なまえと付き合いだして暫く経つけど、いまだに恋人らしいことはしてない…というか、出来てない。友達の期間が長かったからなのか、そういうことしようとするとなまえがやたら恥ずかしがる。どれくらい進展がないかと言うと、頑張って手を繋げたレベル。それも「手汗やばいから無理!ごめん!」とソッコーで振り払われたくらいだ。まだ指だって絡められてないのに。だけどオレもオレで、いまいち押しきれない。なんかがっついてるみたいって思われたらだせえし、なまえが嫌がるなら無理強いはしたくないし、きっといつかなまえも慣れてきて大丈夫になるだろうから、それまで待とうって思ってるうちにあっという間に時が経って、いまとなっては完全に踏み出すタイミングを失っていた。そんでなまえは相変わらず慣れないというか、警戒心が強いというか。

「はあ…」

 カランとプラスチックのスプーンをプレートの上に放って、咀嚼していた最後の一口をヤクルトと一緒に飲み込んだ。今日はあんまし味がしなかったな、と思う。でもそれは決してここの店員が手を抜いたとか、味付けとかの問題じゃない。たぶん、オレが食べることより考えることの方に脳のリソースを使っていたからだ。…リソースってこういう使い方で合ってたっけ。

「春はアケボノ…ヨーヨー白くなりゆくヤマギワ…」
「急になに言ってんだ」
「ケンチン知らねーだろ、マクラノソーシ」
「なんか聞いたことあんな。マイキーは知ってんのかよ」
「知らね。昨日このマイキー様を差し置いてなまえが一生懸命暗記してた憎いヤツだよ」
「へえ?アイツってそんな勉強熱心だったか?」
「んーなんか最近になって頑張ってる気ぃするけど…にしたってオレより勉強を取るかね?」
「そりゃあ、オレらと違ってその内受験とか待ってんだからよ。仕方ねーんじゃねえの?」
「は〜受験ねぇ」

 せっかくオレの部屋で恋人水いらずだってのに、なまえときたらソファに座るなりカバンから教科書を引っ張り出して、俺には目もくれずつまんねえ文字の羅列と睨めっこして、ずうっとマクラノソーシの暗記をしてた。そんな昔のヤツの書いたもん覚えるののなにがたのしーんだよとむくれてみても、なまえの決意は固かった。私は明日の授業までにこれを完璧に暗記しないといけないのだ、と。それから、絶対に負けられないのだとも。
 なにと勝負してんのかオレにはわかんなかったけど、あまりの気迫にオレは大人しく口を噤んだ。それならばせめて、とそっと身を寄せようとしたけど服が触れ合うくらいまで距離を縮めるとなまえが体を強張らせるから、もうそれ以上は近づけなくて、結局拳ひとつ分間を開けてなまえがくれた猫型ロボットの焼き印入りのどら焼きを齧るしかなかった。本当は隙間なくぴったりくっついて、なんなら抱き締めてやりたいところだったけど、手を伸ばしかけてはひっこめてを繰り返すだけで、結局出来なかった。いつからオレはこんな情けない男になったんだろうか。こんなところシンイチローに見られたら腹抱えて笑い転げていたに違いない。
 …別に、急いでるわけでもないけど。たとえそういう恋人らしい行為がなかったとしても、オレは変わらずなまえが好きだし、たぶん、なまえも同じ気持ちでいてくれてると思う。ただやっぱり、健全な男子としては、進展したい思いが燻る。正直、己の意志だけで全部進めていいのなら、オレはなまえに死ぬほどキスしたい。苦しいって言われても離したくないし、いやだって言われてもやめたくない。手汗がどれだけやばかろうと指と指を絡めて繋いでいたいし、ずーっと唇をくっつけて好きだって言いたい。妄想の中のオレはサカリのついたサルみたいだった。
 なんだか自分が情けなくなってきた。ソファにふんぞり返って真上の電球をまばたきもせずにじいと見ていたら、段々目がチカチカして、余計虚しい気分になって目を瞑る。まぶたの裏まで点滅してら。

「ユユシキ事態だケンチン…」
「あ?」
「オレ、いつなまえとキスできんのかな」
「なんだ、まだしてねーのかよ」
「してない。めっちゃしたい」
「いつだっていいんじゃねえの?付き合ってんだからよ」
「んーまあそうなんだけどさあ…でもやたら恥ずかしがるんだもん、アイツ」

 付き合う前のほうが距離が近かったすらありえそう。じゃあ元の友達に戻りますかっていったらゼッテーごめんだ。なまえがオレのモンじゃなくなるとか無理。でもなまえの態度がよそよそしくなったのは、それはそれでちょっと凹みもする。てかなんで付き合ったのによそよそしくなんだよ、おかしいだろ。空になったコップの中身を意味もなくストローで吸い上げると行儀がわりいと怒られた。

「オトメゴコロがわからん」
「それは間違いねえ」

 笑いながら席を立ったケンチンは自分のコップとオレのコップを手にもってドリンクバーコーナーに向かった。編み込んだ金色の髪が揺れるのを見ながら、エマのことを想う。自分がオトメゴコロを理解できてないのは百も承知だったけど、それはケンチンも同じだ。いくら喧嘩が出来てもオレたちには女のコの考えることがわからない。

「お!コケコーラ!さすがケンチン!」
「なぁにがコケコーラだ」

 目の前に置かれたコップの中には苔みたいな色した液体が揺れている。コーラとメロンソーダを混ぜたいわゆるコケコーラだ。これ、オレの最近のお気に入り。コーラの甘味のあとにメロンソーダの香料がふわっと香る逸品だ。パーはコーラとメロンソーダの割合が5:5が一番美味いって言ってたけどオレは7:3がベストだと思ってる。これは譲れねぇ。主役はあくまでコーラであって、メロンソーダはちょっと風味がつくくらいでいいんだよ。

