33.平穏に亀裂

 事件、とそれを呼んでいいのかは分からない。
 夕方遅くに池上屋から忍術学園へと戻ってきた私たちはそれぞれ長屋で思い思いの一夜を明かした。
 くらくんたちが戻って来るのは、早くて今日。朝なのか昼なのか夕方なのか、それとも夜中の内になるのかはまだわからないけど、私はいつも通り制服に着替え、朝練を終えた忍たまたちが来る前の少し早い朝食を終えて琴の授業のために教室へと向かった。
 授業と言っても実際に受けるのは下級生で、私たちは教える側だ。
 忍たまと違って教師の数も足りないくのたまはこうして先輩が後輩に教えると言う授業は少なくない。
 もちろん教えるための技量を上級生ともなれば求められるのでそれなりの腕前にはなっているつもりだが、シナ先生に言わせればもちろんまだまだの域だ。
 ぽろんぽろんと弦を緊張しながら必死につま弾く三年生の桜井若葉ちゃんを私はじっと見つめた。
 他の子に比べると小柄な上に随分と体格のいい若葉ちゃんは行儀見習いのために忍術学園に入学した一人だ。
 実家は商家で、福富屋の下請けの様な所らしく福富くんと仲が良いようだ。食通な所もきっと仲良しの理由だろう。
 色の白いふくふくとした指先が緊張に震えるのがなんとも言えない。
 まあ簡単に言えばくのたまらしくないくのたまが彼女なのだ。
「……若葉ちゃん」
「は、はい!」
 慌てて手を止めて、元気のいい返事をした若葉ちゃんに隣で奈乃香ちゃんに指導を受けていた子が同じように手を止めてしまった。
「続けて」
「はい」
 静かで落ち着いた奈乃香ちゃんの声に隣の音色は続く。
「ゆっくり深呼吸をして、もう一度初めからやり直しましょう?大丈夫、間違えてはないわ。音がちょっと震えてしまっているだけだもの」
「はい。ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げ、若葉ちゃんはゆっくりと深呼吸をして、また弦の上に手を置いた。
 若葉ちゃんは三年生くのたまの中で唯一数馬たちと仲の良い少女だ。
 特に誰かに恋をしていると言う訳ではないようだけど、富松くんがほんわかした彼女の雰囲気をちょっと可愛いと思っているんだとか。
 なんとも微笑ましい様だなあと数馬の話ににまにましたのが懐かしい。

―――おにがくるよ

 頭の奥で不意に懐かしい声が聞こえた。
 くらくんと初めて結ばれたあの日以来聞くことのなかった私の中に住まう種―――基、内隠と言う存在の声が私に囁く。
 おに。
 内隠の言う隠は"隠"ではなく"鬼"。それも私―――鬼の華に害を成す鬼だ。
「……華織先輩?」
 不安そうな若葉ちゃんの声に私ははっと額を押さえて俯けていた顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
 若葉ちゃんを安心させるように笑みを浮かべ、ちらりと離れた場所に座る椛を見やった。
 椛は私が視線を向けるよりも先に私に視線を向ていたのか、目が合った瞬間に、すっと廊下の方を視線で示した。
 じわり。
 まるで世界が闇に侵されていくかのように急激に暗い影が動いた。
 咄嗟に懐に手を差し伸べ如意宝珠に指先が触れるよりも早く、椛がかっと目を見開く。
 一瞬だけ、見鬼である私だけが見る事の出来る淡い紫の光が迸ったかと思うと、くノ一教室を囲うようにこの地に根ざした木霊が宿る木々たちを軸とした結界が強まるのを感じた。
 その直後、ふっと椛の身体が傾ぐ。
「椛先輩!?」
 隣に居た美土里ちゃんが咄嗟に椛の身体を支えたけど、椛の顔がどうにも青白く見える。
「お梅さんが居ないんだった……」
「……流石くのいち教室の不運っ」
 結界の一番の軸となるこのくノ一教室で最も古い古木である梅の木にお梅さんは宿っていない。
