03.咲いていた花

 幼いころの記憶なんて、年を重ねるごとに薄れていく。
 きっとだれもがそうだろう。
 それでも忘れられない記憶もきっとあるだろう。
 里奈にとってあの一手はまさにそれである。

「宮内さん」

 背後から声を掛けられ、里奈は長い髪を揺らして振り返った。
「和谷く、ん?」
 自分を呼んだ主の名を呼ぼうとして少し失敗した。
 彼の隣に見知った少年―――いや、青年がいた。
 二人の少し後ろにはもう一人少年がいたが、そちらに覚えはない。
「……伊角くん?」
「久しぶり」
 微笑む伊角に、里奈はぱちぱちと目を瞬かせた。
「よかったよ、対局後にちゃんと会えて」
「宮内さんいつもすぐ帰っちゃうもんな〜。この間は塔矢に声掛けられたから少し残ってたけどさ」
 塔矢。
 その名前に思わず反応してしまったが、すぐに息子のアキラのほうだと気づいて笑った。
「びっくりしたわ。まさかすぐそばで彼が対局していたなんて」
 彼が院生になる前に里奈はプロになっていたし、プロになってからは偶然なのかまだ一度も対局したことがなかった。
「宮内さんって碁に集中してる時は完全に勝負師だからなぁ」
「集中力が半端じゃないからね」
 褒めているらしい二人に里奈は頬が熱くなって視線を少し伏せた。
 そして話題をそらすように話についていけないらしい少年の方を向く。
「えっと、はじめましてよね?」
「あ、はい。進藤ヒカルです」
 少し緊張た様子に、里奈はくすりと笑った。
「年、そんなに離れてないし緊張しなくていいよ」
「う、あ、じゃあ……」
 緊張を解いてへらっと笑ったヒカルにつられるように里奈も微笑んだ。
「言っとくけど進藤、宮内さんはお前の二つ上で三段。若手女流棋士の中じゃ一番の有望株なんだからな」
「和谷くん、そんなに褒めても何もでないわよ」
 ぴんと和谷の額を指で弾き、赤くなった頬を誤魔化すように頬を膨らませた。
「宮内さーん!」
 バタバタと棋院の中から里奈を追いかけて現れた女性がいた。
 桜野千恵子。里奈と同じ女流棋士であり、伊角とは一緒に韓国に行ったこともある。
 その関係もあってか、和谷とヒカルも彼女と面識があった。
 だが焦っているような声の理由はなんなのだろう。里奈は首を傾げた。
「はぁ、よかった。まだ残ってて」
「なんですか?」
「大変よ。さっき棋院に電話があって……」
 一瞬、嫌な予感が走った。
 院生時代に祖母が亡くなったと知らせがあった時のように―――
 だがそれもすぐに杞憂に終わる。
「貴女に連絡を取りたいんですって!」
「……誰が?」
「それが!塔矢行洋なのよ!!」
 興奮気味に話す桜野に里奈は目を大きく見開いたまま固まった。
 言葉が出てこないほどの驚き。
「塔矢の親父が!?なんでまた」
「よくわからないけど、あの一手の続きが見たいって、その一点張りで……意味わかる?」
 あの一手。
 それを行洋が覚えていたのだと知ると、里奈は薄く開いた唇に震える指先を置いた。
 たった一手。
 祖父の邪魔をして打ってしまったあのたった一手を。
「……宮内さん?」
 和谷の声に里奈は自分が泣いているのだと気づいた。
 それでも溢れる想いがそれに耳を貸さなかった。
「やっと……やっと……」
 感極まってそのまま涙を流し続ける。
 大好きだった祖父が死んで以来、会うこともなかった。
 棋士を目指したものの、女性と言うだけで扱いはあまりよろしくない。
 しかもあの塔矢行洋の師・宮内新蔵の孫と言う肩書がますます自分をがんじがらめに縛っていた。
 会うことを避けるように手合がない限り棋院には近づかなかったし、対局が終わればすぐに帰ってしまっていた。
 再会した時にあの一手を覚えていないと言われるのが嫌で、偶然会った棋院の廊下ですぐに走り去ってしまった。
 思えばあれが自分から声をかける最後のチャンスだったかもしれない。
 彼はすでにプロ棋士ではなく、引退した身。倒れたと聞いたときなんてこちらの心臓が止まるかと思われた。
 それほどまで思っていても会おうとしなかった自分は愚かなのだろう。
 だが行洋は里奈の一手を覚えていた。
 わずか数歳の子どものいたずらのようなあの一手を―――
「打ってもらえる」
 あの頃の里奈は自分から望むことなど「碁を教えてほしい」しかなかった。
 だがあの日だけは違った。行洋の一手と言う返事が欲しかった。どうしても。
 幼いその望みがいつしか心に花を咲かせていたのだと気づいたのは本当に最近だ。
「あの続きが……」
 嬉しさに涙する里奈の背を、事情はわからないながらも察した伊角がそっと撫でてやった。



⇒あとがき
 え?これ伊角夢ですか?
 ……そんなの気のせいですよ。
20070104 カズイ
20080716 加筆修正
res

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