※たいしたことはないですが、ほんのちょっとだけ血、暴力行為、性行為を匂わせる描写があるので苦手な方は注意してください。


 こんこん。冬の夜に簡単に掻き消されてしまいそうなほどに小さく微かな、私を呼ぶ音が聞こえた気がして顔を上げた。もう一度呼ばれやしないかと耳をそば立てたけれど、2度目はなかった。でも、たぶん、いる。
 暇を潰すためだけに読んでいたさして面白くもない雑誌を放り投げて、慌てて玄関に走り、覗き穴に右目を寄せる。先週くらいから電灯が切れかかっているせいでうちの前の廊下は薄暗いけれど、そこには確かに人影があった。呼び鈴も鳴らさず、合鍵だって渡しているのにわざわざ小さなノックで私を呼び出す人は、一人だけ。不審者の可能性もあるけど…まあ、大丈夫でしょ。
 ドアノブに手をかけてゆっくりとドアを押し開くと、不審者ではなく思った通りの人物がそこに佇んでいた。何も言葉を発さず、ただただそこに立ったままのひとの名前を、脅かさないようにそっと呼ぶ。

「イザナ」
「……」

 チカチカと点滅を繰り返す電灯に時折照らされるその顔には、血のようなものが点々と飛び散るようについているようだった。依然、じっと私を見据えたままの男の名前をもう一度呼ぶけれど、ぴくりとも動く気配がない。仕方がないのでぶらりと下がっているイザナの手に触れると、きんきんに冷えていて、それでいてぬるりとした感触がした。…これ、いつになっても慣れないな。自然と眉間に皺が寄るのを感じつつもそのままその手をそうっと慎重に引くと、根っこでも生えてるんじゃないかと思ってた2本の脚は呆気なく前に踏み出されて、簡単に家の中に迎え入れることが出来た。

 つい最近変えたばかりの玄関の蛍光灯が私たちの手元を照らした。イザナの手も私の手も真っ赤に染まっている。よく見るとこの時期には心許ない薄手のシャツにも赤が飛び散っていた。行き先が洗面所及び風呂場に確定したところで、誰のものかもわからぬそれを纏ったままの手を引こう…として、歩みを止めた。履いていたサンダルをそのまま家に上がろうとしたからだ。慌てて押し戻してから足に引っかかっていたのを外して、今度こそ洗面所へ引っ張っていく。こんな寒いのに薄着だしサンダルだしおまけに血まみれだし、ツッコミどころが多すぎてもはや何も言う気がしない。

 いまだに一度も声を発さないままのイザナの服を全部脱がせてイザナ本人は風呂場へ押し込み、汚れてない服は洗濯カゴへ、汚れた服は洗面台にぶち込み、水を張る。
 今までにも何度かこうして自分のものでない血を纏ったままで来たことがあって、その度にシミのついたシャツを脱いだそばからすぐ捨てようとするので、私がゴミ箱に放られる前にキャッチして、洗う。イザナは捨てちまえよと言うけれど、そんな贅沢な生き方はこれまでしたことがないから、抵抗があった。うまく汚れが落とせたものは私の部屋着になったり、イザナの着替えに復帰できたりする。今日のはイザナがよく着ていたヤツで本人にその気はないかもしれないけど、たぶん気に入ってるはずだから、シミにならないできれいに落ちてくれるといいんだけど。
 水がたまるのを待ちながら洗剤やらを用意していると、風呂場から一向にシャワーの音がしないことに気付いた。あれ、と思いながらそちらに顔を向けると、私が押し込んだときと全く同じ位置で棒立ちのイザナがこちらを見ている。

「どうしたんですか」
「…」
「…あ、わかった!体洗うやつ!」

 洗濯機の上に干してあるボディスポンジを手に取る。きっとこれがないことを知っていて、訴えていたのだ、無言で。来る時もそうだけど一言声かけてくれればいいのにぃ、と思いながらそれを差し出すと、スッと持ち上げられた手はスポンジではなく私の腕を掴んだ。その手は血がべったりついている方じゃないですか、と肩を落としながら、そっと伺うように腕の持ち主を見上げる。表情もなく、私をじっと見下ろしているイザナの口がここにきて初めて開かれる。

