早く来すぎたかな、と思いながらアイスコーヒーのストローを少しだけ齧った。ただでさえ時間通りに来ないひととの待ち合わせなのにしくったなと。そのお陰でずっと気になっていたお洒落なコーヒースタンドに寄り道することが出来たわけだけど。
 どうせならあの美味しそうな手作りブルーベリーマフィンも買えばよかった。ちょっぴりの後悔の念を抱きつつ、待ち合わせ場所近くのベンチに砂埃をしっかり払ってから腰を下ろした。カバンから取り出したケータイのディスプレイにはいま上映されている映画の一覧が映し出されている。

 本日は我々の記念すべき初・映画デートだ。付き合ってそこそこ経ってるくせに、初めての、映画デート!だ!繰り返し言ってしまうくらいには私は浮かれていて、それが待ち合わせ場所に早く来てしまった理由でもある。
 そりゃ普通のカップルからしたら映画デートなんて定番中の定番なんだろうけど、こちとら普段から「外でデートなんてめんどくせ〜ウチでジューブンだろ」とソファにふんぞり返って文句をタラタラ垂れるばかりの男なのだ。映画なんてもってのほかだ。そんな男が、一緒にキーマカレーを食べてる最中に突然「たまには映画でも見に行くかぁ」なんて言ってくるもんだから、私は思わずラッシーを吹き出しそうになった。どういう風の吹き回しかわからないし今だけのきまぐれなのかもしれないけど、一瞬停止した思考をフル稼働させてちぎれんばかりに何度も首を縦に振り、二つ返事どころか七つ返事ぐらいした。
 蘭には大袈裟じゃねって訝しげな顔をされてしまったけど、ちっとも大袈裟なんかじゃない。他の人とだったらここまで喜ばなかったかもしれないけど、基本的に人のために時間を割くことが嫌いな蘭が私のために時間を作ってくれたことが嬉しいのである。
 ただの映画デートだというのに、浮かれポンチな私ときたら美容院に行って髪を綺麗して、蘭の好みそうな服…ではなく自分の趣味全開なワンピースを買って(いつもより丈が少し短めのものを選んだのはせめてもの忖度だ)、ネイルもばっちり、まつげも上向き。本当はもう少し大きい目と筋の通っていて先端が小さめの鼻とシャープな輪郭がほしいところだったけど、それはさすがに無理か。まあ取り敢えず、今できる最高のコンディションで今日という日を迎えることは出来たと思う。

 しかし。ここまで自分のことは仕上げてきたくせに、肝心の見る映画が未だに決まっていない。蘭が来るまでには決めておかないと。じゃないと機嫌を損ねられかねない。
 蘭は「オマエが見たいのでいーよ」と言ってくれている。その言葉に素直に甘えるならば、今日我々が鑑賞する映画は最近流行の若手俳優(蘭には秘密だけど実は顔が好み)主演のラブコメということになってしまうのだけど、そうしてしまったらたぶん蘭は退屈のあまり爆睡するか、最悪外で待ってるわなんて言いだしかねない。それじゃあデートの意味がない。却下だった。
 それじゃあ蘭の好みの映画にするかと言うと他人を殺さなきゃ自分が殺される恐怖のスプラッター映画か、平穏な家族が購入した家は呪われた家だった!なホラー映画かのどちらかだ。もしそうなってしまったら今度は私がずっと目を瞑って耳を塞いでいるか、半ば気絶するように意識を飛ばすことによってすべての情報を遮断するしかなくなる。だってそうじゃないと夜眠るときに絶対思い出して震える羽目になる。
 …つまるところ私たちは、少なくとも今の時期の映画デートを楽しむのに適していない気がするのだ。かと言って、もう二度と訪れるかもわからない折角の映画デートチャンスを無駄にするわけにはいかない。だとするならば、ここはもう、私が腹を括るしかないのだ、きっと。生きた人間による恐怖か、目に見えないモノによる恐怖か。なるべく心にダメージが少ない方を選択すべく、まずはスプラッター映画の予告から確認しようと検索サイトへアクセスした時だった。目の前を通った女の子たちのやたらはしゃいだ様子の会話がするりと耳に入り込んできた。

