右手の人差し指と中指にはタコがあるくらいで、綺麗な、それこそ天女様みたい……だけど少し手荒れも見えるそんな私の手。
 顔は多分、変装をしているから変わっては居ないだろうけど、視線を落とせばほどほどに膨らんだ乳房が目に入った。
 私も林原さんと同じように、元の片桐色葉の姿に戻ったようだ。

「……おん、な?」

 戸惑うような声音にはっと顔を上げれば、立花の後ろに竹谷と兵助が尾浜と一緒にぽかんとこちらを見ているのが見えた。
「お前たち、なんでここに……」
「俺は付き添い?えっと、八左ヱ門は立花先輩と同じみたいだけど、兵助は違いますよ?」
 首を傾げながらも答える尾浜に、私はぱちりと瞬きをした。
「顔が前のまんまだから分かんないんですけど、片桐先輩って、あの片桐色葉さんですよね?」
「お前私を知っているの?」
「テレビとか雑誌とかで見ただけですけど、一応……」
「うむ?ミキ坊は芸能人と言う奴じゃったか?」
「あながち間違ってないけど、私はただのプロ棋士よ」
 首を傾げながら問う悠里さんにそう答え、改めて竹谷を見上げる。
「お前位の年の子が囲碁に関心があるなんて珍しいわね。……もしかして“久々知”に囲碁を教えたのはお前?」
「いや、教えたのは“三郎”っす」
「その“鉢屋”に教えたのは私だがな」
「?……立花と言うか……“立花さん”は“久々知”たちと随分年が離れているのではないの?」
「そう言えば“あちらの私”はお前にちゃんと自己紹介をしていなかったな……“あちらの私”は教師をしている。合同授業では中等部の面倒もたまに見るからな」
「教師……案外似合う仕事ね」
「それもこれもお前の……いや、これは止めておこう」
「?」
「それよりも……」
 立花はふいっと視線を逸らし、ぽかんとこちらを見つめるイロに歩み寄った。
 そして正座をしていたイロを躊躇なく蹴り飛ばし、先ほどまでのハツネのようにイロを踏みつけた。
「ちょっ立花くん何するの!?」
「何するの?……白々しい……そもそもの元凶は天女様ではなくお前だろうが竜野!」
「竜野?……って、げっ……その人、竜野先輩なんすか!?」
「……お前、知ってるの?」
 明らかに頬を引きつらせた竹谷に問えば、竹谷はぶんぶんと首を縦に動かした。
「先輩たちを一気に引き離して高等部一の変わり者っつうか……“立花先生”のストーカー?」
「正確には竜野の中身がストーカーだ」
「中身?」
 記憶のないイロは、立花の言葉に首を傾げるばかりだ。
「色葉が記憶を取り戻したのだ。お前もそろそろ記憶を取り戻すだろう。今すぐ取り戻せ、そしてとっとと学園を元に戻せ」
「元に戻せって言われても何のことかさっぱり分かんないんですけど!?」
 力を入れられたのだろうイロは、ぐえ!とカエルが潰れたかのような声を発した。
「……ミキ坊が記憶を取り戻したんじゃ、イロが記憶を思い出さんと言う事は次は文坊の番じゃろう」
「でも……」
 ちらりと福屋は竹谷を見上げる。
 何の変化もみられない福屋の視線を受け、竹谷は複雑そうに笑った。
「約束の場所とは違うし、俺は本人じゃないけど……“俺は竹谷八左ヱ門だ”」
 差し出された竹谷の手を福屋は恐る恐る取る。
「“紫藤海美です”」
 決められていたかのように出た言葉に、じわりと福屋の姿が細身の記憶にある栗色の髪の美少年へと変わる。
 福屋よりも少し小柄な、愛らしい印象を覚える私が知っている紫藤海美の姿だった。
「……八だったんだね」
「……ああ」
 複雑そうな表情の二人に首を傾げていると、「あらあら」と間の抜けた声が場を乱す。
 声の方を向けば、ハツネが両目から零れる涙に戸惑っていた。
「“記憶”と言うのはこう言う意味なのね」
「思い出したの?」
「ええ。おかげで、さっきイロが無意識に言った言葉の意味も、三喜之助くんの微妙な視線の意味も良くわかったわ」
 涙を拭い、ハツネは「ふふ」っと笑った。
 ハツネは天井よりも更に遠くを見つめるかのように目を細めて宙を仰いだ。
「なんて運命なのかしら。ねえ、“仙蔵くん”」
「……そうですね」
 ちらりと視線を向けられた立花はこくりと頷き、私と兵助を見た後、またハツネに視線を戻した。
「で、竜野の記憶は戻せそうか?」
「どうかしら。さっきと同じ状況を作っても、今度は違う意味で話を聞いてくれなさそうだもの」
「違いない」
 肩を竦めるハツネに立花はくつくつと笑った。
 意味の分からない会話に眉根を顰めていると、悠里さんがピンッと耳を立てた。
 その様子にびくりとなりながらも尾浜も耳を立てる。
 二人の動作―――特に尾浜の耳に事情を知らなかった立花、竹谷、兵助の三人は目を見開いたが、二人の異常な反応に何かあったと思いすぐに我に返る。
「―――侵入者じゃ」
「侵入者?先生方の見回りは相変わらず行われてるはずだぞ!?」
「いや、先生方はわざと通したようじゃな」
「学園長先生は人間の割にうちの爺様たちみたいだからなあ……にしてもこの声、俺、聞き覚え有るんだけど」
 嫌そうに顔を歪めた尾浜に私は視線を向ける。
「……もしかして、雑渡昆奈門?」
「大正解です片桐先輩」
「曲者過ぎるでしょう!」
 勢いよく立ち上がったはいいけど、体格が変わったからか服がなんだか気持ち悪くて眉根を寄せた。
 洋服と違って着物は多少の体格差であれば着付け直せばどうにかなる。
 女と男では腰の位置が違うのだから、当然一番気持ち悪いのは緩くなったふんどしと腰の位置に充てている袴である。
 私は帯を解いて手早く着付け直した。
「はあ……女に戻ったのなら慎みを持て。まあいい。悠里殿に尾浜、タソガレドキの忍頭はどこに現れた」
「うむ、あちらの方角じゃな」
「多分ですけど……学級委員長委員会が使ってる教室だと……」
 不安そうに告げた尾浜に“片桐三喜之助”の面を剥いだ私は目を見開いた。
「……鬼桜丸?」
「え?」
「雑渡昆奈門の狙いよ。タソガレドキは戦好きの城だもの。鬼桜丸をかどわかして戦を起こす気かも知れないし……」
「黒ノ江先輩かどわかしても、黒ノ江先輩は菊姫のただの許嫁……じぇ、ない!?えらいこっちゃー!!」
 合点がいったのだろう尾浜が耳を仕舞って走り出す。
「ちょっ、勘右衛門!?」
「分かんねえけど追うぞ兵助!」
「あ、ああ!」
 冷静に判断した竹谷がすぐに兵助と共に尾浜の後を追って飛び出す。
「鬼桜丸が正気だった時点で何となく想像はついていたが……流石に衝撃的だな」
「余計なこと言ってないで早く行くわよ」
「僕も行きます」
「僕も」
 そう言って福……海美と田村も立ち上がる。
 顔を見合わせて頷くと私たちは走り出した。
 学級委員長委員会が使っている教室へ―――鬼桜丸の元へ。



⇒あとがき
 ここに来てまさかの事件発生です。
 兵助落ちにするはずがどうしてこうも兵助が空気なんだろう……仙ちゃん目立ち過ぎ。
20110207 初稿
20221106 修正
    
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