眠りにつく前に愛しのかわいこちゃんの声のひとつでも聞いてみようかと思ったオレの純情が、これから始まる少し面倒くせぇ夜の火蓋を切ってしまった。

「あァ〜…?」

 一切電話に出る気配もないし、メールの返事などもってのほかだ。この時間はまだ寝てねえはずだけどなと思ってから3回目の通話をかけたところで、いよいよコール音すらなくなり、おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入ってねえだのと音声ガイダンスが抜かしだした。寝てるとか気付いてないとかじゃない。明確な意思を持ってオレの電話を無視し、挙句の果てには電源を切りやがったのだ、あんにゃろう。
 最近はまあ色々、"灰谷兄弟"としてやらなきゃならないことがあってしばらく連絡してなかったから、それで拗ねてンのかァ?とも思ったが、どうだか。
 ディスプレイに表示されているそらで言える12桁の数字を眺めながら、どうしたもんかなと人差し指で顎を擦っていると、隣でゲームしてる竜胆が「さっきから兄ちゃんの貧乏ゆすりのせいでパーフェクト逃しまくってんだけど!」と非難の声を上げた。竜胆はここ最近リズム天国にはまっている。兄ちゃんの貧乏ゆすり如きにビート狂わされてるようじゃパーフェクトキャンペーン制覇への道は遠いぞ、なんて冗談を言う余裕はいまのオレにはあまりない。

「文句はなまえに言えよ〜」
「電話出ねえの?」
「出ない。つーか電源切られた」
「兄ちゃんから電話ほしい女なんてクソほどいるのにゼータクだな」
「だよなぁ〜?」

 可哀想なオレ…と胡坐を掻く竜胆のふとももに頭を乗せると邪魔だ!と怒られたけど、無視した。ここは黙って、カノジョに無視される哀れな兄貴を労わっとけ。残念なことに硬くてあんまし寝心地はよくねえけど。なまえのが質感いいわ。

「兄ちゃんなんかしたんじゃね」
「した覚えないんだけど。オレなんかしたっけ?」
「いや知らねえ」
「オレも知らね〜」

 もう1回かけてみるか、これで出なかったらオレ泣いちゃうかも〜と口にしたら竜胆に心にもないことを言うなと窘められた。愛する彼女にも愛する弟にも冷たくされて、オレはかなしいよ。
 履歴を開いて1番上の番号に発信すると、今度は無機質なアナウンスに門前払いされることなくコール音が鳴り、5回目くらいの呼び出しが終わったタイミングで急に電話口の向こうから喧噪が広がった。ようやく繋がったかと思ったのも束の間、人の賑わう声をBGMにして聞こえてきたのはオレの想定している声とは違う、なまえのより少しだけ高い声だった。オレが番号を間違えるはずがない。おかしいのはどう考えても電話の主だった。

「誰だテメェ」
『ひ、ごめんなさい!』

 とっととウチのなまえ出せや。そんな苛立ちが声色に滲んでしまっているのが自分でもわかったが、今更取り繕う気もなかった。何度も謝り続けている女を制して、謝らなくていいからなにがどうなってるのか状況を知りたいと伝えると、なにか言わんとする女の声を掻き消すように「謝んなくていいよ!エミはわるくないじゃんかぁ!」となまえの喚く声がきこえた。あ、なに。酔ってんの。

 すっかり怯えてしまった様子のなまえの友達にテキトーに謝りつつ話を聞くと、予想通りなまえはオレの着信を徹頭徹尾ガン無視していて、果てには電源まで切りやがっていたけど、酒が入って荒れているなまえを自分の手に負えないと思った友達ちゃんがなまえの目を盗んでこっそり携帯の電源をいれたところに丁度オレから電話がかかってきたらしい。ナイスタイミングじゃん。