「ヤバい、アタシああいう喧嘩って初めて見た!」
「六本木でもああいうのあるんだねぇ…」
「結構色んなとこに『暴力団はみんなで追放!』みたいなポスターあるし、さっきのも暴力団のひとだったのかな?」
「え〜でも特攻服?着てるひとたちとフツーっぽいお兄さんだったよ」
「暴力団てより不良なのかな?てか特攻服って初めて見たぁ」
「ウチもぉ」

 すっかり検索ワードを入力しようとしていた手は止まっていて、彼女たちの会話が聞こえなくなるまでひたすらに耳を欹てていた。
 六本木・喧嘩・特攻服。私の脳内の検索欄にそれらの言葉を並べるとすかさず「灰谷兄弟」「灰谷蘭」「灰谷竜胆」のサジェストキーワードが表示された。まさか、まさかね。
 特攻服着てるひとたちと普通のお兄さん……いくら蘭でも、さすがにこれから映画見ましょうって日に特攻服を着てくることはないだろうし、喧嘩するから遅れるなんて連絡も来てない。いや、いまだかつてそんな乱暴な理由で遅刻されたこともないけど。そもそも遅れるときに何か連絡があったこと自体なかった。
 じゃあ、もう一方の可能性は?と思案したけど、それもないか。だって黒と金を織り合わせたおさげ男が?普通のお兄さん?の枠に収まるとは思えないし。それに、私が思うに蘭はまだ家にいるんじゃないかと予想する。というのも、約束の時間までまだまだある。で、蘭が家を出るのって大体待ち合わせの時間過ぎてからでまだいい方、たいていは痺れを切らした私が電話して、挙句迎えに行って、すっかり出掛けるのがめんどくさくなった蘭の駄々に負けて、結局家でダラダラするのがいつものパターンだ。今日もまだ下手したら寝てるかもしれない。だから、先程の話題に挙がった人物に蘭は含まれてないと推測する。もしかして竜胆くんだったりして。それはあるかも。彼も?普通のお兄さん?と呼ぶに相応しいかは怪しいけど。
 そわそわとひとりであれこれ考えててもしょうがない。どうせ蘭はまだ来ないだろうから、とコーヒーを一口啜ってからすっくと立ちあがった。暇だし、気になるし。ちょっと、野次馬してみよう。

 現場がどこかわからないものの、とりあえず女の子たちが歩いてきた方向へ足を進めてみると、前方にちょっとした人だかりが出来ているのが見えた。初めはあんなところに美味しい店でもあったっけ?なんて思っていたけれど、いや、と思い直す。あそこって確か公園があったはずだ。なんだか嫌な予感がしながら立ち止まっている人々の隙間からそっと公園を覗き見てみると、濃い紫色の特攻服を着たひとが六人ほど倒れてるその真ん中で、親玉らしき男のひとの背中を踏みつけながら髪の毛を鷲掴んで何度も地面に打ち付けているひとが――ああ、あれは。

「は、灰谷蘭…!」

 思わず口からフルネームが溢れた。予想は大外れだ。寝起きでそのまま出てきましたみたいなスウェット姿で、長い髪だって下ろしたままの私の待ち人が、そこにいた。背中がスッと冷える。
 特攻服を着ていたのは蘭じゃなかった。さっきの女の子たちの言う?普通のお兄さん?の方が蘭だったのだ。よくもアレを普通で片付けたな女の子たち…とも思ったけど、いまはそんなことを考えている場合ではない。
 ど、どうしよう。コーヒーを持つ指先に力が入っていたようで、手元からペコッとプラスチックのカップが凹む間抜けな音がした。周りの人たちからは誰か止めた方がいいよだとか警察呼んだ方がよくない?なんて声が聞こえてくるし、というか多分、警察はもう呼ばれてるのではないかと思う。
 バクバクと心臓が鳴っていて、少しだけ足も震える。こんな人の目が集まるそこに行くのはかなり憚られたけれど、このままだとかなりまずい気がするし、ええいままよと意を決して人の隙間を縫って足早にそこに向かった。後ろからえっ!だとか危ない!だとか私を心配してくれる声がかかるけど、スミマセン!あれ、うちのツレなんです!映画見に行こうとしてただけなんです〜!

