02.偶然の一手
あの日、棋院で対局を終えたアキラの目に不意に留まった一局。
それは見知らぬ女性棋士と、一応は見知った少年との対局であった。
静寂に包まれた空間。碁石が碁盤に打ちつけられる音と対局時計の音がやけに大きく聞こえる。
そんな中なぜかその一局が本当に不意に目に留まったのだ。
彼とは院生時代に見知った程度でありさしある興味はない。見知らぬ彼女もまた然り。
凛とした姿勢で挑む女流棋士。年はアキラよりも少し上くらいだろうか。
アキラと同様に綺麗に切りそろえられた髪は腰を通り越して僅かに床についている。
結ぶことなく流された黒髪は細く艶やかで美しい。きちんと手入れの行き届いている髪だった。
表情を見れば、長い睫毛を持つ目を伏せ、真剣に盤上を見つめている。
思わずそんな彼女に見惚れていたアキラははっと対局中の碁盤に視線を戻す。
少年―――和谷の手は決して悪くない。だが彼女はあっさりとそれの上に行くようだ。
はらり、ひらり。
指導碁のようにあっさりと先に進んでいく。
まるで遊んでいるかのように。
だがそれは真剣そのもののものである。
「あ」
ふと、彼女が初めて声を漏らした。
それと同時に不自然に手の動きが碁石を握ったまま止まっている。
どうかしたのだろうかと彼女を確認したのはアキラだけでない。和谷もだった。
「……ふふ」
桜色の唇が弧を描いて、細い指がその口元を隠すように動いた。
「すごい偶然だわ」
思わず零れおちた歓喜に満ちたその言葉に思わず胸が跳ねた。
うっとりとした目が盤上を見つめ、再び碁石を握り直し盤上へ鋭く打ちつけるように置く。
その一手は妙に頭に残った。
* * *
「偶然か……」
彼女―――あの後彼女が宮内里奈三段だと言うことを彼女の口から聞いた―――の一手、アキラはそれを打った。
アキラはその後呟かれた行洋の声に顔をあげた。
今父は何と言っただろうか。
「父さん?」
そう思うと行洋に声を掛けていた。
「いや」
行洋は笑ってアキラが打った一手を見つめていた。
その目は細められているが、とても優しい眼差しに見えた。
「……少し、懐かしい一手だと思ってな」
アキラは首を傾げた。
「この一手が、ですか?」
特に珍しくはないが、そう多い手でもない。
アキラ自身もそう思ったし、彼女自身も是と答えた。
ただ思い出のある一手なのだと彼女は語ってくれた。
何故父も彼女と同じように懐かしそうな優しい眼差しで語るのだろう。
「この一手……前に人が打っていたのを見たんです」
探るような声音に気づかず、行洋は答えた。
「宮内里奈三段か?」
行洋が、ほんの一瞬父に見えなかった。
名を呟いたその一瞬。その時の行洋の顔は男であった。
「あ、はい。……ご存知だったんですか?」
「……彼女が私にはじめて打った手だ」
想いがにじみ出ているようだ。
それはまるで他人の恋話を聞いているかのような錯覚だ。そんな経験アキラにはないが。
だがそれが気のせいだと言うように行洋の顔から笑みが消える。
変わりに現れたのは悔やむような顔だった。
「彼女と打つのもいいかもしれないな」
ぽつりと呟くように言った言葉。
「宮内三段と、ですか?」
「ああ」
分かっているのにアキラは問いかけた。
答えもまた当然のように返ってきた。
「あの一局……あの続きを」
再び碁石を握り次の一手を打つ。
目の前にいるのはアキラのはずなのに行洋の目はそれを透かし見、別の相手―――里奈を見ていた。
一体二人の間に何があったと言うのだろう。
二人の関係とは一体……
アキラはそう思わずにはいられなかった。
⇒あとがき
なんとも複雑なアキラ。
むふふ。メンゴ。
20070104 カズイ
20080716 加筆修正
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