 ホッントに申し訳ないんだけど、なまえを迎えに来てあげてほしい。なまえの友達ちゃんはそう言って、なんとかオレに店の場所を伝えたところで電話が切れた。というか来なくていいだの余計なことしないでだのなんだのぎゃあぎゃあと騒いでいたなまえに切られた、っていうほうが正しいと思うけど。
 通話の切れた携帯をしばらく意味もなく眺めてから、眠る気満々だった体をなんとか起こして、教えられた店の場所を調べる。ハア、なんて優しいんだオレ。涙出るわ。

「竜胆ぉ」
「おん」
「にいちゃん今日帰らねーから戸締りちゃんとしとけよ」
「あいよ」
「女連れ込んでもいいけど後始末ちゃんとしとけよ」
「あいよォ」

 下ろしていた髪を後ろでテキトーに括って、ソファの背にかけっぱなしだったダウンジャケットを拾った。さみぃなだりぃなねみぃなめんどくせぇなと愚痴のオンパレードがズラリと脳裏に浮かびつつも、しっかりと我が家に施錠をしてタクシーを拾い、教えられた場所へ向かってる己が阿呆らしい。とは言えあんな酔っ払いを外に放ったままひとり惰眠を貪ることもできなかった。へべれけ女一人捨て置けないとは、灰谷蘭も落ちたモンだなァ。

・・・

 六本木なんていくらでも洒落た店があるし何度か連れて行ったことだってあるのに、なまえは都内のどこにでもある居酒屋のチェーン店を好んだ。今日も今日とて、すぐ隣のビルに前に一緒に行ったバーがあるってのに、そこらへんにごまんとある店で飲んでいるようだった。友達が選んだのか、はたまたなまえが選んだのかわからないけど、この店にはなまえが大好きなもちもちチーズもちがあるから、恐らく後者だろう。オレと行ったときはおかわりまでしてたからよほど好きなんだなっていうのを鮮明に覚えている。メニュー名までばっちりだ。もちもちチーズもち。チーズもちでいいだろ、と呟いたら「もちもちの部分が魅力的なんでしょうが!」と怒られたのも、覚えてる。

 相変わらずこういう店が好きなんだなと思いながら店内に足を踏み入れるとすかさず店員が寄ってきて何名かと尋ねてきたので、片手をぴらぴらと振って「ツレ回収しに来ただけなんで」とそれ以上の言葉を制した。
 事前に伝えられていたとおりに、店に入ってまっすぐ進んだ突き当りを右に曲がった、左側・手前から2つ目の個室。半開きの格子戸に手を掛ける。

「あーあ。出来上がってんねえ」
「わ、ホンモノの蘭くんだ…こ、コンバンワ〜……」
「はいコンバンワ。ソレ、引き取りにきました」
「らんちゃんはかえって!」

 オレの顔を見たときは一瞬嬉しそうな顔したくせに、口を開いたかと思えばそんな心無い言葉をかける素直じゃないカノジョは、わざわざ隣に座らせたのであろう友達ちゃんの腕にべったりと体を寄せてこちらを睨みつけている。鼻のてっぺんから耳の淵まで真っ赤だ。
 なまえは酒自体は好きだけどいかんせん弱かった。本人もその自覚があるから、普段はこんなになるまでは飲まないようにちゃんとコントールする子だってのに、ここまで酔っぱらったのを見たのは久しぶりだ。前回は、確かなまえが誕生日に友達にもらったイチゴの果実酒をウチで飲んだときだったか。牛乳で割って「すごい!イチゴミルクみたい!これなら大丈夫かも!」とまあまあなペースで楽しくグラスを呷り、オマエ自身がイチゴみたいだと笑いたくなるほど顔を真っ赤にして盛大に酔っ払った。オレ的には甘ったるいそれは好んで飲めたものではなかったが、アルコールでぽやぽやになったなまえがいつもよりもずうっと素直で遠慮なく甘えてくるのがそれはそれは可愛くて、竜胆を追い出してまで及んだセックスは本当に最高だった。酔いが覚めたなまえがほぼ何も覚えていなかったのが唯一残念な点ではあったけど。