「ダッセェトップクで六本木ウロついてんじゃねーよあぁ?」
「ァ……が、ッ……」
「なんとか言えやコラ」
「ちょちょちょちょっと!蘭!」
「あァ〜?」

 ひしと縋りつくみたいにその腕にしがみついても、滅多に聞かない底冷えするような声が返って来るだけで私を見向きもしてくれない。ヤダもうメッチャ怖い!と半べそをかきながらもう一度名前を呼ぶと、漸く乱暴な動きをしていた腕と鈍い音がとまった。緩慢な動きでこちらに向けられた顔には長い髪が垂れ下がっていて、その奥には普段私に向けられない肌が粟立つような冷たい表情があるのがわかる。ぶるりと内臓が震えた。喧嘩してる時、こんな顔してるんだ。少しでも動いたら頭からばくりと食べられてしまいそうで、固唾を飲んでじっと息を潜める。
 神さまが丁寧に作ったに違いないと思わせるムカつくほどにきれいな顔立ちのその中心、左の鼻の穴から血を垂らした蘭の瞳はゆっくり辺りを見回すように彷徨ってから私を捉えた。蘭こと蛇に睨まれた蛙の私はどうにか情けない声を絞り出す。らん、と。震えてか細いそれが彼の耳に届くのか不安だったけれど、何度かゆっくり瞬きをしたかと思うと乱雑に髪をかきあげた蘭は先程までの怖い顔はどこへやら、ぱっと表情を一変させてにへらと呑気に笑った。たぶん、喧嘩のせいでちょっとハイになってるんじゃないかと思う。

「あ?なまえじゃん。なんでンなとこいんだよ」

 「待ち合わせここじゃねーだろ」と笑いながらぽいっとゴミでも捨てるみたいに男の人の髪を掴んでいた手をぱっと離した。ぷらぷらと手を揺らしながら「手ぇいてえ〜」と嘆く蘭の足元に転がる男の人に自然と目がいく。気絶してるようで、ぐったりとしているそのひとの顔は血や唾液やらの体液と砂利に塗れていて、半開きの口から覗く前歯はところどころないように見える。あんなに顔ガンガンやられていたら歯どころか骨だって折れてたりするんじゃないだろうか。

「ひ…」

 ――心臓が、いやな鳴り方をしている。目の当たりにした非日常を理解していけばいくほど血の気が引く感じがした。息の仕方がわからなくなりそうになって、はやく目を逸らさなきゃと思うのにうまく体を動かせない。段々と呼吸が浅くなっていまにも止まってしまいそうになる寸前、蘭が私の名前を呼びながら顎を掬い上げて上を向かせた。私の視界は乱れた髪の鼻血を垂らした彼氏でいっぱいになる。

「なまえ、こっち」
「う、あ…」
「オマエが見るのはオレなー?」
「ぁ、う…うん……」
「ン。まビビってる顔も悪くねーけど」

 まるで水中から引き上げられたような感覚だった。蘭はどうにか酸素を吸い込もうと間抜けにはくはく口を動かす私を見下ろしながら、赤黒く汚れた指先を避けるようにして指の背で宥めるように頬を撫でてくる。「ひーひーふーしろ〜」と彼の口から出てくるにはアンマッチな言葉と少しの体温を感じながら徐々に私の呼吸が落ち着いてくると、その様子を見た蘭がヨシ、と口角をあげてすっと顔を近づけてきた。ぼんやりとした頭とごつごつした骨が肌を滑る擽ったさにうっかり受け入れてしまいそうになるけど、あと少しで唇が触れ合うところで視界に入り込んだ赤色にハッと我に返り、コーヒーを持ってない方の手のひらで少しかさついた唇を受け止めた。息がかかってむずがゆい。

「あ?」
「待って。そのまま、ちょっと止まってて」
「何?オマエからチューしてくれんの?」
「しない。鼻拭いてあげる!」
「ンだよそれ。オレがハナタレ小僧みてえな言い方じゃん」

 でも鼻血が垂れてるのは事実だからある意味ハナタレではある。ハナタレ・ラン。まあ小僧かどうかは微妙なところだけど。
 拗ねているのかはたまたキスを強請っているのか、つんと突き出されている唇はスルーして、アイスコーヒーの結露でプラスチックカップの周りを覆っている水滴でハンドタオルを湿らせ、それを鼻の下にそっと押し当てる。乾きかけているのか一度では拭いきれず、何度か往復させて汚れを拭き取った。その間、蘭は口をへの字に曲げて若干不服そうな顔をしてはいたものの大人しく私を待っていた。
 それにしても、喧嘩して帰ってきたところはこれまでにも何度か見てきたけれど、こんな風に鼻血を出してるのは初めて見た。どうも急に囲まれて羽交い締めにされたところをぼかんと一発やられたらしい。蘭にもちゃんと血が通ってるんだねえとしみじみ呟いてみたら「なまえちゃんはオレのことなんだと思ってンのかなァ?」と口元を引き攣らせながらさっきまで撫でてくれていた頬をぐっとつままれた。