「さっきの話に戻るけどよぉ、やっぱ多少強引でもマイキーから仕掛けるべきなんじゃねえの」
「ウン……まあそうだよなあ」
「オマエが悩んでるみたいになまえだって悩んでるかもしれねぇしな」
「は?なんで?」
「そりゃ付き合ってんのに手出されなかったら不安になるんじゃねーか?」
「確かに……ケンチンってもしかして女だったりする?」
「こんな女がいて堪るかよ」

 なまえのペースに足並み合わせて辛抱強く待つことが大事だと思っていたけど、もしかすると逆にその行動がなまえを不安にさせてるかもなんて考えたこともなかった。やっぱケンチンってすげえ。
 思い立ったら吉日だ。今日、オレはなまえにキスをする。ちょっと強引に、いこうと思う。たぶんなまえは初めてのキスだからビビってるに違いないんだ。一回しちまえば、ああこんなもんかと思うかもしれないし。
 ケータイを取り出してすぐに今日会える?ってなまえにメールを送ると、数分と経たないうちに『はあ!』と勢いのある3文字が載せられた返信が来た。これは決してデケェため息ではなく、"はい!"の打ち間違えだと思う。授業中だろうから入力ミスを直す余裕がなかったんだろう。はあ!て。しかもなんで敬語なんだよ。かわいい。メールひとつとってもこんな口元が綻びそうになることがあるだろうか。オレはメチャクチャある。

「あーかわいい」
「つかよぉ、オレはここに惚気聞きに来たんじゃねえんだけど」
「ああ、なんだっけ。沙羅曼蛇のことだっけ?もーめんどいからとっとと潰しちまおうよ、構ってる暇ねえわ」
「おー。んじゃ今から行くか。場地たちに声かけるか?」
「いらんいらん。オレらだけでジューブンだろ」
「だな」

 ケンチンがまとめて会計してくれてる間になまえにまたあとで連絡する、と返すと速攻で『ん!』と返事が来た。ん!てなんだよ。クソ、いちいちかわいいな。


 学校までなまえを迎えに行こうと思っていたオレの計画が破綻した。沙羅曼蛇のヤツらが乃兎夢の奴らと結託していたせいだ。沙羅曼蛇だけだったらケンチンとオレならカップラーメンが伸びる間もないくらいすぐに片せただろうが、乃兎夢が加わるとなるとちょいと面倒だった。どいつもこいつも弱っちいけど、なんせ人数が多いからさぁ。
 ほら、あの国語の教科書に載ってたさ、ちっせえ魚が集まってデケェ魚になるっていうあれみたいな…あ〜思い出せねえ!って唸ってたら「スイミーだろ!」って2人まとめて蹴り飛ばしたケンチンが教えてくれた。そうそれ!スイミーね!ものすごいすっきりした。気分がよくなったから足元に転がってたヤツの足を抱えてその場でぐるぐるとぶん回した。前に爆裂お父さんやってんの見てから1回は試してみたかったんだよね、ジャイアントスイング。ケンチンが歓声をあげたのが聞こえて、オレもテンション上がって楽しくなってからは正直あんまり覚えてねえけど、気付いたらオレら以外に立ってるヤツはいなかった。まあオマエらはスイミーにはなれなかったってことでね。
 弱っちい相手にしてはなかなかスカッとした気分だったが、ただ、沙羅曼蛇と乃兎夢の奴らの人間カーペットの上を歩く頃には、なまえの下校時間はとっくのとうに過ぎてしまっていた。まあ今日集会やるし、その時でいいか。エマと一緒に集会おいでとメッセージを送ると、今度は"!"とだけが返ってきた。段々と文字数が減ってきてる。次は空メかもしんねえなと思った。


「…おそくね?」

 集会終わってとっとと解散したってのになかなかなまえが来ない。どこにいんのって電話でもかけようと手元のケータイに視線を落としたときだった。
 マイキーくん、と聞き慣れない声に呼ばれたので顔をあげると知らねー女がにっこり笑って立っていた。ミルクティー色の髪は見事にくるんくるんに巻かれていて、オレでもわかるくらい見るからに化粧もばっちりだ。まつ毛なんてそのまま顔に突き刺さりそうなくらい上を向いてるし、人でも食った後みたいに唇も赤い。誰かの彼女か?なんて思って見ていると、そいつはにこっと笑顔を浮かべてオレの目の前にしゃがみこんだ。短いスカートの中を見せようとしてるみたいに少しだけ足を開いていて、自然と眉間に皺が寄る。なにコイツ、痴女かよ。

「…誰?」
「あたし、参番隊のコージの彼女のミワって言います、よろしくね」
「ああ、ウン。まあオレによろしくされても……コージ?とお幸せに」

 コージって誰だか知らねえけど。そんなヤツいたっけ、と一応記憶を辿ってみたけど全然覚えがなかった。てかウチのメンバーのヤツならともかく、そのカノジョにまで挨拶しろなんて言ったことねえんだけどな。紹介されるとかはあったけど。反応に困る。

「それで、その、マイキーくん……実は、相談があるんだけど」
「相談?オレに?」
「うん、マイキーくんにしか言えなくて…」

 いじらしく眉を下げた女は「隣、いいかな?」と言いながらオレが何か答えるより早く横に座ってきた。初対面のクセにやたらと近い距離まで詰めてきて若干げんなりしたけど、女のコだしまあ多めに見てやるべきか。強いバニラの香りに鼻をつまみたくなるのをぐっと堪えながら、オレがこの距離になりたいのは違うコなんだけどなあ、とやるせない気持ちになる。

「実は、コージに乱暴されてて…」
「乱暴?」
「うん…イヤっていっても無理やりキスしたり、えっちしたりしてきて…」

 右の眉が勝手にぴくりと動いた。もしその話が本当ならそのコージとかいうヤツを許しちゃおけねーけど、それ、オレにする話か。各カップルの面倒まで見る気ねえしこちとらまだ自分の彼女とキスすら出来てねえんだけど。
 まあ、とりあえず参番隊のヤツの問題はパーに話通すべきだろうな、アイツなら話ちゃんと聞いてくれるだろうし。俯いて泣いてるみたいに鼻をすする女になんて言おうか迷っていると「マイキーくん、ごめんなさい、あたし……」なんて言いながら肩にもたれ掛かってきた。いやさすがに、もう勘弁してくれ。素性の知らない女に貸してやれる肩はない。申し訳ないけど体を離そうと細い肩に手を置いたとき、丁度なまえが石段を上がってきた。なまえと目が合う。境内の灯りに照らされたなまえの表情が硬くなるのが見て取れた。