「蘭くん、ホンットごめんね…」
「エミは謝らなくていいからぁ!」

 …なまえの痴態を思い出している場合ではなかった。
 バツが悪そうに両手を合わせているこの女が、オレにヘルプを求めてきた友達ちゃんか。会うのは今日が初めてだったが、以前にもこの女のことを何度か見たことがある。なまえのケータイの中だったか、なまえのプリクラの中だったか、クラブの喧噪の中だったか。謝るくらいならなまえがこうなる前に止めとけよと少し腹が立たないでもなかったが、なまえの口からよくその名前が出たりするところからして、恐らく仲がいいんだろうから、あまり無下にするワケにもいかない。テキトーな愛想笑いを浮かべて、取り合えず向かいの席に腰を下ろした。

「帰んぞぉ、なまえちゃん」
「イヤ。かえらない。まだエミとのむ」
「エミチャンももう帰るってよ」
「えっ」
「う、ウン…アタシももうすぐ彼氏迎えに来るし〜…」
「そうなの…?」
「だからなまえも蘭くんと帰んな、ね?」

 エミチャンが本当に帰る気があったどうかは知らない。オレが勝手に言ったことだったが、うまいこと話を合わせてくれたことには感謝する。さすがに相方が帰ると言えばなまえも大人しく帰路につくことだろう。もうとっととこの酔っ払いを回収して、だっこしながらぬくぬくと寝たいんで、オレは。でもなまえは明らかに意気消沈したような顔をしながら、眉を下げている。それから「じゃあ一人でのむ」などと言いやがった。

「なあ、ひとりで飲んでたのしー?」
「蘭ちゃんと帰るよりはマシ」
「あ?」

 なまえと話すときは極力出さないように努めている声のトーンが、つい出てしまう。なまえは基本ビビりだから、オレが連中相手にするときみたいな、少し低い声をだすだけでびくっとして肩を竦める。でも別にオレはこの女の怯える顔が見たいわけじゃない。そりゃあ不安そうに瞳を揺らす様は扇情的ではあるから、場合によっては、そそる場面もあるけれど。
 だけどいま肩を竦めたのはエミチャンの方だけで、酒のはいったなまえはそれどころじゃあ動じない。少しの酒で素直にもなるが、同時に気も大きくなるのだ、厄介なことに。「怒ったんなら帰ればいいじゃん」と口を尖らせてる女を見ながら片肘をついて、人差し指を米神にあてた。世話の焼けるオネーサンだこと。
 オマエじゃなきゃとっくに置いて帰ってるっつーかそもそもここまで迎えに来てねえんだけど?と凄んでやりたい気分だったが、そんなことしたらもうこの場に根っこを生やして梃でも動かなくなってしまいそうなので、ぐっと堪えて、皿の上に残ってたきゅうりの漬物をつまんだ。うえッ、しょっぱ。

「もーなんでなまえちゃんそんな荒れてんの?オレなんかした?」
「自分の胸に手ぇ当ててかんがえてみれば!」
「えぇ…りょーかァい」

 言われた通りに右手を心臓の上に置いてうーんと唸ってみる。けど。やっぱり特に思い当たる節はない。ヒントは?と冗談めかして聞いてみたらなまえは無言でキッ!と目尻を釣り上げたので大人しく口を噤んだ。
 一方その頃エミチャンは、オレとなまえとの間で板挟みになったままでさすがに耐え切れなくなったのかお手洗いに行くと言って席を立ってしまった。なまえがああ!と悲痛な声をあげてエミチャンに追いすがるみたいに伸ばした手が所在なく宙ぶらりんになってるのが情けなくて、笑いそうになる。早くその手をオレに伸ばせばいいのに。

「ん〜…暫く連絡してなかったから?」
「別にそんなの…なくてもいいし」
「え〜そう?じゃあ…あーあれ?この前なまえちゃんのために買ってたケーキ竜胆にあげちゃったこと?」
「えっ、そうなの?」
「ウン。竜胆が食いたいって言うからあげちった。また今度買ってきてあげんね」
「うん!ありがと…て、ち、ちがう!そんなんじゃない!」
「はは!」