「つかよ、多勢に無勢じゃん。卑怯だと思わねぇ?」
「でも蘭も卑怯だって竜胆くんに聞いたよ」
「オレより竜胆を信じるワケ?」

 ナァ〜?と賛同を求めているのか、圧をかけているのか、猫の鳴き真似なのかよくわからない声を出しながら甘えるみたいに大きな体を寄せてきたので、普段はなかなか手の届かない後頭部のまるみを二、三度撫でた。多勢に無勢なんて言ってるけど実際ひとりで負かしてるじゃんと思いながら。

「もーコイツらのせいでオレの計画も台無し」
「計画?」
「そ。今日はオマエより早く来てやろうと思ってたのによぉ」
「え……なんか企んでる?」
「ハ?別になんも企んでねーよ」
「だって今まで一回もそんなことなかったじゃん。遅刻しないでねって頼んでも平気で遅刻するようなひとだよ、灰谷蘭って男は」
「カワイイカノジョがやたら楽しみにしてるみたいだったからよぉ、それに応えようとするカッコイイカレシも灰谷蘭って男なワケ」
「スウェットなのに?」
「なまえちゃんに早く会いたくて起きてすぐ家出たからなぁ」
「…私が楽しみにしてたから、早く来てくれようとしたってこと?」
「ソユコト。まコイツらのせいでオジャンだけどな」

 「あーなんか腹立ってきた。やっぱ殺したほうがよくね?」とまた足が竦みそうになるような声色とともにサンダルの爪先で伸びてる男の人の体を小突くから、もうやめよって裾を引っ張った。ちら、と私に向けられる視線がまたしんと冷えていて縮み上がりそうになるけれど、私がここで止めないとあながち冗談で済まされないことになりそうだから退くわけにはいかなかった。

「…まァ確かに、同じ場所で二度目はまずいか」
「え?」
「なんでもなぁい。で、今日何見ンの?」

 あ。見るもの、まだ決めてない。ていうかこれから呑気に映画なんて見にいけるのか?と思ってたらくるっとこちらに身体を向けた蘭が私の後ろ――恐らく公園の外側を見て、呟いた。「つーかメッチャ見られてんな、オレら」と。

「…あッ!」
「ん〜?」

 警察!警察呼ばれてるんだった、たぶん!蘭の言う通り、向こうから喧嘩をふっかけて来たのなら今のこの状態は正当防衛…の枠に収まるかもしれないけど、ぶっちゃけこの有様だと過剰防衛と捉えられてしまう気もする。そうなったら、蘭もまずいのでは。デートはおろか、暫く会えなくなってしまうのでは。そう思ったとほぼ同時に遠くから聞こえてきた唸るようなサイレンの音にハッとする。

「やっ、ダメ、蘭!逃げないと!」
「逃げる?なんで」
「なんでって、警察が来ちゃう…!」
「……」
「えっ…な、なに?なんで嬉しそうなの…?」

 私が言葉を吐き出せば吐き出すほど蘭の笑みは深いものになった。どうしてそんな顔するのかわからなかった。だって私、いま面白いことなにも言ってないのに。不気味にすら思えて、恐る恐るその理由を尋ねると、すっかり三日月と同じ形になった目で私を見据えながら、満足げに自分の顎を片手で撫でた。

「いや?オマエもすっかりワルいコになったなって思ってさ」
「え?」
「フツウはさ、ケーサツから逃げちゃいけねーんだよ」
「………確かに!」

 ピシャーン!と脳天を稲妻に打たれたような衝撃だった。というかそもそも警察を呼ばれるようなこと、追われるようなことをしちゃいけないのに。でもじゃあこのまま大人しくここに留まっているかと聞かれたら、答えはノーだった。そんな選択肢はいまの私の中にはない。蘭とこの場から離れること。それしか思いつかなかった。喧嘩はおろか人を殴ることだってしたことないけれど、他人に暴力を振るう男を受け入れて、赦して、匿って、あまつさえ愛している私は蘭の言う通り、?ワルいコ?でしかなかった。ああ、お母さん、ごめぇん…!
 動揺はしたものの己の良心の呵責を振り払うようにかぶりを振って、いまは考えないようにした。それからいまにも鼻歌でも歌いだしそうなくらいに機嫌がいい蘭の手を掴んで、その存在をすっかり忘れていた野次馬の目から逃れるみたいに公園の奥に向かって走り出した。さっきより近づいて聞こえるサイレンの音に混じって、蘭が愉快そうな声をあげる。それから、咎めるような野次馬たちの嘶きも。