「なまえ」
「はい」
「なまえ」
「はあい」

 私の名前をただ繰り返すだけで、それ以上はなにも言わない。でもなにが言いたいのかはわかる。暗にオマエが洗え、と言っているのだ。私がそれを断る理由はない。わかりましたと頷いて、でもちょっと待っててくださいと腕を掴む手に触れた。

「先にシャワー浴びておいてください」
「なまえは?」
「準備してからいきます」
「早く」
「はいはい」

 名残惜しそうに指が這っていったせいで腕には赤い線がいくつか描かれた。イザナのならまだしも、誰のかもわからないのはなんだか気持ち悪いなあと思いつつ、ようやく閉じられた風呂場の向こうからシャワーの水滴がぶつかる音も聞こえてきたのに安心して、出しっぱなしだった水を止めて汚れていた部分を軽くもみ洗いする。もう既に少し薄くなっているし、ちゃんと洗剤つけて漂白剤も使えば落ちそうだ。ひとまずシャツの相手は後にして、早く入らないと。怒られてしまう。
 履いていたスウェットの裾を膝上までたくしあげ、羽織っていたパーカーを脱いで中に着ていた半袖のシャツは肩まで袖を捲り上げた。

 こんこん、とイザナがここに来た時にしたように小さく風呂場のドアをノックするとシャワーの音が止んだ。それからドアが少し空いて「おいで」と招かれる。我が家の風呂ではあるけれど、まるで主はこの人のような気持ちになって、お邪魔しまあすと素直に口に出してから入るといらっしゃいと歓迎された。

「ええと、座らないんですか?」
「うん。いいだろ?」
「まあいいですけど…」

 イスに座ってくれたほうがこちらとしても洗いやすいし、彼自身立ったままである必要はないと思うんだけれども、まあイザナがそうしたいならそうすればいい。好きにさせておく。
 視線を感じながらスポンジにボディーソープをたっぷりのせて泡立てて、あちこち傷だらけの体を労わるようにそっと首のあたりからスポンジを滑らせていく。その間イザナは私の前頭部あたりに顎を乗せているけれど、洗いにくいったらありゃしない。でも微かに鼻歌のようなものが聞こえるし機嫌がいいなら、いいか。私が苦労すればいいだけの話だ。
 …とはいったけど、やっぱりこの状態、たいへん洗いにくい。背中を洗いたくても腰に手を添えられてしまっており、腕から抜け出そうとするとグッと力を込められてしまうのでこの体勢を変えることも出来ず、仕方なくシャツとスウェットを犠牲にして半ば抱き着くような形で背中に腕を回して洗う。イザナはそれがお気に召したのか、いいねと呟いて自分も私の背中に手を回した。すっかり抱き合う形になってしまったな、と思っていると骨が軋むほど、いや、一歩間違えればこのまま背骨をぼきんと折られてしまいのではないかと思うほど強い力が私を抱く腕に込められた。息苦しささえ覚えるほどの強さにこのままイザナの体に取り込まれて1つに融合してしまいそうだとバカなことを思いながら、トントントン、とスポンジを持つ手で背中を叩いてイザナの名を呼ぶ。

「い、イザナさぁん、」
「なあに?」
「ちょっと、苦しい!」
「これくらいで?」

 なまえは弱っちいなあと呆れたように言いながら少し腕を緩めてくれて、ようやく満足に肺に酸素を取り込めた。心臓がばくばくと鳴っているの、気付かれたらまたなにか言われそうだな。
 鼻先を私の額に擦りつけているイザナにそれがバレないように気を付けながら体を洗うのを再開しようとすると、下半身に違和感を感じた。なにかを押し付けられているような、そこが熱いような。