 ほぉんとバカでカワイイわと思いながら、丁度近くを通った店員をつかまえて締めで、と財布から取り出したカードを渡した。帰らないというのなら、オーダーを止めてしまえばいいだけのことだ。

「あ!まだデザートたのんでなかったのに!」
「うんうん、帰りにコンビニ寄って帰ろうな。アイス買ってあげる」
「自分で買えるし。てか帰らないし!」

 買えるだの帰らないだのややこしい。それにしても、前はあんなに心の内全て見せてんじゃないかと思うほどに素直だったのに、なんで今日はこんなに聞き分けが悪いかなあと思いつつ、レシートへのサインを求めてきた店員に対応する。

「なまえちゃんさあ」
「……なに」
「オレも気が長ぇほうじゃないんだわ」
「……」
「次帰らないって言ったら抱えてでも連れてくから。それがイヤなら自分の足で立ちな」
「な…いじわる!」
「なんとでも言え〜」

 なまえはああだこうだと怒った子犬のようにきゃんきゃんと吠え立てていたけれど、それには一切反応せずに頬杖をついたままじいとその様子を観察していれば、なまえの威勢は段々と萎んでゆき、果てにはちいさくうんうんと低く唸りだした。そうして、漸く諦めたようにゆっくり立ち上がる。オレの忠告が決して口から出まかせなどでないことを、なまえはよおく知っているのだ。

「ン、いいこ。じゃあ帰ろうな」
「くそぉ……」

 覚束ない足元で椅子の脚か何かに躓いたように体をよろめかせるのを咄嗟に腕を掴んで阻止してやりつつ、空いた方の手になまえの鞄を持ち、いざ・出発…する直前でお手洗いから戻ってきたエミチャンと鉢合わせする。支払い終わってるから適当に彼氏と帰ってね〜と手を振ると、オレにお礼をしつつ「なまえ!ファイト!」となまえの背中をバシッと叩いた。なまえは力なく頷いてた。

・・・

 オレの難航はまだ続く。
 かわいこちゃんを店から引きずり出してすぐにタクシーを捕まえるつもりだったが、タクシーが走ってくるのを待っている間に「もう少し外の空気が吸いたい!」と言ってなまえがひとりで勝手に歩き出してしまったので、オレはその後をついていく他ない。

 大通りから外れたほとんど人通りのない路地に入り込んだなまえは、たぶん自分がどこに進んでいるかもわかっていない。寒空の下オレの少し前をよたよたふらふらと歩く様はゾンビのようで、一体この酒よわよわ女はどれくらい飲んだのかとまるっこい後頭部に向かって投げかけると「ビールと梅酒2杯とぉ、あとカシスウーロン!」となぜか誇らしげに拳を掲げた。

「雑魚ぉ」
「雑魚って言うな!」

 心の中で呟くつもりだったが、つい口に出してしまった。小さぁな声ではあったけれどもそんな囁きすら酔っ払いの耳に届いてしまうほど静かな夜の中、わざわざ振り返って俺の元までやって来たなまえはオレの肩に酔っ払いパンチをかましてぷりぷりと怒っていた。雑魚ぉ。
 でも苦くてまずいと言っていたビール飲めたのすごいじゃんと頭を撫でてやると、一瞬嬉しそうな顔をしちゃうちょろいところがオレは好き。すぐに我に返って、危うく流されかけたことに気付いたなまえにぺちんと手を振り払われてしまったから、それからオレの両手はさびしくポケットの中だ。

「ね〜なまえちゃん手ぇ繋ごうよ」
「つながない」
「そんなふらふらしてんのに?」
「してない」
「ホントかな〜?」
「ほんとです!」

 では確認させてもらおうか。なまえゾンビの前に回り込んで「じゃあなまえサン、この白線の上をまぁっすぐ歩いて下さ〜い」と路側帯を指さすと「ふん。余裕だし」と鼻の穴を広げたなまえが線の上で静止し、そして一歩踏み出す。

