一度体を起こして、寝ぼけ眼で辺りを一度見回してから、すぐにもう一度ソファに体を横たえた。私はまだ夢を見ているのかもしれない、と最近気になり始めた顎の肉をつまんでみる。いてえ。ちゃんと起きてる。

 夕星がうちに来ることは知っていた。前はなんの連絡もよこさずに真夜中だろうと遠慮なくピンポンを鳴らし、ドアノブをがちゃがちゃと鳴らすという大変迷惑極まりない行為を繰り返してわたしの生活リズムをメチャクチャにしてくれていたもんだったけど、再三の注意、果てには懇願が功を奏したのか最近はいい子でちゃんと事前に連絡をするようになってくれていて、それは今日もで。『あとでいく』なんて、随分とざっくりした内容ではあったけれど突然来られるよりは全然マシだ。だから、まあどうせ夜来て夕飯でも食べに来るんだろうなくらいに考えて、わたしはのどかな休日の午後を、ぽかぽかとあったかい日差しのもとソファにごろりとだらしなく寝転んで惰眠を貪っていたわけなんだけど。

「〜♪」
「……」

 白い天井に向かって何度もまばたきを繰り返すわたしの耳に流れてくる、ご機嫌な鼻歌。鼻孔を擽る、食欲をそそるようないいにおい。トントン、とまな板と包丁がぶつかるような音。
 我が目を疑い、夢かと見紛った光景は、キッチンに立つ夕星の姿だった。驚いた。一人暮らしの部屋に他人がいることにはもちろん驚くが、それ以上に、あの子、料理、できるのってところに。知らなかった。ていうかいま気付いたけど、わたしの体の上にあるの、夕星のジャケットだ。かけてくれたのか、はたまたポイっと投げた先にわたしがいたのか。ポジティブなわたしはきっと前者にちがいないと決めつけて、勝手に頬を緩める。あの男はああみえて意外と優しいところがあるから。

「ンフ…」

 い、いや、さすがにいまのはちょっと、我ながら気持ち悪かった。気持ち悪い声出た。恐らく夕星の耳までは届いてないだろうし、こんなゆるゆるの口元だって誰かに見られることもないだろうけど、親指と人差し指でグイっと横に引っ張って無理やり横一文字に結ばせながら、頭の上らへんに放っておいた携帯を手に取る。見ると、夕星から30分くらい前に『いく』とだけメッセージが来ていた。現在の時刻は19時半…ちょっと寝すぎた感は否めない。

 もう一度、ソファの背もたれからそっと顔だしてキッチンの方を見る。いる。いるなあ、なんか英語の歌うたってる。
ありがとうございました、と小さくお礼をして夕星のジャケットをハンガーにかけてキッチンへ向かう。この時期のフローリングは冷たくてきらい。ひえっひえだ。スリッパがあればまだ凌げるんだけど、ついこの前に元はもこもこだったスリッパがへなへなになったのを捨てたっきり買ってなかったのを思い出す。買わなきゃと思ってたのに毎度忘れちゃうな。というか、スリッパもそうだけど、いい加減カフェオレをぶちまけて以来取り去っていたラグを復活させなきゃ。これもいっつも後でやろうと思って忘れちゃうんだよね、なんでもかんでも後回しするのもやめないとなあ。
 日頃の行いを反省しながら、キッチンに立つには似つかわしくない服の男の名前を呼ぶ。

「ゆうせー」
「ん〜?やぁっと起きたのぉ?おはよ、お寝坊さぁん」
「来たから起こしてくれればよかったのに」

 ジャケット、かけてくれてたの?と訊ねると『猫みたいにまぁんまるになって寒そぉにしてたからかけてあげたんだよぉ』と笑っていた。やっぱりかけてくれたんだ。ポジティブ大正解。嬉しくなって、ありがと、と背中に額を擦り寄せるとくすぐったいからダメだと窘められてしまった。

「包丁使ってるんだから危ないよぉ?間違えてなまえにぷすっと刺しちゃうかも」
「げぇ、それはやだ」
「んじゃあ、いい子にしててねぇ」

 わたしと会話している間も、夕星は包丁でニンニクを刻む手を止めなかった。というか、よく見ればうちの冷蔵庫にはなかったはずの食材が並んでいる。あさりとか、プチトマトとか、魚の切り身みたいなものも見える。夕星がわざわざ買ってきたんだ、きっと。一体何を作ってるんだろう。

「なにつくってるの?」
「アクアパッツァだよ」
「あ、あくぱ…?」
「んもぉ〜まぁだ寝ぼけてんのぉ〜?」

 夕星が作ってるのは、アクアパッツァっていうらしい。魚介類を白ワインとかで煮込むイタリア料理なんだとか。なんか知らないけど、名前からしてすごいお洒落だ。そんなお洒落な料理作れる夕星すごい。だって、イタリア料理って。わたしパスタくらいしか作れないよたぶん。しかも思った以上に手際がいい。あの面倒くさがりな夕星がなんで突然作ってくれる気になったのかわからないけど、彼の貴重な手料理を食べられるってことにわたしはすごくワクワクしていた。ものすごいワクワクしていた。ところでこれ、わたしも食べていいんだよね?

「夕星」
「う〜ん?」
「これ、わたしも食べてもいいの?」
「なぁにバカなこと言ってるの?いいに決まってるでしょ、つかお前のために作ってんのに食べてくれなきゃ困るぅ」
「え、わたしのため?」
「そ、なまえのため」

 夕星に料理を作ってもらえるようなこと、した覚えがないけど。きょとんとしてると、彼の視線がわたしをじいっと捉え、優しげに目を細められる。えっ、とどぎまぎしていると『いっつもいっしょーけんめー頑張ってるなまえちゃんにぃ、夕星くんからのプレゼントだよぉ』なんて、語尾にハートがついた甘い口調で言われて、驚きのあまりひっくり返りそうになる。

「ど、どうしたの、夕星…」
「もぉ〜失礼しちゃう!僕をなんだと思ってるのぉ?」
「や、ごめん、嬉しいんだけど、びっくりして、つい」
「んん〜?嬉しいの?」
「え、うん、…うれしい」
「ふふ!じゃあいい子で待っててねぇ、もうちょっとでできるから」

 彼の視線が向こうでテレビでも見て待ってろ、と言ってるけど。もうちょっと夕星の料理してる姿見てたいんだよなあ。お手伝いできるならしたいし、何より夕星の貴重なクッキングシーンだし。そう思って邪魔にならないところで夕星の手元を観察してたんだけど、『僕に構ってもらいたいのはわかるけど、あとでねぇ』と夕星に首を横に振られてしまった。ちぇ。ちょっとだけしょんぼりしながらリビングに戻ろうとすると、名前を呼ばれ引きとめられた。

「なに?」
「はい、んー」
「…うん?」
「ちょっとぉ、ちゅうしてよぉ。いい子に待っててねのちゅー」

 いい子に待っててねのちゅーは夕星からするもんなんじゃないの?と笑うと『いいからはやくぅ!』と子どものように地団太を踏まれたので、夕星の元に戻って突き出されていた薄い唇にちゅ、と自分のを押し付けた。大きな子どものシェフはそれに満足そうにしていらして、この続きはデザートにとっておくねと声を弾ませて笑いながら、お返しと言わんばかりにほっぺにキスをもらった。
 すっかり破顔したわたしはにこにこでソファに戻り、彼の鼻歌が止んでわたしの名を呼ぶその瞬間を、大好きな彼の手料理が出来上がるその瞬間を、お腹の虫とともに待ちわびるのであった。

20151124
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