「……えっと、イザナ」
「なまえ」
「その…当たってるんですけど」
「うん、あいしてる」
「誤魔化さないでください」
「あいしてるよ、なまえだけ、オレがあいしてるのはオマエだけだ」
「思ってもないことも言わないでください」

 可愛げのないことを一応口にはしてみるけれども、私は従順にその場にしゃがみこむ。イザナの望むことすべて、私に出来ることであるならすべきだと思っているから。これは強いられたわけではなく、私の意思だ。どうしてそうしようと思うのかは私自身よくわからないけど。
 窺うように視線をあげる。骨張った手で私の頭を撫でながらこちらを見下ろす男が目を細めてうっそりと笑うのを見てから、大きく口を開いた。


 私とイザナは立ち入り禁止の、その先で出会った。
 丁度1年前くらいのなんてことないバイトからの帰り道。なんだか突然全部が嫌になってしまって、終電にも関わらず一度も降りたことのない駅に立ち、知らない店が立ち並ぶ飲み屋街を抜け、日に焼けて印刷が薄くなっているテナント募集の紙が貼られたビルに侵入した。道すがら、当時のバイト先すべてに辞める旨の連絡もして。
 もし防犯システムが作動して不審者として通報されてしまったなら、それはそれでいいと思った。おばけやこの世のものではないなにかに出会ってしまったら…それはちょっとこわいけど、"先輩方"へのご挨拶だと思えば、なんとか。まあでもさすがに、屋上の鍵はかかっているだろう。そうしたら大人しく引き返して、タクシー拾って、帰ろう。
 そう思いながらスマホの灯りを頼りに薄暗い階段をひたすら上っていくと、ついに屋上への扉が目の前に現れた。ドアの手前には行く手を阻むように細いロープが垂れており、そこに『関係者以外立ち入り禁止!』と書かれた看板がぶらさがっている。関係者じゃないのに、すみません。看板の主に心の中で謝りながらその一線を跨ぎ、屋上に続くドアノブに手を掛けた。

「…あれぇ」

 存外呆気なく、私の右手はドアノブを捻ることができた。どうして施錠されていないんだ、セキュリティがばがばすぎるぞビル主。それか、これからしようとしてることを神さまが止めないでいてくれるのかも、なんちって。都合のいいように解釈して、すぐに自嘲するように小さく笑った。神さまのいたずらだとしても、私は決してあなたの元に挨拶には行けませんけど。
 錆かけた重たい扉を開くと、冷えた空気が頬を撫でた。目の前にあるラブホのピンク色のネオンにぼんやりと照らされた、廃棄物やらが散乱している屋上の端っこまでとぼとぼと歩く。屋上を囲うフェンスもあるにはあるが、女の私でも超えられない高さじゃない。手当たり次第に入ったにしては舞台が整いすぎていた。神さま、もしや、やはり?

 決して恵まれない人生ではなかったと思う。私よりもっと大変な境遇の中で生きているひとはごまんといるだろう。それでも、私は疲れてしまった。
 あのクソセクハラ上司は自分が面白半分に言ったことやしたことが私の心に汚泥となって積もっているとは思いもしないんだろう。私の知らないところで乳繰り合ってた元カレと元親友、自分のミスを棚に上げて人格を否定してきたバイト先のクソ店長、すぐに手が出る堅苦しい昔ながらの考え方の父親。唯一、母親は私に寄り添ってくれていたけれど…それだけは、本当に申し訳ないと思う。ごめんなさい、お母さん。
 傍から見たら大してことないのかもしれないけど、私はもう面倒くさくなってしまった。何事も中途半端で、すぐ投げ出して諦めてしまうような生き方だったけれど、人生においてもそうだとは。先のことを考えても光が見えないし、それを探すのも面倒くさいし。もうここまででいい。お先に失礼します。