「いいねえ、なんか逃避行ってカンジ?」
「も、まじめに走って!」
「へいよ〜」

 勢いよく走り出したはいいものの、正直どこへ向かえばいいかわからなかった。六本木の街にもそれほど詳しくなかったから蘭にリードしてもらいたいところだったけど、蘭が私の前を行くことはなく、背後からそこを右だの左だの指示をしてくるだけだった。私はその指示にしっかりと従いながら必死に走っていたけど、蘭は私の手にただただ引っ張られてるような状態で全く緊迫感がなかった。傍から見たら散歩が大好きな犬と、その犬にぐいぐいリードを引かれている飼い主みたいに見えたかもしれない。たまったもんじゃないな。
 脇目もふらずに走り続けていたから、道中、色んな人にぶつかりそうになった。車に轢かれそうにもなって、その拍子にアイスコーヒーも落としてしまった。もちろん、拾えてない。実質ポイ捨てだ。私たちははた大迷惑な二人だった。順調にワルいコ道を爆走している気がしてならない。
 和菓子屋から出てきたところを鉢合わせしそうになったご婦人からは「元気ねえ」とお上品に笑われた。手に持っていた紙袋を見て、ここが前に竜胆くんに「兄ちゃん帰ってくるまでこれでも食って待ってな」と貰った美味しいあんこがたっぷり塗されたよもぎ餅の店だとわかった。美味しすぎて蘭のぶんも食べて怒られたくらいだ。こんなところにあったのか。
 曲がり角でおじさんとぶつかりそうになったときにはこちらが謝るより先に「危ねえだろ!ぶっ飛ばされてえのか!」と怒号が飛んできて怖い思いをした。けど、すぐにおじさんのそれを上回るドスの聞いた声が「テメェこそぶっ殺すぞジジイ!」と釘をさしたので事なきを…得てはないけれど、取り敢えずは、やり過ごせた。おじさん、すみません。
 スレンダーなお姉さん二人組の横を通り過ぎようとした際には「あれぇ?蘭じゃね?」「ウケるまた修羅場?」なんて声をしっかりと私の耳が拾い、思わず足を止めてどういうご関係なのかとか修羅場についてとか色々お尋ねしたい気持ちに駆られた。けれど「サツに追いつかれちまうぞなまえ〜」とつつかれてしまえば、詳しく問い詰める暇はいまはないと自分に言い聞かせて、走り続ける他なかった。でも、いずれ聞く。絶対に。


 随分長いこと走っていた気もするし、そうでない気もする。遠くまで逃げられているのかもよくわからない。でも、もう足が限界だった。元々体力もない方だし、そんなに高くはないとはいえヒールで走ってるから余計に疲労が足にきていた。ワンピースの裾がふともものあたりに絡みつくのを感じながら、私はいまちゃんと走れているんだろうかと能天気なことを思った瞬間、集中力がぷつんと切れたのかがくんと膝の力が抜けて体が傾く。ゲッ、まずい、転ぶ。このままだと蘭まで巻き込んじゃう、とすっかり汗に塗れていた手を慌てて解こうとすると、それを許さんとばかりに繋いだそこに強い力が込められた。そのまま後ろに引かれて、呆気なく後ろに重心が偏る。ろくに自分の体のバランスも取れないくらいへろへろなのだと情けなくなりながら蘭の胸に抱き留めてもらったところで私たちの逃走は終わりを迎えた。

「も、もう、だ、じょぶ…かな…?」
「んー? まあ、たぶん」

 大丈夫じゃないって言われても、いまの私の生まれたての子鹿のように震える足では三歩も進めずに今度こそすっころぶ自信があるなと思いながら乱れた前髪を必死に直した。死に物狂いで走ったお陰で額には汗が滲んできっとメイクも崩れてると思うし、可愛く巻いたつもりの髪だってすっかりボサボサだ。折角のおろしたてのワンピースもくしゃくしゃになってると思う。膝に手をついて肩でおおきく息をする姿は見苦しくて目も当てられない状態だろうに、蘭はわざわざしゃがみこんでまで覗きこんでこようとする。私の肩からずりおちた鞄を受け止めて胸に抱えた男の顔には相変わらずご機嫌な笑みが湛えられたままだ。ていうかほとんど息切れてないし。なんか私だけバタバタしてるみたいですごく恥ずかしい。