「なまえ、」
「ごめんマイキー遅れちゃった…って、あれ…」
「あ……なまえ」
「…え、ミワちゃん?」

 ついさっきまで甘ったるい響きをしていた女の声が、なまえが来た途端に毒を一滴落としたみたいに棘々しいものになった気がした。オレの思い違いかとも思ったけど、さっとオレから離れて髪を掻き上げている女はさっきまですんすんと鼻を鳴らして悲しんでいたヤツと同一人物のようには見えないほどあっけらかんとしていて、それでいてどこか居心地悪そうな顔しているから、気のせいじゃなかったのかもしれない。

「ああっと、ごめん、取り込み中だった?」
「ううん、なんでもないの。マイキーくん、この話はまた今度…」
「いや、その話はパーとしてくんない?」
「え?」
「正直、アイツに相談した方がいいと思う。オレより親身になってくれると思うしさ」
「……そう」

 舌打ちのひとつでも聞こえてそうなほど不機嫌そうな顔をしていた女の後ろ姿を見ながら肩を竦めた。明らかに低くなった声色に、まじで女の考えてることってよくわかんねえなと思いながら、オレと目が合った場所で固まったままのなまえの名前を呼ぶ。「なんか邪魔しちゃってごめんね…」と申し訳なさげにほっぺを掻きながら近寄ってくるなまえを隣に座らせた。

「さっきの女、知り合い?」
「知り合い…っていうか、うん、まあ、同クラの子」
「…なまえ?」
「あ、てか聞いたよ。また喧嘩したんだって〜?」
「あん?喧嘩じゃねえよ。成敗したの、セーバイ」
「それって喧嘩じゃないの?」
「ちがう」
「ふうん?まあでもほんと男の子って喧嘩ばっかりするね」

 そう言ってからすぐに「いや、男の子だけじゃないか」と苦笑いした。いつもと様子がちがうなっていうのはなんとなくわかってたけど、なまえは努めて普段通りにふるまおうとするから、オレは気付かないふりをする。来るの遅かったじゃんと肘で小突くと、エマと買い物してたら来るのが遅くなっちゃったと眉を下げて笑う。いつもの笑顔だ。

「何買ったん?」
「え〜ヒミツ」
「なんでだよ」
「女の子には色々あるの!あ、てか駅前に出来たクレープ屋行ってきたんだ!美味しかったよ、モチモチだった。今度マイキーも行く?」
「ウン、行く」
「やった、約束だかんね!」

 写メ撮ったから見てよ、となまえが少しだけ体を寄せてきたのでチャンスとばかりに、さりげなく、しかし最大限に距離を詰める。いままでで一番近いかもしれない。ディスプレイの中に納まるクレープを片手にしたなまえとエマの写真を眺めてはいるけど、正直気もそぞろだった。この距離、いけるんじゃないか?オレ、なまえとキスできるんじゃね?ヤバイ、緊張してきた。

「ちょっと、聞いてる?」
「え、あ、ゴメン、何?つーかその写メオレに送って」
「ええ?うん…わかった」

 なまえがカチカチとケータイを操作してオレに写メを送る準備をしている。何枚も撮ったようで、似たような写真を何度も行ったり来たりして確認しながら、ベストなものを選別してるみたいだった。オレが隣でドキドキしてるのも気付かずに、呑気なヤツめ。

「…あのさマイキー」
「ん?」
「あの、私ってさ、その…」
「うん」
「えっと……」
「なんだよ」
「……かっ、髪を、染めようかなって思うんだけど、何色がいいと思うかな?なんて…」
「今のままでいいよ」
「ちょっと、ちゃんと考えてよ〜」
「ちゃんと考えてる。染めてもかわいいと思うけど」
「えっ…あ、ありがとう…」

 なまえは恥ずかしそうに顔を伏せるけど、オレは顔が見たくてすぐに名前を呼ぶ。なに?と言いながら素直にこちらに顔を向けてくれることが、そんな当たり前のことにすら喜びを感じる。髪を耳にかけるしぐさが好き。なまえがちいさいのがコンプレックスだと言ってる耳も、オレはかわいいと思う。さっきの女ほどじゃないけど、ほどよくくるんとしたまつげも、桃みたいな色のつやつやした唇も、すぐ赤くなるほっぺたもかわいいと思う。ていうか、なんかコイツ可愛くなってねーか?いや前から可愛いケドさ。
 右手をなまえの腰に回して、距離を詰めると、ほどよく甘いいいにおいがして眩暈がするようだった。花のにおいに引き寄せられるミツバチみてえになまえに顔を近づける。なまえの顔が少し強張るのが見えたけど、たぶん、ここは、少し強引にでもオレがいくべき。だよな、ケンチン!

