□サウダージ1

「もう、梓馬さまに近づかないで」
 名も知らない少女はそう言った。
 自分よりも可愛くて、儚くてどこか折れそうな感じのある少女。
 箸よりも重たいものは持っていないとでも言いそうな小さく綺麗な手が私の頬を打った。
 じんじんと熱を持ち、叩かれたのだと気づくくらい意識は吹っ飛んでしまっていたようだ。
 少女は涙を目にいっぱい溜めた顔を隠すように走り去ってしまった。
(……私じゃ無理だ)
 そう思ったらもう終わってしまっていた。

  *  *  *

「あ、香穂ちゃん」
 和樹先輩が元気よく手を振るから、私もそれに小さく手を振って返した。
 右手には銀色のトランペット。光を受けてきらきらっと光っている。
 コンクールが終わっても先輩は音楽科だから当然。
 私は普通科だけど、なんかもったいなくて時々オケ部に顔を出させてもらって練習に混じらせてもらっている。
 音楽に触れていたいというそんな理由だけど、和樹先輩のおかげですんなりと混じることができた。
 本格的にヴァイオリンのことが知りたくて、月森くんに時々アドバイスをもらってる。
 音楽のこともっと知りたくて、楽典の授業のことを時々笙子ちゃんに教えてもらってる。
 コンクール中にも話していた四重奏がしたくて桂一くんとヴァイオラの人を交渉中。そして楽譜選び中。
 同じ普通科で楽器やってる者同士ってことで、サッカー部に戻ってしまった土浦くんとも仲良くなった。
 ほかにも、天羽ちゃんとは一緒にお弁当を食べる仲だし、王崎先輩とはオケ部で会ってる。ついでに金澤先生もね。
 ……でも、柚木先輩とは?
「どうしたの?」
「なんでもないですよ。それより何の練習してたんですか?」
「久しぶりにコンクールでやった曲をさらってるんだ」
「ちなみに俺のリクエストな」
 にっと笑って隣に立つのは同じ普通科で、和樹先輩と仲のいい青木先輩。
「そうだ。日野さんも一緒にやってくれないか?えっと……ガボットだっけ?たしかそんな曲前に一緒にやってなかったか?第一セレクションで日野さんが演奏した曲」
「ガボットであってるよ。香穂ちゃんはいい?」
 暗い気分だからこそ明るい曲を演奏するといいかも知れないと思う。
「はい。あ、ちょっと待ってくださいね」
 近くのベンチにケースと鞄を置いてヴァイオリンを出す。
 弓を巻いて、調弦をする。だいぶこの作業にもなれたなぁ。
 軽く弓を当ててガボットの駆け出しをちょっと引く。
「えっと、オッケイです」
「香穂ちゃんのリズムで始めて。俺が合わせるよ」
「はい」
 安心できる和樹先輩の微笑み。
 それに安心して、私はヴァイオリンを構えた。
 ぴんと背筋を伸ばし、気分をヴァイオリンに切り替える。
 弓を動かすと弦の上をなめらかに滑った。
 今は楽しい気分じゃないけれど、コンクールのときはすごく楽しかった。
 やさしい気分が胸一杯にあふれて、あったかい気持ちが一杯で、毎日が楽しかった。
 柚木先輩の本性?それを知って、そりゃぁびっくりしたけど、それでも先輩は優しかった。
 厳しくあったっていじめるけど、いつもどこか優しい。そんな先輩がやっぱり今でも好き。
「うわ、どうしよ」
 演奏が終わったとたん、青木先輩がそう呟いてうつむいた。
 思わず和樹先輩と顔を見合わせて、また青木先輩を見た。
「なんでだろうな。すっげぇ涙でた」
 ごしごしと服の袖で顔を擦る青木先輩を止めて、私はハンカチを差し出した。
「あんまり擦ると目に悪いですよ」
「いいよ、自分の持ってる」
 青木先輩はポケットから自分のハンカチを出すと涙をそれでぬぐった。
「火原は演奏してて気づかなかったかもしれないけどさ、すっごくきたぜ」
 胸元を押さえる先輩に和樹先輩は笑った。
「香穂ちゃんの演奏はいつも胸に来るよ。いい演奏だもん」
「っていうか、表情が、さ……」
 涙を拭いた青木先輩は私を真正面から覗き込んだ。
 いまさら気づいたけど、先輩のほうが少し高いや。
「泣きそう。こっちもつられ……」
 言われて気がついたって感じで目から涙があふれてた。
「わっ、ごめん。余計なこと言った?」
 首を振るのが精一杯だった。
「青木〜」
「悪いって。後は任せた。じゃあな!」
 青木先輩が走り去って、その一角に人がいなくなった。
 和樹先輩と、私。二人きり。
「ごめんな。青木のやつ、女の子の涙とか苦手で、俺よりロマンチストで……えっと」
 和樹先輩も困らせて、私、なにやってるんだろう。
「泣かないで?」
 和樹先輩のほうが泣きそうな顔して顔を覗き込む。
 ごめんなさい。
 涙は止まりません。
「……俺でよかったら話し聞くよ?」
 ぽんぽんと頭をなでる大きな手が心地よくて小さく頭を下げた。
 草の生い茂った足をのばし二人ともベンチ腰を下ろして、私はぽつりと口を開いた。
「柚木先輩と……」
「柚木と?」
「……別れたんです」
 和樹先輩の反応はちょっと予想と違った。
 先輩らしい顔で「どうして」と首をかしげた。
「もう、だめなんです。好きじゃないから」
「そんな……」
「……サウダージって曲知ってます?」
 素直に言えない。
 だけど誰かに気づいてほしい。
 この苦しい思いを……
「え?」
「今、そんな気分なんです」
 ヴァイオリンをケースに戻し、すくっと立ち上がった。
「じゃ、今日は帰ります。それじゃあ」
 私は早口でそう言って、走って逃げた。
 コンクールの時からそう。私は、卑怯者なのかもしれない。


20031116 カズイ
20070320 加筆修正
res

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -