第零話

 2010年2月12日、金曜日。真冬を少し過ぎてはいるけれど、まだ寒い季節。
 こぐまやで買ったお気に入りのカジュアル着物に、花飾り付きのニット帽とマフラーとアームウォーマーは外せなくて、建物の中に入って多少暑かろうと中はしっかりキャミソールとTシャツとババシャツ、下はレギパンで完全防備。
 おばあちゃんのお下がりの防寒草履もあったかいんだけど、今朝は霙雨だったからブーツにした。お陰で足元もあったかくて着物万歳と言いたい気分だ。
 幼いころから両親がいない私にとって、おじいちゃんとおばあちゃんは数少ない家族だ。
 親戚も少ない私は、昔からおじいちゃんとおばあちゃんにべったりで、それ以外のことにあまり興味が持てなかった。
 おじいちゃんが好きな囲碁が好きで、おばあちゃんの好きな着物が好きで、おじいちゃんとおばあちゃんが喜ぶから、家の事も勉強もよくやったと思う。
 だけどそれ以外のことが興味が持てなくて、学校では浮いた存在だった。
 そんな私だけど、おじいちゃんに教えてもらった囲碁の才能を先生に見いだされて、私は院生になりプロ棋士になった。
 女流ではなく普通に勝ち上がった私は、多くの注目を集めたけど、私以上に注目を集める子がいた。
 ある日突然院生として私の前に現れて、最初の手合いで私から白星を勝ち取った一つ年下の男の子。あの悔しさは今でも覚えている。
 彼の手があまりにも私の手を知り尽くしているようで、彼の師が実は私と同じ先生なのではと思い聞いてみた。だけど彼に師はいなかった。
 詳しく聞いてみれば、学校で同級生に少し教えてもらった程度だと言うから、当然ふざけないでと思った。
 たかが同級生に少し教えてもらった程度で、院生の一組に駆け上った上にプロになるなんて、プロ棋士への道はそんな簡単なものじゃない。
 それでも彼の実力は確かで、周りが私たちをライバルだと囃したてるうちに、気付くと私は彼を意識するようになった。
 お互い連勝中の今、彼がギリギリだったと苦笑していた対局相手を楽しみにしていたと言うのに、今日の結果は対局相手不在の不戦敗の白星だった。
 だめだ、思いだしたらなんだかまたイライラしてきた。
 今日は帰っておばあちゃんと一緒におじいちゃんにあげるバレンタイン特別仕様のシュークリームの材料を買いに行く予定なんだから、このイライラは忘れるのよ私。

 気づけば下を向いていた視線を上げると、赤信号が光る横断歩道を挟んだ対岸に少女と見まごうばかりの美しい少年が立っていた。
 紺色のコートの下は間違いなく黒色のよくある学ランで、それがなければ私はあの子を男の子だと判断することは出来なかっただろう。それくらいに美しい少年だった。
 自分もよく雑誌の記事に現代風和装美少女等と書かれることがあるけど、私が和だとすれば彼は洋の美だろう。学ランがあんまり似合ってない。
 なんなら、さらりと風に遊ぶ栗色の髪を片手でそっと押える姿は、その辺りの女の子よりよほど女の子らしいかもしれない。
 ただ、不意に彼は自分の胸ポケットを探り、ズボンやコートのポケットと手に持つ鞄の中も確認して顔を青くして身体を反転させた。
 何か忘れ物でもしたんだろうなと思いながら、青に変わった信号に気付いた私は左右をちらりとだけ確認して歩き出した。
 風によって伸ばしたサイドの髪が唇にふれて、それをそっと払いながら信号を渡りきる。
「いやー!信号変わっちゃうよー!!」
 信号を渡りきって少し歩いたところで、無駄に元気そうな少女が何やら喚きながら私の横を走り去った。
 今の信号は全部で四車線ある割に青の時間が短いので焦っているのだろう。
 もし仮に私が普通に高校に進学していたならば、私も彼女やさっきのあの子のように忙しない日常を送っていたのだろうか。
 中二の時にプロ棋士になった私は進学を決めた彼と違って、高校生になる必要性を感じられず、早々に受験戦争を抜け出して囲碁の道一本に絞った。
 おじいちゃんもおばあちゃんも私が決めたことならと受け入れてくれたけど、本当は高校に行って欲しかったんだろうな……おじいちゃん制服がどうのって言ってたし。
 でも中学の時みたいに対局の度に学校を休む手続きを踏むのも面倒だし、おじいちゃんとおばあちゃんとの時間を沢山過ごせる今に十分満足しているから、想像するだけ無駄な話だ。