「なまえ……」
「……ヤッ!」
「ぶッ!」

 もうあと数センチ、吐く息すら感じれるんじゃないかと言うほどまで近づいたオレたちの唇は、居合の掛け声みたいな声を上げてオレの口をバッテンするみたいに両手で抑えたなまえによって、触れることは叶わなかった。何が起きたかわからなくて、一瞬頭の中がまっしろになる。これって、拒否されたのか。オレ、なまえに、キス、拒否られたってことなのか。

「ごっ……ごめん、ちがう、ごめんなさい、まだなの!」
「は!?まだってなんだよ!」
「と、とにかく…その…っ!ごめぇん!」
「あっちょ、なまえ!」

 なまえは半分泣きそうな顔で、いやたぶんもうほとんど泣きべそをかきながら、ものすごい勢いで逃げて行った。こんな暗い夜道なまえ一人で帰すわけにいかない、追いかけて家まで送ってやらなきゃと思うのに、体が石化したみたいにぴくりとも動かなかった。無敵のマイキーと称されるオレ・佐野万次郎は、思った以上に心にダメージを負っているらしかった。


「逃げられたんだけど?自分のカノジョに?」
「あの無敵のマイキーが!」
「自分の女に逃げられるたぁねェ!」
「腹いてーわまじで」
「ファミレスって赤飯ねえの?頼もうぜ」
「ねーよテメェらマジぶっ飛ばすぞ」

 口ではそう言っているが、正直いまのオレにさっきから目の前で揃って腹抱えて笑ってる双龍をぶっとばせるほどの力は湧かない。世界が色褪せて見える気すらした。
 何度思い返しても、考えても、拒まれた理由がわからない。ヤッ!ってなんだよ、トラウマだわもう。あれは咄嗟にでた意味を持たないものだったのか、もしくは「イヤ」の意味だったのか、はたまた別のものだったのか。その真意をオレに確かめる勇気はない。今のオレには、向かい側に座る男たちの膝をただただテーブルの下で蹴り続けることしかできなかった。

「マジ無理。しばらく『や』を発することを禁ずる」
「無茶言いやがる」
「全くだな、三ツ谷」
「日本語が『や』に頼りすぎなのかわざと使ってんのかどっちだテメェら」
「オレらがそんな薄情なことするわけないやんなあ?」
「せやんなあ、ドラケン」
「わかった。オレに本来の力が戻ってきた暁にはオマエらを完膚なきまでに叩きのめしてやるからな、覚えとけよ」
「せやかてマイキ〜」
「物騒やわ〜」

 楽しそうなクソ野郎どものムカつく声が入らないように両手で耳を塞ぐ。マジ首洗って待っとけよオマエら。目に物見せてやる!…まあ、オレの抜けてしまった力がいつ戻るかはわからないけど。
 あれからなまえは現在進行形でオレを避けている。メールも返ってこない、電話も出ない、学校に行ってもうまいこと回避されて会えない。あまり使いたくない手段だったけど、エマになまえの様子を聞いたりもした。エマなら、何か知ってるはずだと思って。なのに「エマの口からは言えない!」の一点張りで何も教えてくれなかった。お兄ちゃんがおかしくなってもいいのかよ。

「なんで?ゼッテーなまえオレのことメッチャ好きじゃん。なんで拒否んの?まじわかんねー」
「んー、まあ、そうだな」
「好きなのにキス嫌がるってなに?」
「さあ…口がくせえとか?」
「は?毎日クリアミントで磨いてますけど?」
「爽やかじゃん」
「ちょっと前までイチゴ味ので磨いてただろ」
「なまえと付き合ってから卒業した。えちけっとだろ」
「意外と健気なんだな」

 はあ、と何度目かわからないデカイため息が止まらない。眺めても仕方のない壁に飾られた季節のメニューの広告をぼうっと見つめながら、冷めたポテトに手を伸ばす。つまんだポテトでマヨネーズとケチャップをぐるぐると掻き混ぜ続けてたら三ツ谷に混ぜんなやと窘められた。なんでだよ混ぜてもうまいだろうが。

「は〜無理。オレしおれそう」
「他に理由ねぇ…」
「あれじゃね、キスしたい感が前面に出ちまってるんじゃねえの?」
「ええ?ん〜まあ出て…ウ〜ン出てんのかもしんねぇけどさ……」
「がっつかれてると思われてんじゃね?」
「好きな女にがっつかない男なんているのかよ」
「まあそうだけどよ。そこをさ、もっと余裕のある男っぽくいけよ、スマートな感じにさ」
「スマートってなんだよ……」

 わっかんね〜とふんぞり返ったらパーテーションに頭をぶつけた。痛え、と思うけど痛がる元気もなくてそのまま天井の丸い電球を見つめる。この前と同じことしてんな、と思いながら当然目がチカチカしてきて、目を閉じた。こりゃ重症だなとか、滅多に見れねえし動画でも撮っておくかとクソ双龍たちが囁くのが聞こえてきて、とりあえずテーブル下でそれぞれの脛に強めの蹴りをいれた。

「てかオマエらオレのこと笑ってっけどさ、自分らはキスしたことあるわけ?」
「あ?あんじゃねえか」
「は?誰と」
「オマエと。大晦日に」
「ああ、聞いたことあるわそれ。大晦日にマイキーとドラケンがキスしたって。マジだったんだ」
「……そうだっけ?」

 言われてみればそんなこともあったかもしれない。いつかの大晦日に、じいちゃんとシンイチローがべろべろに酔っぱらって始まった男気勝負という名のポッキーゲームでオレとケンチンが勝負して、でもオレら互いに退くなんてゼッテーありえなかったから、その勢いで、したかも。

『マジになってんじゃねえよケンチン!ちゅーしちゃっただろうが!』
『あ!?オマエこそ最後まで粘ってんじゃねえよ!』
『退いたら負けンだろうが!』

 …思い出した。思い出さなくてよかったのに。あれでオレがどれだけエマに非難されたかケンチンは知らないだろ。暫く口聞いてくれなかったし、1週間はオレの分の目玉焼きの黄身割られてたからな。

「…ありゃノーカンだろ、若気の至りってヤツだ!」
「いや黒歴史じゃねーか」
「つーか三ツ谷はあんのかよ?」
「あるけど」
「は!?誰とだよ!」
「ルナとマナ」
「はぁ〜?家族もノーカンだろ!なら俺だって空手の練習サボりすぎたバツでじいちゃんにディープキスされたことあるわ!」
「心温まるな」
「あったまるか!」

 全く参考にならん男たちを尻目に、空っぽになったコップを片手にドリンクバーコーナーへ向かう。3列あるうちの右端にコップを置いて、『メロンソーダ』と書かれた緑色のシールが貼られているボタンを押そうとして…直前で指を止めた。

