記憶



記憶



自我が目覚めた時、ぼくは真っ白な部屋にいた。部屋には何も無くて、在るのはぼくを閉じ込める六面の白い壁と部屋を照らす最低限の灯りだけだった。
物を食べることもなく、睡眠を取ることもなくただ一人でそこにいた。
その頃は一人で居ることが当たり前だったから寂しさなんてものは無くて、それどころか心なんてものが無かったのかも知れない。


ある時、一人の男が白い部屋に入って来た。男は柔らかく笑うと、ぼくの左手を軽く握って部屋の外に連れ出そうとした。
その頃のぼくは言葉を知らなかったから、立ち止まる事で「どこにいくの?」と意思表示したつもり。そうしたら、男は左手を握る手とは逆の手でぼくの頭を撫でた。
どんな意味で撫でられたのかは分からなかったけど、それでもぼくは嬉しかったんだと思う。懐かしさを感じて。


男がぼくを連れていったのは、白い部屋だった。さっきまでいた部屋と違うところは、物が有ることだった。机に、色鉛筆、真っ白で汚されるのを待っている紙の束、それにベッド。

「シュティレ、おいで」

慣れない言葉と一緒に手招きをしていたので、男の方に行けばいいんだと理解して、机の前に座る男の元に部屋の入り口から歩いていった。目の前に辿り着くと男はぼくに背中を向けさせて膝の上に座らせた。男はぼくの腰まで伸びていた長い髪を青いリボンで器用に結う。
そして、ぼくを立たせてから男も立ち上がるとまたぼくの腕を引いて部屋を出た。
部屋の扉は外に繋がっていて、青い空から光線を放つ太陽が妙に眩しかった。目が焼けるような感じがして目を手で被うと、男はぼくの服のフードを目深に被らせた。

「眩しいときはそれを被りなさい」

ぼくが意味も分からず頷くと男は苦笑いを浮かべた。
それから手を繋いで、色んな物を見た。水とか、草木とか、土とか、本当にいろいろ。当時は訳の分からないものばっかりだった。蛙が飛び跳ねて、吃驚して、尻餅をついたら男は笑っていた。
男は言葉を教えて、ぼくはそれを覚え理解しようと努めた。



「お前に、やってもらい事が有るんだ」

ぼくが言葉をそれなりに覚えた頃、男がそう言った。部屋の中の机で文字の練習をしているときだった。随分と汚い字だ。

「世界を廻す為に必要な仕事なんだ」

「仕事?」

「仕事と言っても簡単なものさ」

そう言うと男は何処からか地図を取り出した。そして、一番北に有る小さな陸地を差した。小さな文字でズィルベーンと書かれている。

「この家があるのが此処で、お前には此所に行ってほしいんだ」

男はススッ、と指を地図の上で走らせてピタリと止めた。そこは地図の最西南でエンデ湖という湖しか無かった。

「世界に二本有る世界樹の内の一本が此処に在る。仕事はこの近くに住む、それだけだ」

本当に簡単な仕事。むしろ今よりも自由に行動できるだろう。そんな仕事にひとつ疑問が浮かぶ。それが顔に出ていたのか、男は眉尻を下げてぼくの頭をあやすように軽く叩く。

「ぼく、一人?」

「ああ、そうだ」

「………」

初めて感じた、寂しいという気持ちだった。しかしそれは口から零れることなく、そのまま白い部屋の生活に別れを告げて、ズィルベーンから痛みの森に移り住んだ。
男が用意した家はログハウスのような隠れ家的なもので住み心地は良かった。
辺りは木々に囲まれて、そこに生息している多様な動物と、エンデ湖に差し込む陽の光を眺めるのが好きだった。
其処で生物を愛しながら言葉のほかに知識も、剣術も、魔術も、身に付けようと努めた。剣術と道徳は少し足りないけど、それ以外は誰にも負けないくらいに身に付けた。人間の間では禁術とされる領域の魔術に手を出したりもした。
それなりに充実していた日々の記憶。
そう。世界が歪む前の、それなりに充実していた日々の記憶。



20120624
20121201 差し替え

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