 私が死んだらここ、心霊スポットとかになるのかなあ。ビルの所有者のひと、ごめんなさい。こういうのって親に賠償請求みたいなのされたりするんだろうか、なんて私のいなくなった先のことを考えながら、そんなに高くないフェンスをよいしょと越えて、縁に立った。遺書とか残してないけど、まあいいか。遺すようなものは何も無い。
 大きく息を吸って、吐いた。しんと冷えた空気が肺に沁みる。あと10秒数えたら、いこう。パンプスのつま先を揃えて、ひとりカウントダウンを始めたときだった。

「死ぬの?」

 誰もいるはずがないのに、突然背後から声が聞こえて肩が大きく跳ねた。危うく足を滑らせそうになって慌てて金網を掴んだ自分が滑稽で笑いたくなったけど、そんなことしてる場合ではない。
 声のした方へ、ゆっくり振り向く。銀色の髪を靡かせた男の人がネオンと月明かりに照らされて、立っていた。ええと、こういう服なんて言うんだっけ…特攻服、だっけ。それのようなものを着ている。直感的にヤバそうな人だとわかる。

「死ぬのかって聞いてんだよ、何度も言わせるな」

 あたりの強い風が男の人の特徴的なピアスを揺らしてる様に目を奪われて黙りこくったまま固まっていると、さっきとおなじ内容だけど語気が荒くなった質問に、私は咄嗟に小さく頷く。メチャクチャ怖い人だ、この人!
 予想外の出来事に、とっくにさよならをするためのカウントダウンは止まってしまっていた。

「死ぬンならさ、オレにくれよ」
「へ…?」
「捨てるんだろ?その命。だったらオレが拾うよ」
「えっと…」
「いま家なくて困ってんだ。オマエ、家はあるよな?」
「あ……狭いですけど、一応…」
「ウン。なら上出来」

 にこりと口元だけで笑ったかと思うと、首根っこをものすごい力で掴まれた。痛い、と思わず声に出してしまうと「オマエが今からしようとしてたことはもっと痛いけど」と最もらしいことを言われて口を噤んでいる間に、上半身を持ち上げるようにして掴まれたままの首をぐっと引っ張られてフェンスの内側に無理やり引き戻された。錆付いたコンクリートにどさっと転がされた私が呆然としている間に男の人はどこかに電話をかけているようだった。
 ヤバそうな人に捕まってしまった。このまま強姦でもされてなけなしの金を取られて、最後には殺されるんだろうか。自分から死を選ぼうとしていたくせに、この先のことを考えると途端にガタガタと体が震えだした。死のうとしてたくせに、なにをいまさら。

「ん?震えてんの?」
「わ、私……これから、なにを…」
「これから?オマエの家に帰るよ」
「へ…?」
「あはは、もしかしてレイプでもされると思った?」

 私の前にしゃがみこんだその人は、グッと乱暴に私の前髪を掴むと何を考えているかわからない瞳で顔を覗き込んでくる。私はまともな言葉を吐き出すこともできず、ただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。

「これからはオレが飽きるまで、オレのために生きること。いいな?」

 頷く以外の選択肢なんてなかったと思う。この人のために生きるって意味がわからなかったけど、私は必死に首を縦に振っていて、その拍子に溢れた涙を男はべろりと舌で舐めとった。

 最悪な出会いだったと今でも思う。結局私はイザナに呼び出されたカクチョーさんに担がれていかにも攫いますといった風な黒のワンボックスカーに押し込まれ、逃げることは許さないと言わんばかりに肩を組んでくるイザナの腕の中で体を強張らせながら我が家までの案内をして、素性の知らぬ男を連れてもう帰ってくることはないと思ったワンルームの電気を点けることとなったけれども、彼の言った通り本当に乱暴されたりなにかされるということはなく、刺繍がたくさん入っている服を着たまま私のベッドで眠った様を眺めるだけだった。皺になったりするんじゃないかとか、寝にくくないのかと思ったけれど、下手に起こして怒られても怖いし思いもよらぬ展開にどっと疲れを感じていたので、知らない男の傍で大人しくソファに寝転がり、ぎゅっと目を瞑った。眠りに落ちるのは一瞬だった。

 それからのことは私の意志など関係なくあれよあれよと進んでいき、いまに至る。
 私は、たぶん、いつからか正常な判断を出来なくなってしまったのだと思う。そうじゃなきゃ自ら高いビルから飛び降りようとしたりしないし、それを己の都合のために阻止した男に素直に従うこともしないだろうし、そんな生活を案外悪くないと思うこともないはずだから。
 折角のタイミングを失った私としてはイザナに返す恩などないけれど、それでも今はイザナのために転がり込める家を守るために新しくバイトを始めたし(家がなくて困っていると言っていた割には、たまにしか帰ってこないけれど)、食欲を満たし、時には性欲も満たす。今みたいに。
 都合のいい存在として、しっかりとイザナのために生きていた。おかしくなりかけとはいえ、イザナはいい拾い物をしたんじゃなかろうか、なんて思わなくもな、

「ぅあ、ッ!」
「オレ以外のこと考えてる?」

 風呂場に反響する自分の堪えようのない甘ったるい声から逃げるみたいにイザナと出会ったときのことを思い返していたけど、どうやらそんな私のささやかな抵抗は呆気なくバレてしまったらしい。ちゃんとイザナのことを考えてたのに。
 なるべく声が漏れないようにとしっかり結んでいた口はイザナの指によって解かれてしまい、仕置きと言わんばかりに思い切り肩に歯を立てられ、とどめに強く腰を押し付けられた。最中、イザナはよく体のあちこちに噛み付いてくるけれど、いつかほんとに食べられてしまいやしないかと心配になりながら、あまりの刺激におもわず天を仰いだところ、剥き出しになった首筋に噛みつかれた。獰猛すぎる。



 髪も体もきれいにして、結局口だけじゃ治まらなかった昂りを自分の体力と引き換えにどうにかこうにか鎮めた。
 風邪を引かないように丁寧に体を拭いて、歩くのが面倒だとかいってふやけたみたいに脱力した体を私に預けてくるイザナをよっこらしょとソファまで運び、私のヘアオイルをつけて髪を乾かした。まあ、髪がサラサラになったところで、この人はちっとも喜びやしないだけど。
 私自身はといえば、イザナに付き合ったことで本日2回目の入浴をすることになった。せっかく乾かした髪もしっかり濡れてしまったけれど、いまは適当にタオルドライするだけに留めて台所に立ち、ソファに寝転がったまま意味もなく天井を見つめているイザナに声をかける。ちゃんと髪を乾かすのは後でやればいい。

「イザナ、お腹すいたでしょ。味噌汁でもあっためましょうか」
「アレは?」
「入ってますとも」
「そうか」

 要らない、と言わないということは食べる気があるんだろう。シャンプーしてるときお腹鳴ってたしな、と思いながら味噌汁の入った鍋に火をかける。あまり待たせないように少し強火にして、おたまで一度ぐるりと中をかき混ぜた。

 イザナの言うアレとは、ワカメのことだ。昔、お兄さんに「ワカメは体にいいらしい!喧嘩強くなりたきゃワカメを食え!」と言われたのを律儀に信じてるようで、それ以来、味噌汁にワカメは欠かせないらしい。体にいいのはともかく、喧嘩が強くなるってのは別の話じゃないのかと思いもしたけど、お兄さんの言葉を素直に信じるなんて意外と可愛らしいところもあるんだなと思うと余計な茶々はいれるべきではないことは明白だった。
 ただ、イザナのワカメに対する信頼感というか執着心というか、それはなかなかのもので、一度だけ油揚げと大根の味噌汁を出してしまったとき、その日はまあ運悪くイザナの虫の居所が悪かったのもあるのかもしれないけど、手こそ出されなかったもののイザナのために買った黒い箸を折られ、よく使っていたマグカップを割られたことがあった。
 不思議と怒りや恐怖みたいなものはなく、散らばった破片を拾いながら、ワカメが入ってないだけでこんなに怒るひとがいるんだ、と思ったことを覚えている。その時からイザナが食べる食べないに関わらず、味噌汁を作るときにはいつもワカメを入れるようと心に決めた。おかげでうちの棚には乾燥ワカメのストックが詰め込まれている。まあ、私も好きだし、体にいいということらしいので、いいんだけど。もしかしたら喧嘩も強くなってるかもしれないな。

 ワカメを布教したイザナのお兄さん−−シンイチローさんのことを、私はちゃんと聞いたことはない。ただ、イザナからシンイチローさんの話をしてくることはよくあって、その口ぶりからするに彼が最も慕っているであろうということは想像に難くなかった。
 唯一の家族だ、ということだけは教えてもらったけれど、それ以上のことは恐らくこれから先も、私から聞くことはないと思う。「いつかオマエも会えるよ。シンイチローもなまえを気にいるはずだ」と言われたけど、そうなんだろうか。でもイザナがそこまで信頼を寄せるのだから、私もいつかお会いできればいいなと思う。その時はなんて自己紹介したらいいんだろうなあ。イザナに自殺を止められたなまえと申します、とか?笑えないか。

「他にもなんかいります?簡単なものしか出せないですけど…」
「なまえ」
「私?」
「なまえが食いたい」
「うーん…たぶん、体に悪いですよ」
「はは!」

 食器棚からお椀とお箸、いらないと言われそうだけど冷凍のからあげでもいくつか解凍しようかと小皿を取り出した。あ、そういえばこの前バイト先のひとにお土産でもらった冷凍餃子もあるな。どっちがいいだろうと顔をあげると、こちらが声を掛けるより先に私を呼ぶ、妙に間延びした声がした。

「なまえ」
「はい?」
「こっち来いよ」
「行かなきゃダメですか〜?」
「うん、早く」
「火ぃつけてるからちょっとだけですよ…」

 どうせたいした用事じゃないだろう。リモコン取ってとか、暖房の温度をあげろとか、テレビがつまんねえとか、そういう。
 たかをくくって火をかけた味噌汁はそのままにソファに戻るとイザナが体を起こして私の座るスペースを開けていた。とんとん、と人差し指がその場所を叩き、ここに座れと無言で命令されている。火止めてきた方がよかったかなと思いつつも大人しくその場に腰を下ろすと、すかさず太ももにイザナの頭が乗せられた。私を枕にすることはよくあったので、そこまで驚きもしない。

「で、なんのよ…うわっ」
「なあ?」

 まっすぐこちらを見つめながら、イザナが私の濡れたままの髪の毛をぐっと掴んで乱暴に引いた。背骨が丸まり、イザナの目前に顔が近づく。長いまつ毛が上下する様がよく見えた。

「殺してやろうか」
「ころ……と、突然ですね」
「逃げ出すための絶好のチャンスをやってるんだ」

 オレからも、この世界からも。
 さっきまで乱暴に扱っていた私の髪をいたずらするみたいに自分の人差し指に巻き付けながら、イザナは口角を持ち上げる。本当このひと、笑うのが下手だな。
 突拍子もないこと言うなあと思いつつ、イザナの額にかかる少し長めの前髪を撫でるみたいにして分けてみる。おっかなくて、前は自分から触れようだなんて思わなかったけど、いまは自然と手を伸ばしてることが多い。いつか骨でも折られるかもしれないと思わないこともないが、触るなと言われるその時までやめるつもりはない。…どうしてだろうな。

「イザナがそうしたいなら、してください」
「オレがオマエを殺したいって?」
「うん、そうです」
「…フフ。バカだなあ、なまえは」
「も〜失礼なぁ」
「でもオレはオマエのそういう、バカなところが気に入ってるんだ」

 それにオマエを殺したらオレの寝床がなくなっちまうだろ、と笑い声をあげる。寝床つったってここだけじゃないわけだし、というかイザナはカクチョーさんがいればなんとかなると思う、たぶん。別に私という存在はこの人にとって全く必要ないはずだけど、捨てるにはまだ惜しい玩具といったところなんだろうか。イザナの考えてることはよくわからないけど、私のことは好きなようにすればいいと思う。煮るなり焼くなりして食べるなり、突き落とすなり、なんなり。こんなこと思うのは、おかしいのかな。