「……スマート…」

 さっき三ツ谷に言われた言葉を思い出す。スマート。スマートってなんかよくわかんねえけどかっこいい男みたいなことだろ。今のオレも十分かっこいいけど、スマートとはちょっと違うと思う。スマートな男は、果たしてメロンソーダを飲むだろうか。スマートな男が飲むもの、それは。ごくりと唾を飲み込む。
 置いたばかりのそれを片手にドリンクバーの機械から離れて、アイスコーヒーと書かれた機械のレバーをコップを使って押し込むと茶色い液体が注がれ、馴染みのない香りが鼻を擽る。半分ほどいれて、その場を離れかけて…踵を返した。プラスチックのケースに盛られているちっせぇミルクとガムシロを片手に収めた。一応だ、一応。一応、持って行っておくだけ、苦いからとか、そういうんではなく。

「ん?それ…コケコーラじゃねえな」
「まだ飲んでんの?あのきたねえヤツ」
「バーカ。コーラなんか飲むかよ」
「…オイまさか」
「アイスコーヒー?」
「おうよ」

 得意げに鼻を鳴らしてみたら、食いモン粗末にすんじゃねえよと三ツ谷がため息を吐いた。粗末にしてねえだろ。飲むから注いで来てんだ。オレはいまからアイスコーヒーを、ブラックで飲むわけ。スマートだろ。

「スマート……スマート……」
「さっきから何ブツブツ言ってんだ」
「うるせえケンチン。オレはいまから偉大な一歩を踏み出そうとして、」
「なあ、あれなまえじゃね?」
「は?アイツまだ学校だけど」
「いやでも、ホラ、あの信号ンとこ」
「お、マジだ。…つーかなんか」
「…アイツなんて顔してんだよ」

 三ツ谷の指差す先に、確かになまえの姿がある。オレが見間違えるワケがない。まだ学校終わる時間じゃねーのになんで。たまにサボることもまああるけど、なんか様子がおかしい。
 オレ行ってくるわ、と今まさに口をつけようとしていたアイスコーヒーが入っているコップをケンチンの前に置いて、ポケットにしまっていたミルクとガムシロを添えた。

「ケンチン!このアイスコーヒーオレがご馳走してやる!」
「なぁにがご馳走だバカ」

 いいからさっさと行ってやれと言うみたいに手で振り払うようなしぐさをしたケンチンと、頑張れよと手を振って笑う三ツ谷を置いてファミレスを飛び出した。



「なまえ!」

 車道を挟んだ向こう側にいるなまえに届くように大きな声をだすと、なまえはゲッ!とあからさまにイヤそうな顔をした。それから明らかにオレと目が合ったにも関わらず、すぐに顔を背けて気付かなかったふりして足早にその場を離れようとしたけど、天はかわいそうなオレに味方をしていて、丁度信号が青に変わる。オレは白線をとととんと踏んづけて、逃げようとするなまえの手首を簡単に捕まえた。

「なんで逃げんの」
「に、逃げてなんか……ていうか、またサボったなぁ〜?」
「オマエもじゃん。まだ学校終わる時間じゃねーだろ」
「う……」
「どした、なんかあった?具合でも悪い?」
「…なんもない…ですけど」
「ほんとに?」
「うん、ほんとに…」
「オレに嘘つくのかよ」
「うそなんか……」

 言い淀んだかと思うと、観念したみたいに頭を垂れて、ごめんと小さく一言。別に謝んなくていいよという気持ちでつむじのあたりをぽんぽんと撫でてやるともっと頭が深く下がってしまった。首がおっこっちゃいそうだ。

「ちょっと待ってろ、いまチャリ取ってくるから。一緒にウチ帰ろ」
「……うん」

 もしかしたら逃げられるかな、と思ってたけどファミレスの駐輪場から戻ってきてもなまえは変わらず俯いたままそこに立っていて、バツが悪そうに前髪をいじっていた。
 荷台に乗ってからもずっと大人しくて、でも控えめオレの服を掴んでくれていた。たったそれだけで、なんだか胸がどきどきした。


 ウチに着いても相変わらずどこかしょんぼりしたまま突っ立ってるなまえの背中をヨイショヨイショと後ろから押してオレの部屋に押し込み、ソファに座らせた。
 しょんぼりしてるからか、いつもより心なしか小さく見える彼女をあまり待たせないように台所に急ぐ。麦茶すら見当たらないからっぽの冷蔵庫に不運にもひとり佇んでいたのはパックのピーチティーだ。『エマの!』とでかでかと書かれた付箋が貼ってあるのが見えないわけがなかったけど、ごめん、エマ。スマートな男は家に来た彼女に茶のひとつでも出さねーといけないんだわ。今度ちゃんと買ってくるからな、と心の中で謝罪して2つのコップに注いだ。

「んで、なにがあったんだよ」
「ええ〜?そんな、たいしたことないんだけどなあ」
「たいしたことなくてあんなカオする?」
「……私、どんな顔してた?」
「たすけて〜って顔」
「嘘だあ、助けてだなんて思ってないよ。……ただちょっと、自己嫌悪してただけ」
「自己嫌悪?なんで」
「うーん……」

 ピーチティーを一口飲んだなまえは「うまっ」と声をあげつつ、オレのなんでに答えるために腕を組んで首を傾げて、ン〜〜と唸ってる。それでもなかなか言葉が出てこない。オレもなまえみたいに腕を組んで同じように首を傾げる。

「…オレに言えないなら、無理に言わなくてもいいケド」
「え…」
「それ、エマになら言えるか?」

 別に彼氏だからってオレに全部を話す必要はなくて、エマに相談できて、それでなまえの悩みが解決するならそうした方がいいと思う。女同士でしかわからないことも、そりゃあるだろうし。…寂しくないと言えばウソになるけど。
 オレの言葉を聞いたなまえは驚いたみたいな顔をして目を見開いている。吐き出す言葉を探すみたいに口を開いては閉じてを何回か繰り返して、それからぐっと唇に力を入れてなにかを堪えるみたいな顔をした。オレは隣で、おとなしくなまえの言葉を待つしか出来なかった。