「あーあ。マスカラ取れてら」
「ほんと、いま、みないで…」
「ヤダ」
「…性格わる」
「そんなトコも好きだろ?」
「そんなこと言ってな、ってちょっ!あ…っ!」
「ハハ」

 息切れしてる人間に必要なのは十分な酸素と、それを取り込む時間だ。いくら恋人とはいえ、今は熱いキスなど全く求めていないというのに、この男ときたら。
 蘭はにっこりと特上の胡散臭い笑顔を象ったかと思うと中腰だった私の腕を軽く引いた。ご存知の通り、私はもうまともに自分の体のバランスを保てるほどの体力は残っていないので少しの力でも目の前でうんこ座りする蘭にもたれ掛かるみたいに体勢を崩してしまう。当然目の前には素直に認めたくはないけど好きな男の顔がある。それを回避などできるはずもなく、大きく口を開けた蘭に唇ごと食べられるようなキス(と呼んでいいのかも微妙だけど)をお見舞いされた。息をするのに必死だった私の口は無防備で、甘えてくるような唇も、揶揄うように柔く齧り付いてくる歯も、戯れついてくるような舌も、止めるものは何もない。私はただひたすら彼の肩に両手を置いて耐えるしかなかった。ささやかな抵抗に少しだけそこに爪を立ててみたけれど、所詮今の私にはスウェット地を超えて蘭に痛みなんかを与える力も残ってない。

「ん〜コーヒー味」
「……ちのあじ」
「あー口ン中切れてたカモ」

 長めにくっついてた唇が離れた頃には私はもうほとんど足の力が抜けていて、すっかり蘭と同じように足を折り畳んでしゃがんでいた。人通りがない路地とはいえ、道端でしゃがみこむのなんてほんとにヤンキーみたいじゃんか(一方はガチだけど)と思いながらも、立ってるより幾分か楽な態勢に動く気も起きない。
 膝を抱えた腕に顔を埋めて呼吸を整えていると、私の髪の毛を指先に巻きつけながら遊んでいた蘭が「今日はもう帰るか」と零す。思わずえっ、と声をあげてしまった。

「いやだってよぉ、オレもオマエもボサボサだし。サツに見つかったらガンバって逃げた意味ねえしさ?」
「……うん」
「ンな顔しなくても埋め合わせすっから。くだらねーラブコメでもなんでも付き合うし」

 べつに、なにがなんでも映画に行きたいわけじゃない。蘭とだから、行きたいだけで。明日になって映画なんてくだらねー行くわけねーだろバーカとか言われたら、ちょっぴり悲しいなって思うだけで。
 とはいえ、今日はこれ以上映画デートを続行するのは無理だってことくらいさすがにわかっていたから、納得した上で賛同したつもりだった。でもどうやらそれを取り繕う力も残っていなかったらしく顔には出てしまったみたい。「拗ねんなや」と子どもを宥めるみたいな言い方で鼻をつままれたのでぺしっと手で跳ね除けて、隠れるように再び腕に顔を埋めた。汗で溶けたファンデでベタついてるに違いないから、触らないでほしかった。

「なんで隠すんだよ」
「だから見ないでほしいんだってば」
「でもよぉ、なーんか今日はいつも以上になまえちゃんから目が離せねえんだよなァ」
「…いつもよりかわいいって?」
「そゆコト」
「まあ…さっきまでは、そうだったかもね」

 皮肉っぽくそう言うと蘭はア゛〜と呻き声をあげながら項垂れて、だけどまたすぐに顔を上げた。その表情は眉尻を下げた、どこか観念したようなものだった。

「悪かったよ。あんなヤツらに構ってさ」

 「せっかく可愛く粧し込んでくれたのになぁ」と心なしかしょぼくれたように聞こえる声に、簡単に絆されそうになる。私が気合を入れて着込んできた可愛い鎧は今はもうすっかり剥がれてしまったけど、蘭にそうやって、かわいいって思ってもらえたならいいか。それがこの場を丸く収めようとするものであったとしても、まあいいだろう。実際私今かなり丸く収まりかけてるし、さっきから私の額を指先でつつきまくってるこの男が、私のために頑張ろうとしてくれてたことは確かだと思う。