「けどよォ」
「いッ…!」
「他のヤツに媚びるのは看過できねえなぁ」
「ぅえ、こ、こびぃ…?」
「この前、家の前まで一緒に来てただろ、ションベン臭ェ男とさ」

 徐に額を撫でていた私の手を取り指を絡めてきたかと思うと、手の甲に爪が突き立てられて、肉が抉られるんじゃないかと思うくらいぐっと強い力を込められて、突然の痛みに声が詰まった。普段からそんなに表情がある方ではないけれど、いま私を全ての感情を削ぎ落としたような顔でまっすぐ見つめるイザナには背筋がぞっとするよう感覚を覚えた。
 とはいえそんな怖い顔されても、私は誰かに媚びた覚えはない。恐怖に肌が粟立ちつつもどうにか思い出そうと努める。家の前に来てた…なんだっけ、小便臭い男?誰だそれ。そんなひと知らないけど…とピンと来ないながらも必死に記憶を巡らせる。う〜ん、強いて言うとすれば…先週の話のことだろうか。

「わかんないですけど…たぶんそれ、バイト先の先輩ですよ。帰る方向同じだからって送ってくれて…あとお土産もらいました、餃子」
「ふうん、そっか」
「やましいことは、何もないです」
「うん、そうだな」
「あれ…信じてくれるんですか?」
「オレがなまえを疑ったことがあったか?」

 いやいままさに私疑われてたじゃないですか、媚びとかなんて言って。その言葉たちはもちろんぐっと飲み込んだ。この人が滅茶苦茶なことを言うのはよくあることだし。
 イザナが何を勘繰っているのかわからないけど、まじであの先輩とは何もない。シフトはよく一緒になるしまあ優しいひとだけど、別に特段仲が良いわけじゃないし本当は1人で帰りたかったし。でも新人の頃にいろいろ教えてくれたり、ミスした時に代わりにフォローしてくれたり、あとあのときはちょうどお土産の餃子も貰っちゃってたもんだから、申し出を無下にできなかっただけだ。
 こんなんで怒られるなんて理不尽だあ、と思う私とは裏腹に、イザナはさっきまでの無表情とは一転して機嫌よさそうに笑っている。あれ、怒ってるわけじゃないのかな。

「なあなまえ。アイツの家、こことは反対のところだぜ」
「え?」
「あとよくバイトの時間被ってたろ?オマエと同じ時間になるようにシフト調整してたってさ。キモいよなぁ?」
「えぇ…?」
「わざとオマエにミスさせるように仕組んだこともあったらしいぜ。テメェが慰めたいがために!ホントどうしようもねぇゴミだ」

 私が先輩に送ってもらったこととか、先輩の家が反対だとか、シフトも調整してたとか、先輩がわざと私にミスさせるように仕組んだとか…どうしてイザナが先輩から直接聞いたみたいに話してるのか、正直理解が追いつかなかった。もしかしたら出鱈目なことを言ってるだけかもしれないけど…でも私は何よりイザナを信じてしまうから。たぶん、先輩は私に嘘を吐いていたんだろうな。

「嗚呼、バカななまえ。簡単に騙されちまって」
「ん…なんか、すみません」
「オマエが謝ることじゃねーよ。それに、もう大丈夫だからさ」

 目を細めてはちみつを垂らしたみたいに甘い声を出しながら繋がれていない方の手を差し出してきたので、その手のひらに素直に頬を寄せる。何が大丈夫なのかよくわからなかったけど、イザナがそう言うなら、大丈夫なんだろう。
 それにしても先輩、どうして嘘をついたんだろう。私と帰りたいがために?慰めるためにわざわざミスさせたとか、今思えば思い当たる節がないわけでもなかった。まあ真実はわからないけど…でも、なんで先輩がそんなこと。する必要があるんだろう。私のこと好きだったのかな。そんなわけないかと思いつつも他に思い当たる理由がなくて、少し気味が悪くなった。