「いや、ううん…マイキーに言える…ていうか、マイキーにちゃんと言わなきゃいけないことなのかも」
「オレに?」
「うん……これからも、マイキーと一緒にいたいし」

 そう言って苦笑するなまえの膝の上で固く結ばれている手を、握りたいと思った。でもいまはただなまえの邪魔をしてしまいそうなのでぐっとこらえる。オレだってこれからもなまえといたい。だから、我慢する。スマート、オレはスマート。心の中でそう唱えながら髪の隙間から見えるちっこい耳を見つめてた。

「…あのミワちゃんって、いたでしょ。この前マイキーといた子」
「あー、うん、いた」
「ミワちゃんさ、たぶん私のことちょ〜キライなんだよね」
「は?なんで」
「マイキーのことが好きだから。私がマイキーと付き合ってるの、気にくわないんだよ」
「…でもアイツ、参番隊のヤツの彼女って言ってたけど」
「うん。たぶんマイキーに近づくためだと思うって、エマが言ってた」
「どゆこと?」
「相談するフリして近づいてくるみたい。なんかそんなこと言われなかった?」
「あ、言われた。彼氏に乱暴されてるって。ウソなん?」
「いやホントのところはわかんないけど…でも他のチームでも似たようなことしてたみたい」
「なるほどねえ…」

 女を取り合って揉めるのはまあそんなに珍しいことでもない。タチが悪いと女ひとりのために抗争が起きることだってあるし。
 なるほどな、そういうやり方だったのか、と合点がいく。やたらくっついてきたし見たくもないパンツ見せられたし、女の武器をこれでもかと使われていたような気がしなくもない。でもオレはあんなんでコーフンしねえし1ミリも靡かねーんだけど。無敵のマイキーもナメられたもんだ。

「だから、私が誰にもナメられないような最強の女になってやろうと思って」
「うん?」
「で、ナメられないようにするには勉強もできて運動もピカイチで、かわいくて…みたいなさ、いろいろ課題があるなと思って、頑張ってたつもりだったんだけど」
「それでマクラノソーシね…」
「あ!枕草子の暗記テストは完璧だったよ!どや見たか!と思ってミワちゃん見たら爆睡してたんだけどね」
「あー……」
「…でも、もうそれ以外はなかなかうまくいかなくてさあ。ミワちゃん、見た目あんなチャラチャラしてるけどさ、運動もできるし勉強もサボらなければそこそこ出来るんだよ」
「ふーん」
「それで…なんかすごい負けてるな〜って思ってた時に丁度、マイキーとミワちゃんが並んでるの見て、なんかお似合いかもとか……一瞬でも思っちゃって」
「は?」
「あ、まってよ顔こわい!怒んないで!」

 怒るだろ、何言ってんだこのバカちん。バカで勝手なことばかり言う大バカ者のなまえに言ってやりたいことは山ほどあったけど、だからといってここでなまえの話を遮るのはスマートじゃない。そう、オレは、スマートな男、スマート…。なんとか零れそうな文句はぐっと飲み込めたけど、眉間に皺が寄るのと口がへの字に曲がってしまうのはどうにも抑えきれなかった。なまえの眉毛はハの字になってる。オレら、へとハじゃんと思った。

「だから、その手繋いでくれるのとか、キスとか、ほんとはしたかったんだけど、まだダメだって思って…」
「うん」
「それでこの前、逃げちゃった。ほんとごめん」
「…うん」
「呆れらただろうなって思ったし、嫌われたかもとか。そんでこうやってうじうじしてる間にミワちゃんとか、ほかの子に取られちゃうかもって思ったら、なんか、私焦っちゃって…」

 ヒマワリがしおれていくみたいにどんどんと俯いて、ついには両手で顔を覆ってしまった。手の中からくぐもったごめんなさぁいなんて声が聞こえてくる。なまえがメソメソとしてる一方、オレは、ちょっと安心していた。嫌われてるわけでも、オレの口がクサいわけでも、がっついてると思われてるわけでもなかったんだと。オレがスマートになろうとしてるとき、なまえは最強の女になろうとしてたんだと。
 ソファの下に降りて、相変わらず両手の中に閉じこもったままのなまえの腕を掴んでこじ開けるみたいにしてそっと顔を覗き込もうとすると、恥ずかしそうな声が上がる。このときにはもうオレの口はへの字ではなくて、すっかりにっこり、弧を描いていた。

「み、みないでよ〜…」
「見るよ。かわいいもん」
「かッ……」

 オレに両手首を掴まれてるせいで隠すものがなにもないなまえは、顔を真っ赤にさせてまごまごしている。恥ずかしすぎるのか若干目のふちが濡れている気もするけど、オレはなまえのいろんな顔が見られて嬉しい。もっといろんな顔が見たい思う、この先も。

「なまえさ、こんなこと言ったら怒るかもしんないけど」
「うん…」
「別に、周りとか関係ねーよ。なまえがどうしようもなくバカで運動音痴でもオレはオマエを嫌いになったりしないし、他のヤツらが何言ったってオレはなまえが好き。それじゃダメ?」
「だ、だめじゃないけど……」
「あの女とか、他のヤツのこと考えるくらいならオレのこと考えて。オレに構ってよ」

 なまえがしたいならすればいいけど、あの女に勝つためとかそんなくだらねー理由で勉強するならオレに構えと思う。だってオレからしたらなまえの大勝ちだから。つーか勝負にすらならない。どんな女がすっ裸で迫ってきたとしても、オレは全身タイツ着てるなまえの方に興奮する自信がある。…オレ、これ絶対例えヘタクソだな。