 それはこの場に居ない委員長を守るために椛が委員長に付き添うよう命令をしたからだ。
 宿るべき木霊の居ない古木を軸にしてここまで強い結界を張った所為で椛の身体に負担が掛かったのだろう。
「華織先輩、一体何が……?」
「椛が結界を張ったのよ。だけど、主軸となる木霊の依り代を委員長に預けてるから身体に負担が掛かっただけよ」
「そうですか」
 ほっと胸を撫で下ろした若葉ちゃんの様子に私は笑みを浮かべる。
 くのいち教室の皆は私と椛に対して外法師と言う認識を持っているので、結界の言葉にさほど疑問を抱いた様子はない。
 幻術の授業は忍たまよりも特化して学ぶため、外法師と言う言葉にも恐れを抱く気配がないくのたまたちは流石だと思う。
 まあ外法師と言っても私と椛にとって師匠と呼ぶべき多聞さんが立派な元陰陽寮所属の陰陽師で、現在はそこに正式に所属していないだけで、そこから回ってくる仕事を熟しているので禄でもない外法師たちと比べればよっぽどマシな外法師と言えるだろうから当然と言えば当然だろう。
「一体何が起こったんでしょうか」
 じっと先ほどまで見えていた闇のような影が見えない、いつも通りの廊下を見つめ、奈乃香ちゃんがぽつりとつぶやく。
「さあ……調べてみない事には何とも」
 私は首を横に振りながら教室の中に視線を走らせた。
 一年生と二年生はシナ先生に連れられ校外実習の最中である。
 私たち上級生はシナ先生に変わって授業監督をしており、普段であれば委員長がこの場を仕切るのだけど、委員長が居ない今、代表代理は私だ。
 まあ、学級委員長関係の次席で言えば美土里ちゃんだけど、美土里ちゃんがこの場を把握するには椛の扱いが不可欠なので私が動くべきだろう。
「椛はどう見る?」
「わからない。けど、鉢屋が言っていた状況になった……と言ったところかしら」
 つまりは鬼が来た、と言う事だろうか。
 私の中の内隠も警告していたほどだからあまり良くない鬼なのは確かだろう。
「三郎?」
 首を傾げる美土里ちゃんの横でチヨちゃんが眉根を寄せる。
 何故そこで鉢屋くんの名前が出てきたのか不思議でたまらないんだろう。
「結界は張った。多分、あれは忍たまの敷地に落ちたみたいだから、あちらの敷地に向かわなければ何も害はないはず。対して力もなさそうだけど……臭うわ」
 眉間に皺を寄せ、目から下を覆うように袖を引き寄せて口元を大きく覆った。
「委員長は戻って来たみたいだけど、巻き込まれたみたい」
「委員長は無事なの?」
「お梅さんが居るから大丈夫」
「そう」
 心配そうに問うた初江は、椛の答えにほっと胸を撫で下ろした。
「お梅さんが戻って来るまでは結界維持に努めるわ」
「了解。じゃあ私は忍たまの様子を見に行ってくるわ」
「油断はしないで。何かが可笑しいから」
「ええ、もちろん。……初江、美土里ちゃん。椛がこんな状態だけど、安心して授業を続けて頂戴」
「続けるって……大丈夫なの?」
「大丈夫。こっちには一切手を出させないわ。それにあっちには数馬がいるからまず先にそっち確認しに行ってくるわ」
 数馬はまだ幼いけど隠の力も外法師の力もこの学園で一番強い。
 私を才能に毛が生えたレベルと言うならば、数馬は根っからの天才だ。
 幼いながらに悪鬼に付けられた所有印に隠された隠の華の匂いを嗅ぎ取り、あっさりと悪鬼の所有印を跳ね除けた。
 人と隠のハーフであり、生まれ持った力が強かったことから一人になりがちだった数馬は甘やかす私と傍に居てくれる椛が好きだった。
 椛はそれがくすぐったくてウザッたがっていたけど、数馬が嫌いなわけじゃない。どっちかって言うと数馬と二人で私を取りあってライバルみたいなものだった。