「ウン、一歩目から白線はみ出てますねえ大人しく繋がれろ〜」
「やだってばぁ、さわんないで!」

 結果など見るまでもなかったが、案の定踏み出された右足は大きく線からはみ出て、オレは笑い声をあげる。なまえちゃん、アウト〜。罰則は蘭ちゃんとおててを繋ぐ刑です、とやだやだと首を振るなまえの左手を右手でがっちりと拘束する。もちろん、指までしっかりと。「蘭ちゃんの手つめたい!」と文句を言われても知ったこっちゃないね。

「つーかなまえちゃん薄着じゃない?さむいでしょ」
「うーん…ちょっとさむい。でもへーき、お酒のんでるし」
「あれま、急に素直になったねえ?」
「うるさい」

 寒いならもう大人しくタクシー乗って帰ろうよとこの短時間で何回口にしたかわからない提案を再度してみるけど、まぁだオレだけ帰ればいいなんて言ってやがる。しょうがねえなと一旦繋いでいた手を離すと「あっ」なんてなまえが声を漏らす。ハイハイ、あとでまた繋いであげますからねえと宥めつつ(ものすごい勢いで否定されたが)、スウェットの上に着ていたダウンジャケットをなまえの肩にかけてやった。「平気だって言ってるのに!」と抵抗してくるけど、着ないならもう帰るよと言うとぐっと押し黙って大人しくなる。
 そんなに帰りたくないのか、それとも別の理由があるのか。そもそもなまえちゃんが荒れていた理由をちゃんと聞けてねえな。大事なことを忘れてたわと思いながらまた手を繋ぎなおそうとすると、オレのダウンに包まれたなまえが「蘭ちゃんのにおい…」だなどとふくふくと笑いながら顔を埋めていて、かなりイラッとした。主に、下半身が。

「…なあなまえちゃん」
「あっ、」
「オレ、マジでなにしちゃったの?」
「なにって…別に、何もしてないんじゃない」
「じゃあなんでそんな怒ってんの。オレなまえちゃんと仲良くしてえんだけど」
「私はしたくない!」

 オレが声をかけるとさっきまでの笑みはぱっと消え去って、また可愛くないなまえちゃんに戻ってしまう。拗ねたようにオレを置いてひとりですたすたと歩きだすけれど、体の中のアルコールがいまだ逃走の邪魔をしているらしい。覚束ない足元はすぐにもつれて、ぐらりと体が傾くのを慌てて後ろから抱えるみたいにして阻止した。

「も、ほっといてよぉ…」
「だァから、ほっとけねーつってんだろうが」

 なるべくなまえの意志を尊重してやろうとここまで付き合ってきたけど、こんなんじゃ埒が明かない。このままだとお天道様が顔出しちまう。オレはアイツがあんまし好きじゃないから、鉢合わせる前に帰りたい。
 俯いたままのなまえにガキに言い聞かせるみたいに「アイス買って、はやくおうち帰ろーな?」と甘やかすような声色で囁いて、また指を絡める。なまえは何も言わないし無抵抗だったからようやく観念したのだと、タクシーを捕まえるべく大通りの方に向かおうとしたときだった。

「……いで」
「ん?」
「やさしくしないで!」
「あ?」

 オレらだけしかいない路地になまえの大きな声が響き渡った。近所迷惑でしょうがと思いながら振り向いて、ぎょっとする。繋がれたままの手の先、目にいっぱい涙をためたなまえが怒った表情ではなく自嘲するみたいな笑みを浮かべてこちらを見上げていた。泣くほど嫌なのかと思うのと同時に、でもなんで笑ってんの?と混乱しつつもはらはらとこぼれ落ちていく涙を拭ってやろうと空いてるほうの手を伸ばしてみたけども、べしっとはたき落とされた。ま、そんな気はしていたけども。