「別に、喧嘩のことはいいよ。先に手出して来たあの人たちが悪いんだし」
「ン。ま取り敢えず帰ってホラー映画でも見ようぜ」
「…ちゃんとアフターケアしてくれる?」
「おー任しとけ。ビビりななまえちゃんのために背中も流してやるし子守唄も歌ってやるよ」

 愉しそうに笑いながら蘭の大きい手が私の頭を掻き混ぜるみたいに撫でる。竜胆くんにやるやつだ、これ。セットが崩れるからやめろ!って怒られる撫で方。私の髪はもうとっくに乱れてるから怒る気もしないけども。

「ほいじゃ帰ンぞー」

 そう言うと蘭はしゃがんだ状態のまま、くるっと向きを変えた。目の前には先程の喧嘩の名残だろうか、ところどころ土汚れがついている背中がある。状況がうまく理解出来ずに固まっていると「早く乗れ〜」と顎をしゃくりながら急かされた。乗れって、これはだって。

「えっと…タクシーとかじゃなくて?」
「オレはもーちょいなまえと散歩してえの。でもオマエもうガス欠だろ?だからおんぶすんだよ、オ・ン・ブ」
「でも警察が…」
「そう簡単に捕まってたら六本木のカリスマなんて呼ばれてねーよ」
「そうだけど、でも…」
「ンもいーからはよ乗れ。竜胆で鍛えたオレのおんぶヂカラ舐めんな」

 ちゃんとお兄ちゃんぽいこともしてたんだな、と妙に感心する。そして、その光景を想像してみてほっこりする。極悪兄弟にもかわいい頃はあったんだなあと。
 しかし、自分がされるとなるとどうしたものか。だっていい歳しておんぶされるなんて、正直かなり恥ずかしい。しかも六本木で。でももう散々大爆走してきたんだし、今更かもしれない。それに蘭がこんなことしてくれるなんてこの先なさそうだし、お言葉に甘えてその竜胆くんで鍛えたおんぶヂカラというやつ、試させて頂くことにするかと素直に首に両手を回して背中に体を預けた。もう、どうにでもなれ。
 生憎こちとらワンピースなので、パンチラだけはNGでお願いします!とおねがいすると「当たり前だろバーカ」と首を反らして後頭部でどつかれた。これが結構地味に痛い。

 よっこいせ、とおっさんみたいな掛け声と共に蘭が立ち上がると目の前の景色が一変する。高い、こんなの知らない。少し首を伸ばしたら自販機のてっぺんまで見えそうだ。私が見ている世界とあまりにも違いすぎるせいで少し怖くなって蘭の首にしがみつく力を強めた。

「ヤバメッチャ高いヤバ!」
「大人しくしてろよ〜」

 そう言いながら赤ちゃんをあやすみたいに軽く上下に揺らされて、間違って落っことされないようにしっかりと蘭の背中にへばりついた。
 そういえば今日頸隠れてるな。いつもは曝け出されているそこがなんだか恋しくなって、少し痛んだ金のカーテンの隙間に鼻先を埋めてみる。特に理由はなかった。だけど、「くすぐってえからやめろ」と笑う声が耳に届くよりもはやく、嗅ぎ慣れた香水とそこにほんのすこし汗の混じったにおいが、私の鼻腔と脳を蕩かしていた。私の少しだけねじくれていた心が、あっという間にまあるくやわらかなものに復元されてしまうほどに。なんだか今なら、蘭に抱き締めて貰えていたら苦手なホラー映画もいけるかもしれないとか思い始めてる。チョロすぎる。
 映画デートがダメになった分、存分に甘やかしてもらうことにする。映画を見るときには、ポップコーンとコーラだって用意してもらおう、なんならチュロスも欲しいね。ごはんはあーんで食べさせてもらってさ。それで、背中も流してもらって、子守唄で寝かしつけてもらおうじゃないの。今日ならそんなワガママも許してもらえるんじゃないだろうか。――もちろんその前に、過去の修羅場とやらについてきちんと説明してもらわないといけないけれど。
 そう思いながら、後頭部に頭突きをせんばかりの勢いで愛しい男の首っ玉に齧りついた。

20220526 あっ!似非谷蘭だ!
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