「わ〜もう、なんかばかみたい、ひとりでから回ってるみたいで。メッチャ恥ずかしい」
「でもオレに見合う女になろうとしてくれてたんだろ?それはそれで嬉しい。でも見合うとか、そういうのねえから。オレが好きでなまえもオレを好きならそれでいーじゃん」
「うん…なんかごめん。私、イヤなとこ見せちゃったなあ」
「いーよ、なまえのならもっと見たい。寧ろオレのせいでなんか言われたりしたんならごめんな。言ってくれれば全員ぶっとばしにいくけど」
「あはは、いらない。そんなことに時間割くなら私と一緒にいて。私に構ってよ」
「ウン、りょーかい」

 いたずらっ子みたいに笑いながらオレの言葉を真似するなまえが可愛くて、愛おしくて堪らない。実はオレもなまえと進展したくて双龍にバカにされながら頭抱えてたって言ったらどんな顔するだろう。かっこつけたいから、内緒にしておくけど。

「こんなこと言うのおかしいけどさ」
「ん?」
「マイキーって、ほんとに私のこと好きなんだね」
「いま気づいたのかよ」

 おせーわ、と人差し指で小突くようになまえの額を押すとそこを片手で抑えながらはにかむ。オレのことで頭いっぱいにして悩んでくれのは正直悪い気しないけど、そのせいで暗い顔させるのはイヤだ。なまえにはずっと笑っていてほしい。…いや、たまには泣き顔も見たいかもしれないけど。悲しませる以外で。
 またソファの上に戻って、体ごとなまえの方を向くとなまえもオレの真似して体をこちらに向ける。その両手を取って、指を絡めた。なまえが少し体を強張らせるのを感じたけど、今までみたいに逃げようとする様子はないし寧ろ繋いだ手にきゅっと弱い力が込められたのを感じて、オレはどうしようもない気持ちになる。

「…確認していい?」
「確認?」
「うん。オレはなまえがすき。オマエは?」
「私もす………だいすき」
「だっ……」

 ひとつ段階を上げられて、わかりやすく動揺しかける自分が少し恥ずかしくて、そんで悔しい。それがバレないように誤魔化すみたいに咳払いして、次の質問を口にする。

「…次。オレはなまえとキスしたい。オマエは?」
「……」
「……なまえ?」
「……め……」
「め?」
「めぇっちゃしたいよぉ……!」
「ぶぁははッ!」

 なまえが感極まったみたいに声を震わせてそう言うから、ついでかい笑い声をあげてしまった。なまえと手繋いでなかったら手叩いてガッツポーズを決めていたに違いない。それくらい、体の臓器がぶるぶると震えるくらい嬉しかった。ついになまえとキスできる!オレのファーストキスはこれからだからな!ケンチン!三ツ谷!

「よし。じゃあする、オレもめっちゃしたい」
「あでも待って!心の準備するから!タンマ!」
「待たねえ」

 ここまで来てまだ顔を背けようとするから、片方の手を解いてなまえの顔を掴んで、無理矢理こちらに向けさせる。ほっぺたが潰れて唇が少し出てるのが可愛い。オレを高ぶらせた責任はきっちり取ってもらわないと。

「おに!しんじゃうから!」
「慣れろ」

 こつんと額を合わせると、半べそかいたなまえが恨みがましくこちらを見上げてくる。どんなに泣こうが喚こうが怒ろうが睨もうが、もうなにしたってオレからしてみれば全部かわいいってこと、教えてやった方がいいだろうか。

「私が死んだらマイキーのせいだから……」
「死んだらもっかいキスして生き返らせてやるから安心しとけ」
「王子さまじゃないんだから…」
「オレからしてみればなまえはお姫サマだけど?」
「ひょ……」

 素っ頓狂な声を出したなまえが片手をひらひらと振って、参りましたと白旗をあげた。難攻不落のなまえ城の門を突破したら、残すは総大将・なまえの唇を仕留めるだけだ。
 手とかどこに置いたらいいんだとか、キスしてる最中って目ぇ瞑るんだっけ、とか口くさくねえよなとか今更慌てそうになるけど、真っ赤な顔して体をぷるぷる震わせているなまえを見ると、手とか目とかもうどうでもよくて、ただ唇をくっつけられればいい衝動に駆られる。
 なまえの頬に手を添えて少しだけ上を向かせるようにすると、それが合図みたいになまえが目を瞑った。あの時みたいにバッテンされることはない。
 来た。ついにこの時が来たのだ。体全身が心臓になったみたいにドクンドクンと波打ってるみたいな感覚に襲われる。手が震えてること、なまえにバレてるだろうか。
 黒いまつげが微かに揺れているのを見ながら、そっとなまえのに自分のを重ね合わせた。やわらかくて、ちょっとだけリップクリームのぺたっとした感触がした。言葉で言い表せない気持ちが体の奥から沸々と湧いてくるような気がする。

「…ど?死んだ?」
「しんだ……!」
「はは!オレはサイコーに生きてる!」

 決して大袈裟な言葉ではなく、頭のテッペンからつま先まで生命エネルギーが満ち満ちているような気分だった。キスで生き返るなんて御伽噺の世界の話だと思ってたけど、あながち嘘じゃないんじゃないかと今のオレなら信じれる、そんな最高の気分。
 なにそれ、と笑っているなまえをいままで我慢してた分も込めてギュッと抱き締める。触れてるところからなまえの鼓動が伝わってくる気がして、オレもシンクロするみたいに高揚する。オレのことを考えて、想って、好きな女がこんなに心を乱していることがただただ嬉しかった。
 なまえが染めようかと迷っていた髪にぴたりと頬を寄せて思い切り息を吸い込むと、たちまち好きな女のにおいに包まれてクラクラした。なまえを抱き締めているのだと実感する。

「なあ、なまえ」
「…はい」
「もっかいしてい?」

 一旦体を離して、まだ赤みが残る顔を両手で包んだ。なまえからまだイエスもノーも聞いてなかったけど、我慢できずにもっかいキスした。一瞬離して、またキスして。合間に合間になまえが抗議する声が聞こえてたけど全部無視して、いつかの妄想したサカリのついたサルマイキーみたいに何度も繰り返した。