「しらなかったの」
「…何を?」
「私、ばかだから……自分がセフレだなんて、思ってもみなかった」
「は?なんて?」
「セフレなんでしょ、私」

 藪から棒に、なァにを言い出すんだこの女は。ほんの少しのアルコールで脳みそひたひたになってんのか?
 眉間にぎゅっと力を込めたままオレを見上げて泣いているなまえを、思わずぽかんと口を開けたまま凝視してしまった。どっからそんな発想に行き着いたのか見当もつかないが、ここまでの荒れようの原因がようやく分かった気がした。あの友達にでも吹き込まれたのだろうか。

 聞きたいことは山程あったが、まずこのべしょべしょの顔をどうにかしねえと涙で顔パリパリになっちまうぞ〜とダメ元でもう一度手を伸してみるも、案の定払いのけられてなまえは自分で乱雑に涙を拭った。オレのダウンの袖で。
 …オマエだから許される事がたくさんあるのだと、この女にいつか知らしめてやらないといけない。

「なんで急にそんなこと言い出すんだよ」
「…この前クラブ行ったら、知らない女のひとに絡まれて、セフレの分際で調子に乗るなって怒られた。彼女の自分に迷惑だから蘭に近づくなって」
「あァ…?どんな女だった?」
「えと……倖田來未みたいな、派手な感じだった」
「あ〜」

 思い当たるヤツがなんとなくいる。名前も、倖田來未に似ていたかも覚えていないが、猫撫で声でやたらと絡みついてくる香水がキツイ女。たぶんアイツだ、聞き分けが悪そうだったから印象に残ってる。
 クラブで会うたびにずっとオレに纏わりついてきて、好きだの一緒にいたいだの自分の全部をあげるだの言ってきたけど、オレは一回もまともに構った覚えはないし、変に期待を持たせるような素振りだってしたつもりもないのに、よくもまあいけしゃあしゃあと彼女だなんて自称出来るもんだな。恥ずかしくねえのか。オレが恥ずかしいわ。

 面倒なことになった。誤解を解くのは上手くないんだよなァ、オレ。そういうのっていつも竜胆がなんとかしてくれるし、それか誤解を解くことなく終わらせるから。でもなまえ相手だとそういうわけにもいかない。つーかよく知らねえヤツの言葉なんか鵜呑みにしてんじゃねえよ。あとオレに黙ってクラブも行くな。

 仕方ない。意を決して鼻から長く細い息を吐きだしてから、なまえに近づこうとすると、威嚇するみたいにキッと眉を吊り上げてたなまえが後ずさる。一歩踏み出すと、一歩遠くなる。その繰り返し。磁石の同じ極同士かぁ?オレたちはよォ。

「勝手に自分が蘭ちゃんの彼女だって思っちゃってたけど…でもその女の人に言われて、私ってセフレなのかもっておもった」
「へえ、その心は?」

 ずびっと鼻を啜ったなまえが右手をオレの眼前に差し出して、まず人差し指を立てた。
「…いち、ちゃんと告白されてない」
 次に中指を立てる。
「に、会うとすぐえっちする」
 最後に薬指、前にオレがプレゼントした指輪がちゃっかり嵌っていた。
「さん、自分が彼女だって言ってる女の子がいる!」
 これらの理由からなまえは自分がオレのセフレなのだと主張してみせた。

 ふうむ、なるほど。なまえの言い分はわかった。今度はオレが回答する番だった。
 びしっと立ってられている指のうち、まず人差し指をつまんだ。
「いち、言葉なんてなくてもなまえちゃんならわかってくれると思ってたけど、ちゃんとしてほしいってんなら、する」
 人差し指を折りたたんで、次に中指の先をつまんだ。
「に、セックスしたいのはなまえちゃんのことが好きだからに決まってんだろぉ。でもイヤなら控えるよ」
 中指を畳んだときに「べつにイヤってわけじゃ…」と小さな声が聞こえて吹き出しそうになったけど、グッと堪えた。最後の薬指を折り曲げたあと、こぶし全体を手のひらで包むみたいにして握った。なまえがびっくりしたみたいに目を見開く。
「さん、その自称カノジョに迎えに来てって言われても、どれだけ大金積まれようがオレは迎えに行かない。ダウンだって貸さねえし、泣いてても放っておく。この意味、賢いなまえちゃんならわかるよな?」
 きゅっと唇を噛みしめたなまえがようやくすこしだけ安心したような顔をするけど、まだ眉間に寄った皺が不安を拭いきれないと主張しているような気もする。もう一押しか。

