◆慰め
始めてこの世界に辿り着いた時、あたしの身体は幼い頃の姿へと変わっていた。
前日は酷い嵐でも着たのだろうか、酷く増水した川の傍にいた。
舗装されてない地面の上で泥まみれの姿のあたしは途方に暮れるしかなかった。
土嚢を積み上げることでどうにか堪えていた水が、何も出来ないあたしの身体を飲み込んだとき、あたしは今度こそ死を覚悟した。
孫策を名乗る青年に助けられ生き延びたあたしは伯符のために生きることを選んだ。
数日ののちに、ここが遥か昔の中国、三国志の中にある呉に似た国だと知った。
言葉が通じないから意志の疎通が難しかったこともあってあたしは伯符にそれを言わなかった。
伯符の周りの世話をしながら僅か一年で言葉を覚え、更に一年で必要な知識を兎に角がむしゃらに吸収した。
周りから見ればただの子ども。
できることなんて限られているのは分かっている。
それでも、あたしは伯符のために生きようと思った。
「……小春」
沈んだ声で周瑜が部屋の外から声を掛けてきた。
女であり、子どもであるあたしが伯符という後ろ盾の無い状況でいつも通り仕事ができるはずも無く、書庫から近い部屋を当てられそこで仕事をしていた。
その内武官に志願するという言葉どおり修行も積んでいるが、子どもを戦に出すほど呉は人手不足ではない。
任官試験を伯符と周瑜、将軍たちが揃って反対するのだ。もうしばらくは我慢してやることにしている。
「らしくない声だね」
筆を置き、椅子から下りた。
戸を開けると、眉を寄せ、俯く周瑜がいた。
「さっきから騒がしいね」
ざわめく何時もと違う空気に目を細め、周瑜を見上げた。
「……入んなさいよ。お茶くらい出すって」
戸を開けたまま部屋に戻り、茶を入れるべく、茶器に手を伸ばした。
「伯符が」
手を止め、周瑜を見る。
「殺された」
強く握った拳から目を背けた。
「……そう」
周瑜が部屋の中に入ってきた。
がっとあたしの服を掴み、睨む。
「それだけなのかっ、お前は……」
身長差に首が詰まる。
「ちょっとぉ、勝手にあたしの気持ち決めないでくれる?」
地に足をつけていてはこっちが死んでしまう。
周瑜の手に自分の手を重ねる。
「そんでもって思いを押し付けないで」
周瑜は目を見開く。
どうやら自分の行動を指摘され驚いているようだ。
周瑜の手が離れ、私は咳き込んだ。
解放された私は戸を閉め、再び茶器に手を伸ばした。
「座りなよ。そんな顔で孫権さまのとこ行くって言ったらぶっ飛ばしてあげるから」
周瑜は戸惑いながら椅子に座った。
机の上に茶器を運び、花茶を注ぐ。
「伯符は出陣前に必ずあたしに会いに来てた」
直前であったり、前日であったり、時間は色々だけど、必ず一目会いに来ていた。
今回は珍しく酒まで持ち出して夜に会いに来た。
「兄は変わられたと孫権さまは言う。けどあたしは変わった後の伯符しか知らない」
どうぞと茶を勧め、席に座る。
「この国の王として強くあろうと力を求めつづけた……本当は弱くて優しい人」
目を閉じると最後の晩を思い出す。
大きな腕でこの小さな身体を抱きしめるのだ。
そして耳元で囁く「愛している」の言葉。
「あたしは泣かない。伯符がくれたこの命を呉のために使うんだからね」
「……小春」
「あんたもそれ飲んだら孫権さまのとこ行きな」
しっしと追い払うように手を振って茶器を口元に運ぶ。
まるで酒を煽るようなあたしの動作を見ながら、周瑜はおずおずと茶器を口に運んだ。
* * *
軍と共に帰還した骸に、遠くから頭を垂れた。
下位の自分ではその死を傍で見ることも構わず、仕事を早々に切り上げ部屋に戻った。
寝台に蹲り、がらんとした部屋を見渡す。
この部屋で暮らし始めて四年。
そんなに気にしたことなかったけど、伯符との思い出がそこかしこに滲んでいる。
思い出すと胸が苦しくなってシーツを掴んだ。
ふと、胡弓が目に入った。
周瑜の笛と合わせて引くと、決まって伯符は嬉しそうに笑ってくれた。
私は浮かぶ涙を拭い、胡弓に手を伸ばした。
寝台の端に座り、弦を滑らせる。
何度も何度も練習したから、身体の一部のようなものだ。
鎮魂歌なんて知らないから、元居た世界の歌でゴメンネ。
目を伏せ、ただひたすらに弦に弓を走らせる。
―――ピンッ
弦が切れて、頬を傷つけた。
痛い。
「……伯符」
痛いよ。
涙で目の前が滲んだ。
⇒あとがき
周瑜が好きだねぇ、私。
一応『孫策至上』と同じ設定で続きました。
20070504 カズイ