 菫隠の長の息子で元陰陽師の息子と言う名に負けないように、私たち二人に置いて行かれないように数馬は私たちが菫隠の村に居ない間の三年間の間に自分の伸ばせるところは伸ばそうと頑張っていた。
 その結果が小波ちゃんであり、強い札を作る才能であったりと様々だ。
 椛でこの反応なら力の強い数馬はどうだろう。
 同じく不運な部分も相まってちょっと心配ではあるけど、味方であれば数馬ほど心強いものはない。
 それに委員長が戻ってきているならくらくんも戻ってきているだろう。
 くらくんは外法師としては見習いレベルの力しかないけど、そもそものポテンシャル―――隠の力が強いので別格だ。
 出来れば早くくらくんに合流したい。
 ただ、鉢屋くんが美紗ちゃんに残していた言葉がどう言う意味を持つのかわからなくて少しばかり不安がある。
「あ、あの……忍たまの皆は大丈夫なんでしょうか?」
「わからないからそれを確かめに行くのよ」
 不安そうに問う若葉ちゃんにウィンクをし、私は懐に納めていた如意宝珠と札を確認するように押さえ、小さく頷いた。
「不安であれば手を休めても構わないわ。椛は放っておけば復活するから大人しく寝かせておいてあげて。じゃあ、初江に美土里ちゃん頼んだわよ」
「はい」
「本当に気を付けてね」
「もち〜」
 ひらひらといつものように軽く手を振り、私は教室を出た。
 空は先ほどまでの気配など感じさせないほど何の変哲もないいつもと同じ様な空だった。
「……こりゃ天女様かな」
 代わり映えのない空とさっき感じた異変。
 そこから連想されるように思い出したのが、忍たま夢でよく見かけた天女様夢だ。
 空から降ってきた女の子と言う共通点を持つその夢には両極端な話のパターンがある。
 一つは忍たまに囲まれながら、キャラと結ばれて幸せになりました。めでたしめでたしなハッピーエンド。
 一つは忍たまに囲まれて逆ハーの状態を楽しみ過ぎて周りの不評を買って殺されるバッドエンド……を傍観する忍たまだったりくのたまだったり、実は先に来ていた天女様だったり。まあざっくり言えば傍観夢?
 まあ書き手が何人も居るジャンルではあるから話の種類はこれだけに限った事じゃないけど、椛が臭いと言う意味で臭うと言ったのだから何となく後者の天女様を想像した。
 どちらにせよ天女様だから皆に愛されるだなんて気持ちの悪い状況を楽しめる人が実際に居るならそいつは馬鹿だと私は思う。
 10人が10人自分を好きだなんて状況がまず嫌いだ。
 私を好きな人、嫌いな人、知らない人。そんな風に十人十色の思いが普通で、私は確かに普通じゃないけど、その普通が好きだ。
 趣味趣向は人それぞれなんだから、神だかなんだかわからない存在に力で捻じ曲げられた不確定な愛情が永遠に続く保証なんてどこにもない。
 それにあちらの世界から見たこちらの世界は無限のループかも知れないけど、この世界は確かに動いていて、私たちは忍を目指すたまごたちだ。
 忍たまはどうかはわからないけど、少なくともくのいち教室の皆はその普通を維持できているから天女様の思いの範疇ではないだろう。
 天女様が典型的なアンチ天女話の天女様とは限らないわよねと気休め程度に自分に言い聞かせ、気を落ち着かせて結界札に息を吹きかける。
 念のための結界ではあるけれど、これは無意味ではないだろう。
 私は竹垣のある場所まで行くと、そこの一角に手を差し伸べてそっと横に動かした。
 これはちょっとした絡繰りの一つで、忍たまの敷地内に忍び込みやすいように作られたものだ。
 もちろん向こう側から同じことをしようとすれば罠が発動するように仕掛けてあるんだけど、これを仕掛けたのは椛なので、ちゃんと解除の仕方も私は心得ているのでここはよく使わせて貰っている。
「おっじゃましまーすっと」