「…あのひとは、セフレでもない?」
「ない。会話だってまともにした覚えない」
「他にセフレも、彼女もいない?私だけ?」
「いるわけないだろ。なまえちゃんだけだよ」
「ほんとに?」
「あ〜…ウン、わかった」
「え?」
「オレ、いまからなまえちゃんに告るから。よォ〜く聞いとけ」
「え?!」

 好きだのなんだのなんてのは何回も口に出したことはあるけど、ちゃんとした告白するのって初めてだわ。まあなまえちゃんにならオレの告白童貞捧げてやってもいいかな。オレもなまえちゃんのハジメテ貰ったし。

 びっくりしたのか距離を取ろうとするなまえの腰を抱き寄せて、片手を握る。すこしの戸惑いと期待に目を輝かせたなまえに見上げられると、なんともたまらない気持ちになった。

「なまえちゃんのためなら寝る前に呼びされたとしてもどこにでも会いに行くし、顔見た瞬間にすぐ帰れって言われても絶対置いていかないし、どこの馬の骨とも知らんヤツの言葉を鵜呑みにするどうしようもないおばかさんだとしても許してあげる」
「わるぐちだ…」
「なまえちゃんが好き。改めて、オレの彼女になってください」

 反吐が出そうだった。竜胆が見たら腹抱えて爆笑して、下手したらそのまま笑い死ぬかもしれない。それくらいオレらしくない言葉と、声と、しぐさでもってなまえちゃんの求める告白をしてやった。心の中のオレは上を向き、舌をだらんと垂らして肩をすくませ、両手を広げて、うええと唸っている。伝えた言葉に嘘偽りはないけれど、正直悪寒が止まらない。
 だけど、オレにとっては死に至るような行動でも、なまえちゃんには効果覿面だったようだ。くるんとカールしたまつげをぱしぱしとまたたかせ、顔を真っ赤にさせている。アルコールのせいではなく、オレの言葉で燃えるような赤色に染めたのだ。ホントちょろくてかわいいなあ、と思いながらなまえちゃんの片手を持ち上げて、指先にちゅっとかわいい音を立てて口づけのおまけまでつけてやれば、ちいさい口が開いてわあ、と感嘆の声があがる。もうすっかりなまえから不安や疑念の類は消え去ったようだった。

「どーお?お気に召した?」
「え〜すごおい、蘭ちゃんかっこいい!似合わないけど」
「そりゃドーモ。で、なまえちゃんの返事は?」
「え?」
「告白したんだから、ちゃんと返事しねえと」
「あそっか」

 たしかに!と手を打ったなまえがオレの肩に手をかけて一生懸命背伸びをする。恐らくなまえがしたいであろうことをさせてやるために腰を曲げてやると、なまえの両手が肩から移動してオレの頬を包み込む。ガキみてえにあったかい手が何回かそこを撫でたかと思うと、ゆっくり顔が近づいて来てオレの唇に自分のを押し当ててきた。久しぶりのキスはすこし酒臭かった。

「しょおがないから、蘭と付き合ったげる」
「急に年上ぶんなよおばかちゃん」

 オレの名前を呼び捨てにするときはなまえが年上ぶりたい時だ。しかし残念ながら、オレはなまえのことを年上のお姉さんだなんて思ったことはいまだかつて一度もないし、きっとこの先もない。オレは年齢のことを気にしたことはないが、なまえは年下のオレに翻弄されるのが心底悔しいのだ。
 まァだけど、いまは大人しく年上ぶりたい女の腕の中に納まってやろうか。オレの首に両腕を回したなまえの腰をぐっと抱きよせてやると「ごめんね」と耳元でしおらしい声が聞こえた。なまえちゃんの機嫌が直ったんならそれでいーよと言うと、笑っているのか少し熱い息が耳の後ろのあたりを擽った。