 ふと背後で妙な音が聞こえた。車のブレーキ音と鈍いドンッと言う音。
 嫌な音は嫌な予感しかさせなくて、私は思わず振り返った。
 だけど振り返るよりも早くその影は私に迫っていた。
 驚くよりも先に衝撃が身体を襲い、私の身体はドンッと言う音と共に宙へと投げ出された。
 巻き込まれたのだと気づくのは少し遅れてからで、目を閉じる前に見えたのは、近くのコンビニから携帯を片手に出てきた先ほどの美しい少年だった。
 なんて不運な子だろう。携帯を忘れなければ……いや、このタイミングでコンビニから出てこなければ、きっと巻き込まれることはなかっただろう。
 不運は私も同じか。そう思いながら目を閉じれば、意識は混濁して闇に溶けた。

 ごめんねおじいちゃん。バレンタインに大好きなシュークリーム作ってあげられそうもないみたい。
 ごめんねおばあちゃん。一緒に買い物行く約束守れなくて。
 ……あと、最後に彼と一局打ちたかったな。


  *    *    *


 2010年2月12日、金曜日。学生服だけで過ごすにはまだ少し寒い季節。
 馬鹿騒ぎする級友たちを何とか抑えながら、掃除を終えた頃には帰宅部にしては帰宅の遅い時間になってしまった。
 待ち合わせの時間にはちょうどいい時間だからいいけどと思いながら、コンビニを後にした。
 これから会う約束をしているのは小学四年生まで隣に住んでいた幼馴染だ。
 何故かはわからないけど、会わせたい人がいるからと突然呼び出された。もしや彼女?なんて思いながらも久しぶりに会うのが嬉しくて僕の足取りは軽かった。
 ちょうど青信号が点滅して赤に変わるのが見えて、僕は足を止めた。
 それでなくてもあまり知らない土地なのだからゆっくり歩けばいい。さっき時計を見た限り時間にはまだ十分に時間がある。
 ふと向こうから現代風の着物と言うか、着こなし?の女の子がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 可愛い花飾りのついた白いニット帽にマフラーと羽織で完全防備!と言わんばかりの暖かそうな格好に、思わずああ言うのも良いななんて思った。
 彼女自身綺麗な子で、現代風の着物を着てるんだけど和風!って感じの女の子だ。写メ撮らせてもらえないかな?
 思わずポケットに手を伸ばし、僕はそこにある筈だった存在が無いことに気付いた。
 胸ポケットだけじゃなくてズボンとコートのポケットも探して、学校指定の鞄の中まで確認したけど見つからない僕の携帯。
 あの携帯には僕のとんでもない秘密が詰まっていると言うのにだ。
 うっかり見知らぬ誰かに拾われたら僕生きていけない!と恐らくは精算時に置き忘れたであろうさっきのコンビニに走った。