「ちょ、マ、っんー!」
「ンフフ」

 なまえがジタバタしてても構わずキスし続けてたオレになまえが反旗を翻した。何回目かわからないキスの途中、突然なまえが口を開いてカプッと上唇の辺りに噛みついてきた。思わぬ反撃に怯んだところに、今度はなまえのちっせー手がオレの顔をぺちんと挟んで、今までした中で一番長いキスを、なまえからされた。ポカンとするオレを見て、真っ赤なほっぺたをしたまましたり顔で笑う。

「ど?ざまあみた?」
「……みた」

 今度はオレが白旗を振る番だった。なまえがしたみたいに片手をぷらぷらさせると、フフー!と満足そうな声をあげて喜んだ。なまえも案外負けずギライだもんな。オレにこんなことして、そんなこと言って、許されるのはオマエだけだし、もうその時点でなまえは最強の女なんじゃないかとオレは思う。
 つうか、自分からするキスはもちろんだけど、好きなコからしてもらうキスがこんなに、ふわふわと体が宙に浮いてしまいそうなほど嬉しいものなのだとオレは初めて知った、いやスゴイこと知っちゃったわこれ。ケンチンも三ツ谷も知らないだろ。
 体勢を戻してソファの背もたれに体を預けた。目を瞑る。いつもより自分の体温が高いのを感じるし、心臓はいまだにドキドキしていて、指先は痺れたみたいにピリピリしているし、なんかあんま体に力入んねえな。

「なまえ」
「ん?」

 人生、楽しいことばかりじゃないのはわかってる。取り返しのつかないことやどうしようもない絶望に苛まれることもあると思うけれど。それでも、トーマンがあって、ケンチンたちがいて、隣になまえがいれば。少なくとも、いまのオレは胸を張って、心の底からこう言える。


「幸せだ、オレ」


「え…大人しいなと思ったら急にどしたの?」
「ん?なまえが好きだなって思っただけだよ」
「…オムライス、先週も作ったけど」
「オレがなまえのこと好きって言ったらおねだりの合図だと思ってんの?」
「あれ、ちがった?」
「こんにゃろ」
 
 そりゃ、なまえの作るオムライスは大好きだけど。そんな風に思われていたなんて心外だ。いじけて口を尖らせたら「ウソだよごめんね」と甘えるみたいに肩に寄りかかってきたから、オレはもうコロリと機嫌がよくなって「じゃあ来週オムライスつくって」と言った。結局強請ってんじゃねえかってね。

 大きめのソファに並んで座るオレたちの間には拳一つ分の隙間どころか、1ミリの隙間すらなくぴたりと体を寄せ合っている。オレの隣でなまえが開いてるのは、昔のヤツがツラツラ書き綴ったよくわかんねー文章の載った教科書じゃない。ペアの指輪の写真ばかりが載ってるカタログだ。
 なまえとの物理的距離を縮められないとヤキモキしていた頃が懐かしい。あんとき、まじで構ってもらえなかったよなあと昔のことを思い出すと、なまえが一生懸命暗記していた声が脳内で再生される。

「春はアケボノ、ヨーヨー白くなりゆくヤマギワ……」
「あれ、枕草子?よく覚えてるね」
「ウン。オマエがずっと唱えてたから」
「あ〜…そんなこともあったね」

 あんときはなまえとオレもお互いそれぞれ悩んでたんだよなあ、と思いながら腰に手を回してぐっと引き寄せるとくすぐったいよと手の甲をぺしんと叩かれた。オレはそのぺしんと叩いた手を捕まえて、手の甲から握りこむみたいにしてなまえの指の間に自分のを差し込む。大人になっても相変わらずちっせえ手だな。

「初めてキスしたときのこと覚えてる?」
「…出来るなら忘れたいけど、覚えてるね、しっかりね」
「あの頃キスひとつするたびに死ぬ死ぬ〜!って騒いでたけど、さすがにもう慣れた?」
「うーん…多少は?」

 でもマイキーにキスされて何回も死にかけたお陰で、ちょっとはハートが強くなった気がするよ、急にGが飛び出してきても大声上げなくなったし!
 えへんと得意げに胸を張ってるけど、それはまた別の話な気がする。かわいいからなんでもいいけどさ。すごいねえらいねと褒める代わりにほっぺたにキスするとなまえがくすぐったいと身を捩る。コイツが意外とくすぐったがりと知ったのはキスのその先に進んでからだ。初めの頃は触ろうとする度にくねくね動いてオレの手から逃げ回ろうとするもんだから、ほんとに大変だった。

「マイキーのせいで、ほんと意識飛びかけるほど恥ずかしいこと何回もあったけど」
「ええ〜?そんなんあったか?」
「あったよ。ドラケンくんと三ツ谷くんの前でキスしてきた時とかさ」
「あ〜…ウン、ごめん」
「ふふ。でもやっぱりね」
「うん」
「何回されても、いまだに死んじゃいそうなくらい嬉しいんだよね」
「ぬぉ〜…」

 喜びのあまり、変な声が出そうになる。そんなの、オレも同じだ。もう何回したかなんて数えられないほどなまえにキスしてきたけど、いまでも初めてキスしたときと同じくらい満たされた気持ちになるのは変わらない。
 参った。永遠なんて不確かなものを信じてはいなかったけど、オレがなまえを想う気持ちはそれにあたるんじゃないかと思ってしまう。なまえもそうだったらいいとも。おかしいな、ロマンチストじゃねえんだけどな、オレ。

「あのね」
「なに?」
「マイキーが幸せで私も嬉しいからさ」
「…うん」
「やっぱり今日の晩御飯をオムライスにして、万次郎くんの幸せを更に上乗せしようと思います!」

 …もう、はやく名実ともにオレとお揃いの名前にして、なまえはオレのモンだと全人類に言い触らしたいって、いまはそればかり考えてる。「マイキーに甘いなあ、私」とはにかむなまえの顔をぐっと引き寄せて、今までで一番ヘタクソなキスをした。オレの永遠を、オマエに捧ぐ…なんつってね。

20210820
しあわせになれ
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -