第壱話-4

 歩いていたはずの地面が抜け、落下するかのような感覚にはっと目を見開いた私は白い布の中に居た。
 恐る恐る顔を出せば、隣の布団で静かに寝息を立てている鬼桜丸の寝顔が見えてほっと胸を撫で下ろした。
 久しぶりに見た“色葉”の夢は、どちらが夢でどちらが現だったのか惑わされるには十分な内容だった。
 三郎様にお会いして以来、時折思い出す事はあっても、夢を見ることはなくなった筈だった。
(久々知そっくりの後輩に会った所為かしら)
 思わず溜息を零しそうになりながらも、静かに布団から抜け出して制服に着替えると、眠る前に用意していた桶に張った水で顔を洗ってさっさといつもの変装をした。
 今でこそ部屋で堂々と顔を洗って変装をしているけれど、一年の初めの一月は大変だった。
 同室者の協力が大切なのは鬼桜丸も一緒だけど、鬼桜丸の場合着替えをする頃には私がまず部屋に居ないから問題なかったみたい。
 変装が終わればさっさと布団を畳み、私は天井へと登り長屋を後にした。そしていつものように塀を飛び越え、毎朝の日課である早朝ランニングを開始した。
 この時間はどこの馬鹿かは最近偶然に知ったのだけど、同じ二年の七松小平太が同じく早朝ランニングをしている。
 無駄に体力のある彼は、お頭は子どもらしく夜は早く寝て、朝は馬鹿のように早く起きているらしい。
 そんな彼に気付かれないように軽く裏裏山まで走り、ついでにもう一つの日課をこなして学園に戻る。
 夜は鬼桜丸の特訓に付き合った後に潮江と手合わせもしているけど、ただそれだけでは身体が鈍るのも確かで、長期休暇に待っている忍務を考えると不安は拭えない。
 それでもとりあえず今は腹ごしらえだと、空腹を訴えるお腹をさすりながら再び塀を飛び越えると、私は少し遠回りをしながら長屋の自室に向かった。
 部屋に戻れば着替えを済ませて朝の予習をしていた鬼桜丸が、笑顔で出迎えてくれた。
「おはよう、三喜之助」
「おはよう、鬼桜丸」
 朝の挨拶に起床の鐘が被さり、鬼桜丸は私の頭をそっと撫でた。
「それじゃあ行くか」
 もう随分と習慣化したこの朝の流れを読み取り、鬼桜丸は忍たまの友を閉じると立ち上がった。
 私は鬼桜丸の言葉にこくりと頷き、鬼桜丸の後を追って部屋を出た。
 食堂へ辿り着く頃はまだ人もまばらで空いている。起床の鐘が鳴ったばかりだから当然と言えば当然だけど。
「おはよう」
「おはようおばちゃん。えーっと今日はB定食で」
「はいよ。片桐くんもそれでいいかい?」
「ん」
 こくりと頷けば、おばちゃんはさっさと二人分の定食を出してくれた。
 それを受け取って席に着くと、体格のいい三年生がちょうど食堂に入ってきた。
「おばちゃん、A定食二人分」
「会計委員会は初日から徹夜かい?」
「流石に徹夜じゃなかったみたいっすけど、遅かったのは確かですよ。もうすぐ来ます」
 苦笑を零す三年生を横目に私は手を合わせた。
「あ、おはよう、川畠くん」
 おばちゃんが定食を準備している間に、彼と同じく三年生の小野田先輩が食堂に入って来て彼に声を掛けた。
「お前、その寝ぐせどうにかしろよ」
「しつこいから諦めたんだ」
 あははと笑う小野田先輩とうっかり目があった。
 面倒だなと思っていると、小野田先輩がこちらに向けて手を振ってきた。
 小さく頭を下げると小野田先輩が一人勝手に感動し始めた。本当にあの人は何なんだろう。
「朝っぱらから邪魔。ウザイ」
「うわ!?……おはよー、中原くん」
 大きく驚いて見せた小野田先輩は、すぐに後ろに立っていた目の下にうっすらと隈のある三年生に笑いかけた。
「相変わらずは組は面倒くさい奴の集まりだな。兵次郎、朝飯は」
「A定食」
 おばちゃんから定食を受け取る川畠先輩に中原先輩は「ふーん」と答えた。
 ……中原?
「どうした、三喜之助」
「……なんでもない」
 なんで気付かなかったんだろう。
 確かに接触は薄かったけど、彼と会うのはこれが初めてではない。
 中原春彦先輩。小野田先輩と同じ三年生で、い組の優等生。
 会計委員所属の所為で目の下の隈が目立っていたから今の今まで気付かなかった。
 彼も“色葉”の記憶にある春彦にそっくりじゃない。


  *    *    *


「ちょっと、春彦。私が先生に怒られるじゃない」
「今更だろ」
 そう言って私の手を掴んだままずんずん歩く一つ年上の春彦に私は溜息を吐いた。
 不機嫌な彼は私のペースなんてお構いなしで歩くため、早足で歩かなくてはいけない。
 大体今日は研究会の日。私は、師であり、彼の父親でもある先生のお宅にいつものようにお邪魔していただけ。
 頭の中は昨日、再び負けてしまった久々知との棋譜で一杯で、少し油断をしていたのは認める。
 でもなんで私はこうして春彦に腕を引かれなくちゃいけないのかしら。
「ねえ、春彦」
「なんだよ」
「喉渇いたんだけど」
 そう言うと春彦はぴたっと足を止めて溜息を吐いた。
「お前は……」
「何よ。勝手に連れてきたのは春彦でしょ?喉渇いたー」
「奢ればいいんだろ、奢れば」
 ブツブツと文句を言いながら、春彦はポケットに入れていた財布を取り出して自販機に向かった。
「おいイロ、何飲むんだよ」
「ブラック。あ、二本ね」
「……イロ」
「話くらい聞いてあげるって言ってるの」
 ボタンを押そうとして振り返った春彦は、むすっとした顔で再び自販機を見つめるとブラックを一本だけ購入して私に寄こした。
「ん」
「ありがと」
 私がそれを受け取ると、春彦は新しくもう一本購入した。
「なんで炭酸なのよ」
「これは俺のだ」
 春彦はさっさとプルタブを上げるとすぐに口を付けた。
 ごくりと喉仏が動くのを見ていると、春彦は目を細めた。
「……やらねえぞ」
「炭酸は飲めないって言ってるでしょ」
「じゃあこっちか」
 そう言って春彦は私の唇に触れてきた。
 そっと触れるだけのキスはすぐに離れて、春彦はにやりと笑った。
「ちょっと、こんなところで盛らないでくれる?」
「先に盛ったのはどっちだよ」
「……否定はしないわ」
 ふいっと横を向けば、春彦はくつくつと笑った。
「で、何があったのよ」
「親父に院生やめるって言ってきた」
「……は?やめるって、なんで?」
「イロにあっさり抜かれたから」
「私が春彦より強いのは前からでしょ」
「はは、そうだな。……学校でさ、夢見つけたんだ。囲碁の道じゃない別の道のな」
「……そう」
「引き留めないんだな」
「プロにならないだけで打たないわけじゃないんでしょ?」
「まあな。けど親父の奴がキレて、売り言葉に買い言葉っつーか……」
 後ろ頭を掻く春彦に私は溜息を吐いた。
「先生と春彦の親子喧嘩って本当内容が餓鬼よね」
「お前、その感想はないだろ」
「事実でしょう。私はてっきり久々知の所為かと思ったわ」
「まあ久々知が原因の一つと言えば一つだけどな」
 春彦はそう言って目を細めた。
「あいつの所為と言うかお陰と言うか……」
 どこか楽しそうなのはきっと学校関係のことなんだと思うと少し寂しく感じた。
 そして寂しく感じる自分にイライラした。


  *    *    *


「三喜之助、手が止まってるぞ」
「……ん」
 “色葉”にとって春彦は先生の息子で、恋仲のようでそうではない相手。
 恋心も嫉妬もまだ理解しきれていない子どもだった“色葉”のごっこのような恋愛は、まるで微温湯に使っているようでとても懐かしかった。
 久々知兵助と同じように、中原先輩も春彦とそっくりだとしたら、私は何時までこの懐かしさに悩まされなくてはいけないのかしら。
 なんか嫌だ。なんで今更中原先輩の存在に気付いてしまったの、私。
「あ、片桐先輩」
「ん?」
 ふと聞こえた声に鬼桜丸が振り返る。
 食堂の入口にはさっきまで居たはずの三年生の姿はなく、久々知兵助が同じ一年生を伴って立っていた。
「ちょっ、兵ちゃん?」
 同室の子か級友か、よくは分からないけど相方を置き去りに久々知兵助は私たちの所へと走ってきた。
 確かあの子は鬼桜丸の所の後輩……だったはず。
「片桐先輩、おいしかったです」
「何が」
「豆腐がです」
「……そう」
 昨日の話か、と思いながら頷くといつもの視線に気づいてちらりと視線の先を見た。
 両手を組みながら私と久々知兵助を見つめる小野田先輩の目がとっても輝いていた。
 隣に座る訝しげな中原先輩の目とは対照的でなんだか変な感じがした。
「……似てないか」
「何か言いました?」
「別に」
「そうですか。それでは失礼します」
 ぺこりと頭を下げると久々知兵助は同じ一年生の所へと走って行ってしまった。
「一年生は可愛いな」
「そう?」
 三郎様は可愛いけど、久々知兵助は別段可愛くないし、嫌い。他はどうでもいい。
 私は目の前の食事に意識を向けた。
 白い豆腐が目に入り、何となく箸を突き刺した。ちょっとだけ気分が晴れた気がした。



⇒あとがき
 食堂のおばちゃんと久々知以外オリキャラなターン(笑)
 一応久々知と一緒に居るのは勘ちゃんです。勘ちゃんをうどんって呼ぼうか悩んだけど自重しました。
 そして五年生は一年時はあだ名呼び希望。はぁはぁする!←
 次は六はの二人のターンにしようと思います。伊作出すぞー!!
20100416 初稿
20220918 修正
    
res

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