 なんて声に出して言ってみたものの、前からこうして声を掛けても返事が返ってきたためしは殆どないので意味はない。
 この竹垣の先は小さな畑に繋がっている。
 ここは一応生物委員の管轄ではあるけれど、今は数馬が私用で使わせてもらっている。
 確か伊賀崎くんが個人のペットを増やし始めた頃からここに手が回らなくなって使わなくなったところを数馬が当時の生物委員長に交渉して借りるようになったのだ。
 この畑では数馬が菫隠の村で育てていた花を育てている。花と言ってももちろん薬草になる花なので採取された花は医務室で重宝されているらしい。
 保健委員用の薬草畑はまた別にあるのでそちらの手入れもしながらこちらの手入れもしっかりとしている数馬は本当に偉い子だ。
 まあそんな訳で数馬かこの畑の存在を知っている子以外ではここで誰かに会う事は滅多にないんだけど、今日は居た。
「数馬!」
 畑の隅で蹲っている数馬に近寄ると、椛と同じように鼻を押さえて眉根を寄せている。
 私が慌てて歩み寄ると、結界の範囲内に入ったことで数馬が感じる臭いが少し押さえられたようだ。
「華織ちゃん……華織ちゃん!」
 一瞬泣きそうな顔をした数馬が私を押し倒しそうな勢いで抱きついてきた。
「うわっ」
 久しぶりの数馬のタックルは昔よりも体格が大きくなった所為で若干時友くんのタックルよりも力強いと感じたけど、私はそれをきちんと受け止めた。
「……大丈夫?」
「臭くて堪んないよっ。なにこれ!」
「さあ……椛も同じ事言ってたけど私は何にも感じないから」
「華織ちゃんもしかして結界札持ってる?」
「うん」
「最初より少し臭い薄まってきてるけど、華織ちゃんの良い匂いとは真逆な位酷いんだ」
「そこまでか!」
「不破先輩の匂いもするけど、華織ちゃんの匂いで大分落ち着いた」
「そっか。それならよかった」
 って言うかくらくんの匂い沁みついちゃってるのか……何日前の所有印の匂いだ?うん、でも幸せだ!
 すりすりとお腹の辺りに頭を押し付ける数馬の頭をよしよしと撫でた。
「ところでくらくんたちにはもう会った?」
「……会った。と言うか、見た」
 ぴたっと動きを止めて、嫌そうに言う数馬に苦笑しながら私は「そっか」と返した。
「数馬がこれってことはくらくんもこうだよね……大丈夫かな」
「……結界札の予備と、華織ちゃん、手拭い持ち歩いてるよね」
「うん」
「それ借りてもいい?華織ちゃんの匂いで僕頑張る」
「数馬っ、もう大好き!ありがとう!」
 ぎゅうっとしっかり匂いを移す勢いでハグをした後、私は数馬に予備の結界札と手拭いを渡した。
「あれ?でも結界札なくても小波ちゃんがいれば平気なんじゃない?」
「ないより有った方がいいでしょ?それに僕、この間自分で作った結界札池に落ちて全部駄目にしちゃって……」
 突然重い荷を背負ったかのように項垂れる数馬に私はなんと行っていいのか困った。
 だけどそんなに落ち込んでいる暇はないと数馬は両手で自分の頬を叩き、小波ちゃんを呼び出して自分の近くに引き寄せた。
 古山茶の存在は結界札よりも効果のある、護符のようなものだ。
「さっき空から女の子が降ってきたから、多分それが原因だと思う。気を付けてね」
「わかってるわよ。数馬も気を付けて」
 私は数馬の髪をそっと撫でると、とんと地を蹴ってくらくんを探して走り出した。

 突然現れた天女様。隠だけにわかる臭いって何かしら?



⇒あとがき
 やっはー!まだ天女様出てないけど天女編らしくなってきましたよ!
 数馬と雷蔵さんは正気組です。他は……まあ次のお楽しみって奴で。
20110607 カズイ
res

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