◆ムギさんは知っている
薄っすらと目を開けた部屋の中は薄暗く、夜が明けだしたかそれ位の時間だろうか?
昨日も遅かったからもう少し寝かせて欲しいと思いながら布団を引き寄せたのに、それを器用に剥がして小さな手を髪の毛に突っ込んでくる。
「なーん」
小さな鳴き声と共に何度も起きろとばかりに柔らかな肉球で思いっきり踏んでくる。
どうして毎朝俺ばっかり踏んでくるの……隣にもう一人いるでしょムギさん。
「ムギさん」
「なーん」
今日は休みなんだから、頼むからもう少し寝かせてと思いながら頭を踏み続ける成猫のムギさんの尻をぽんぽんと叩いたけど、許さないとばかりに今日はしつこく踏んでくる。
仕方なくまだ眠い目を擦りながら腕時計で時間を確認すればまだ朝の四時……思った以上に今日は早いな。今日は誕生日だからと折角休みを取ったのに、とんだスタートになったな。
ベッドの隣に視線を向ければ、俺が寝室に入って来た時からムギさんと俺の攻防戦まで一切気づいた様子もなく呑気に眠ってる嫁が居る。
朝から俺の嫁が今日も一番かわいい。
「なぁん」
不機嫌そうに鳴いても、ムギさんは二番目だよ。ごめんね。嫁が大事です。
彼女と出会ったのは雄英の普通科に入学してからだ。あまり話す方じゃなかったけど、体育祭の後変なモテ期を迎えた俺を助けてくれた一人でもある。
普通科で体育祭の決勝戦にまで残ったと言うステータスは、結果はどうあれ女子たちにとっては魅力的に映ったんだろうけど正直こっちは女性不信になるレベルであの時は唯々怖かった。
それをきっかけに話す様になって、大人しい子だと思ってたのが実はただののんびり屋だと知った。お互いあまり口数が多い方ではないけど、彼女と居るのは凄く気楽で、編入試験に向けて努力する俺を応援してくれた。
ヒーロー科の事件の影響で寮生活になった時、彼女の手料理を初めて口にした。思った通りの優しい家庭的な味を知って、結婚するなら彼女みたいな家庭的な子が良いななんて妙な妄想までしてしまったのが懐かしい。
何だかんだ体育祭の少し前から俺を意識していたらしい彼女と付き合う事になったのは編入試験の合格が決まってからだった。
お互い長い両片思いをしてたと言う事は、付き合うようになった事を報告したクラスメイトたちからも指摘された位だからもっと早く俺の方から言ってしまえばよかったなと、今でも皆の笑い話の一つだ。
それから二年の時に普通科からヒーロー科に変わって会える時間は随分と減ったけど、卒業してから無事サイドキックとして就職が決まったのもあって大学に進学する彼女と同居して、彼女の大学卒業を機に結婚した。
だから今は結婚して三年目、同居してからはそろそろ七年が経つ。……出会ってからは十年か?思ったより時間経ってるな。
この家には、二人で暮らし始めた時に迎えたもう一人の同居人であるムギさん以外はまだ居ない。
子作りしてないって訳じゃないんだけど、割と夜勤が多い所為で帰ってくると大体普通の生活をしている彼女はぐっすり就寝中なのだ。
ムギさんも居るし、出来るだけ定期的に休みは貰うようにしてるから寂しい思いはさせてないと思うけど、のんびりすぎて俺の事好きって事に気付くまで随分時間が掛かったって言う位だしなぁ……そんな鈍くさい所も可愛いけど。
俺が起きたと理解したムギさんは今度は彼女の顔をちょんちょんと突く。
さっきまでの踏み攻撃は俺仕様で、彼女相手には優しく突くだけってムギさん酷いよね。
でもムギさん、彼女の事はあんまり無理に起こさないのに珍しいな。
「んぅ……ひとしくん?……じゃない、ムギさんだ」
「おはよう」
ムギさんに起こされて、彼女もうっすら目を開いた目を擦る。
流石に彼女もまだ普段起きる時間じゃないから眠そうだ。
「なーん」
「休みだからいいけど……今日は特別ムギさんの朝が早すぎるよね」
日付が変わって今日は俺の誕生日だから、ムギさんもそれをわかってくれてたのかな?
毎年休み取って、彼女と一緒に夜にちゃんと祝ってたからなぁ……。
「今日は私が頼んだんだよ」
「?」
あくびを一つしながら、彼女はムギさんに「おはよう」とまだ眠そうな声を掛けて起き上がる。
俺だけ二度寝する訳にもいかないよなと起き上がると、彼女は俺に背を向けてナイトチェストの引き出しに手を伸ばし、一枚の写真らしきものを差し出してきた。
「人使くん、誕生日おめでとう。お祝いは何時もみたいに夜するけど、これだけ先に報告したくて」
恥ずかしそうに差し出された写真らしきものは白黒で、部屋の中が薄暗い事もあって一瞬なんの写真か分からなかった。
折り曲げてしまわない様にか、硬化カードケースに入れられたそれに思わず重い瞼がはっきりと開くのを感じた。
「これ……エコー写真?」
「十六週目だって」
「……え?」
十六週って……四か月経ってない?
「生理元々不順だったからにしても気づくの遅すぎじゃない?」
「初期症状全然なかったから気づかなかったのっ」
いつもののんびりもあってだろうけど、彼女は恥ずかしそうに頬を染めたまま唇を尖らせる。可愛い。
「なんか最近眠気が酷いなと思って、まさかねと思いつつ検査したら出来てました」
正直人間?と思うような写真だけど、これが俺と彼女の子どもの初めての写真なのだと思うと込み上げてくるものがある。
彼女と出会って十年、ヒーローに憧れて燻ってた俺を何時だって応援してくれた彼女との子ども。
胸一杯の感情をどう伝えていいか分からず、涙が滲む。
「っ……何時分かったの?」
「病院は昨日行ったけど、妊娠検査薬は三日前に試したよ」
「病院は?一人で行ったの?もっと早く言ってくれて良かったのに……」
「人使くんの仕事邪魔したくないし……昨日は丁度お母さん仕事休みだったから付き添ってもらって一緒に行ったよ」
後でお義母さんにお礼の電話入れとこ。
支離滅裂な事言いそうだからちょっと考え落ち着いてからゆっくりでもいいかな?
「……俺、父親、なるんだな」
「うん。私も母親になります」
へらりと笑う彼女の身体を抱きしめ、目を閉じる。
「精一杯フォローするから、内緒にしないでちゃんと全部相談して」
「ごめんね?でもどうしても今日言いたくて……」
夜までは待てなかったと笑う彼女に愛おしさが募る。
ああ、なんて幸せな朝だろう。
「最高のプレゼントだよ。ありがとう」
大きなあくびをひとつ浮かべたムギさんがでしょう?とばかりに小さく「なぁん」と鳴いた。
20220701 初稿