「蘭ちゃんすき。来てくれて、ほんとは嬉しかった」
「ハイハイ、どーいたしまして」

 そんなことよりもっかいちょーだい、となまえが喜びそうなガキみてえな安っぽいオネダリをすると、案の定嬉しそうに顔を綻ばせたなまえに、ガキみてえな下手くそなキスをもらった。キスっつーか、スタンプされたみたいな。

「ねえ蘭ちゃん」
「ン〜?」

 なまえがゴムを引っ張ったせいでほどけた髪が肩から滑り落ちて来る。それをくるくると指に巻きつけながらオレの胸に頬を寄せた女が、なにか言いたげにもごもごと口籠っているようだった。その唇は拗ねたように尖っている。

「…蘭ちゃんの周りのコにちゃんと言っておいてよ」
「オレのカワイイ彼女はなまえちゃんだけですって?」
「そこまでは言ってないけど……いや、うん……そう言っておいて」
「あっは!」

 思わず吹き出してしまうと「笑わないで!」と髪を強めに引っ張られたけど、オレの笑みはそれくらいじゃあ消えやしない。そんなカワイイこと考えてたんだな。
 まあでも、なまえがそうしてほしいというのならなにか手を打たなきゃならねーかな。少なくともあの女にはお灸を据えるかと頭の片隅で考えながら、両手でなまえの顔を包んでほっぺたをもにもにして感触を楽しむ。もちもちチーズもちよりなまえのがもちもちだろ絶対。そんでオレが食いたいのも断然コッチだ。

「てかなまえちゃんさァ、海苔食っただろ」
「え、海苔…?あ、〆にお茶漬け食べた」
「あそ。ついてるよ」
「エッ!」

 クワッ!と目を見開いたあと、アッ!と開いてた口をグッ!と閉じて、もごもごとしてる様子からして、舌先で一生懸命前歯のあたりをなぞっている。あーあ、ホント、コイツ。

「こっち向いて。取れてるか見たげる」
「ど、どう、取れて……ンッ!」

 バカ正直にこちらを向いてイーと口を横に広げたところに、すかさず舌をいれた。
 嘘だ。海苔なんてついてない。なまえが〆にお茶漬けをよく注文するのを知ってたから、言ってみただけ。こんだけなまえに尽くして頑張ったのにどうせ今日はセックス出来ねえんだからこれくらいしたっていいだろと誰にするわけでもない言い訳を心の中でしながら、オレにしがみついてはふはふと頑張って酸素を取り込んでいるなまえを見つめた。

「きゅ、急になに…!」
「バーカ」
「へ?」
「海苔なんてついてねーよ」
「っえ…あ、コラ!らぁん!」

 うそつき!とオレを非難してますけど自分だってちゃっかりオレのにあわせて舌動かしてたじゃんなァ。言わないでやるけどさ。
 がみがみ言うなまえをあやすみたいにぎゅうと体全体を使って抱き締めていると腕の中から「アイスいっぱい買ってもらうから!」とくぐもった声が聞こえた。はいはい、好きなだけ買ってやるよオネーサン。

 こうしてなんやかんやありつつも、ずっと不揃いだったオレたちの足並みはようやく揃って、今度こそ仲良く手を繋ぎながらふたり並んで大通りへ歩き出した。もう正直オレはなまえを抱き枕にとっとと眠りに就きたいところだったが、謎に元気を取り戻したなまえは「アイスボックスにスミノフいれよ!」なんて隣で跳ねている。まァ楽しそうだしいいか。
 なにはともあれ、これで愛しのへべれけ女の回収は完了だ。オレ、どうもお疲れさまでした。


20210930 似非谷蘭
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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
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