「なまえはさぁ、なんのために生きてんの?」
「イザナのため?」
「フフ、うんうん」
「あ、機嫌直りました?」
「そう、そうだよな。オマエはオレのために生きて、何よりもオレを愛さなきゃ」

 もう私の声は届いていないようだった。くすくすと小さな笑いを溢しながら肩を震わせている。というか、イザナを愛さなきゃいけないなんてことは初めて聞いた。イザナのために生きろとはあのビルでも言われたことだったし実際そうしていたつもりだったけど、私、イザナのこと愛さないといけなかったんだ。うまくやれるかな。
 いよいよ子どもみたいな声をあげて笑いだしたイザナの目にはうっすら涙すら浮かんでいた。いまそんな泣くほど面白いことなってないのになあ、と思いながら濡れた目尻を親指で拭ってあげる。

「あの日、あのビルの屋上に来なければオレに出会わずにすんだのに!」

 相変わらず笑みを浮かべたまま、私の手を掴んでその指先を甘く歯を立ててくる。舌先が触れる感触にぞくっとして思わず肩を竦めると、すっかりご機嫌そうにイザナが鼻を鳴らした。

「そうしたら、あの時死ねてたのにさ!」

 骨張った指の背で、猫でも可愛がるみたいに私の顎の下をくすぐり、それから頬を撫でる。その指先は少しカサカサしていて、肌にひっかかる感じがした。ハンドクリームでも塗ってあげようか、でも嫌がりそうだなあ、絶対。そんなことを思っている間に頬を撫でていた手が米神の辺りを伝って、後頭部にまわった。そのままぐっと引き寄せられたので私の背中はもっと丸まって、イザナの鼻先と私のが触れ合う近さまで距離が縮まる。見開かれたイザナの瞳に自分の姿が映っているのが見える。

「かわいそうななまえ」
「…イザナ、」
「ずうっとオレのものだ」

 さっきからずっとイザナは楽しそうで、嬉しそうにクツクツと喉を鳴らして笑うから、私もなんだかそんなふうに思えてきて、おんなじように笑った。イザナがそういうのなら、そうなんだろう。私はイザナのものだ。

 私たちの笑い声に混ざって、火にかけたままの味噌汁がグツグツと茹だり吹き溢れる音が聞こえた。消さないととは思うけど、今のイザナが離してくれるとは思えなかったので、もう少しだけこのままでいることにする。
 地獄にも、こんなふうにぐつぐつと煮えたぎった鍋があるんじゃなかったっけ、と場違いなことを思った。未遂とはいえ自ら命を粗末にしようとした上に、恐らく人の道を外れたことをしているイザナを匿って尽くす私に天国を望む資格などない。イザナだってどれくらいの罪を背負っているのか私には計り知れないけど、たぶん地獄行き確定でしょう。だからきっと、私たちは2人揃って地獄の大釜に放り込まれるに違いないのだ。そう思いながら、うわ言のように何度も私の名前を呼んでいる男の唇に自分のを押し当てた。そうするとイザナはすっかり静かになって、眦を仄かに紅潮させた目をゆっくり閉じて満ち足りたような笑みを浮かべていた。



 次の日、バイトに行くと店長と顔を合わせるなり、出来たらシフトを増やしてくれないかと持ちかけられた。例の先輩が大怪我をして辞めてしまったから、と。曰く、暴漢に襲われたとのことだ。一命は取り留めたものの、顔面と、あとなぜか局部を酷く殴られていた上に、右腕を含めた数カ所の骨折で重傷らしい。
 犯人は捕まったみたいだけど、なまえちゃんも夜道には十分に気を付けてねと言われて、私ははーいと生返事をしながら、なるほど、あの汚れは先輩だったのかと合点がいって、蘇ってきたあのぬるついた気持ち悪い感触を拭うように右手を制服のエプロンに擦り付けた。


20210805
情緒メチャクチャだよ〜
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