「いらっしゃいませー」
 どこから出してるんだろうと一瞬思うほどの明るく高い声の、母さんとそう年の変わらない女性店員に歩み寄り、僕は小声で尋ねた。
「すいません、携帯の置き忘れありませんでしたか?」
 どうかこの短い時間で中を見られていませんように!
「ああ、さっきの」
「ああやっぱりっ」
 落し物として保管しようとしていたんだろうビニール袋に入れられていた携帯を取り出し、店員が差し出してくれると同時に携帯が震えて、ディスプレイに彼の名前が表示されていた。
「はいどうぞ」
「ありがとうございました」
 僕は携帯を受け取って店員にぺこりと頭を下げて携帯に出た。
「もしもし!?」
『うわっ、なんでそんな切羽詰まった風に出るんだよ』
「だって携帯をコンビニに忘れたんだもん」
『海美ちゃんは相変わらずだなあ』
 からからと電話の向こうで笑う声がするのがなんだか腹立たしくて、僕はぷくっと頬を膨らませた。
「意地悪」
『ごめんって海美ちゃん。実はさ待ち合わせ場所変更のお知らせと言うか、お願いと言うか……』
「え?何それ」
 僕はあまりにも突然の話題に眉根を寄せながらコンビニを出た。
「僕もう近くのコンビニにい……」
 不意にけたたましい急ブレーキ音とドンッと言う鈍い音が聞こえた。
『海美ちゃん?』
「……え?」
 さっき見た着物美少女が目の前で宙を舞い、僕の目前にまでその凶器は近づいていた。
 身体を押される力に抵抗できない僕は、コンビニの硝子に身体を打ちつけられた。
 手から携帯が零れ落ちて、僕は泣きたくなった。でも出てくるのは涙より赤い血だ。

 ごめん、僕待ち合わせ場所わかんないから幽霊になっても行けないね。
 会いたかったな、名前も知らない彼の紹介したかった人。


  *    *    *


 ……これは関係ない人を三人も巻き込んでまですることなんだろうか。
 美しい花の咲く池の底に見える惨劇を他人事のように縁に寝そべって覗きこんでいた僕は、そこから少し離れた東屋に居る美しい人と少女を見つめた。
 まったくの初対面であるはずの美しい人を信じ切っているらしい、馬鹿みたいに明るい少女はたった一つの願い事を決めたらしい。
 なんて面倒くさい子なんだろうと思いながら旅立っていく少女を最後まで見送ることなく、僕は再び惨劇を見下ろした。
 赤く染まる地面に涙が滲む。
 彼は一体どんな気持ちで彼女の亡骸を抱いているのだろう。
 彼は一体どんな気持ちで彼の亡骸を茫然と見つめているのだろう。
 知りたいと伸ばした手は水面に触れても波紋を生むだけだった。僕はこの惨劇に干渉する事等出来ない。
 水音に気付いたらしい美しい人は僕に歩み寄り、その横に腰を下ろした。
「お前は優しい子だね」
「そうですか?」
「ああ、私とは大違いだよ」
 くすりと美しく微笑んだその人は、僕の水面に浸かった手を取り右回りに動かした。
 水が揺れ、見えていた景色が変わる。
 右回りは未来、左回りは過去。時計の動きと同じなのだと知ったのは何時だっただろう。
 ここは時間の流れが不変すぎて僕が誰だったのかもよくわからなくなる。
 ふと手が止まり景色が固定される。
 先ほどの少女が望んだ世界の、本来の姿。
 血に穢された美しい着物を身に纏い、小刻みに震えるまだ幼い少年。
 涙が零れてやまない目は見開かれており、上手く呼吸を出来ないらしくフーフーと息をしている口元には、血に塗れた凶器を握った手があった。
 ぴくぴくと痙攣する男の身体はまだ当分絶命することはなく、彼の恐怖はまだ続くだろう。
 思わず目をそらしたくなった僕の耳元に美しい人の吐息が掛かる。
「あれも一つのずれた歯車。しかしこれはずらしたままでなくてはいけない歯車」
 今度は左向きに動き、景色が巻き戻る。
「さあ、お前もお行き。私は少し疲れたからしばらく眠るとするよ」
「行くって……」
「何、新しい記憶がお前を待っているさ。それでも忘れてはいけないよ」
 美しい人の手が僕の視界を覆い隠す。
「お前は―――だと言うことを」
 囁く美しい人の声はまるで子守唄のようで、僕は眠るようにその場から姿を消した。

 もしも我儘が通るのならば、僕は彼女と友達になってみたいな。

20100326 初稿
20220917 修正
    
res

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