わたしの探していた背中は、ベランダにあった。Tシャツを着て、下はパンツだけ。紺地に小さなリンゴの柄が並ぶそれは、わたしがデビュー祝いにプレゼントしたものだ。もうひとつ、股間にデカデカとリンゴが描かれているものもあげたのだけど、それを履いているのを見たのは1回しかない。よほどの時じゃないと履けないと言っていた。なんだ、勝負下着か?
 有紀はそんな見るからに寒そうな姿のままフェンスに寄りかかってポツポツと規則正しい間隔で街灯が並ぶ夜の街を、煙を吐き出しながら眺めていた。500ミリリットルの、シルバーの缶をお供に。散々抱き潰した女をベッドに放っておいて自分は酒とたばこに耽るだなんて、薄情な男め。

 心なしか重たい体を動かして、床にぽつんと佇んでいた有紀のスキニージーンズに足を通してみる。細さはさほど変わらないのに、丈だけが異様に長くてわたしと彼の足の長さの違いを痛感した。そのくせ細さはほぼ同じ。なんたることか。有紀のスタイルの良さに対する羨ましさと、自分のスタイルの悪さに対する残念さにいじけた風に下唇を突き出して、パーカーを羽織った。彼が所属するバンドがライブイベントで作ったパーカーだ。そのイベントでしか販売しなかった代物で、当日会場に行けなかったわたしは通販が来ることを心待ちにしていたのだけど、結局そんな告知はされずがっくりと肩を落としていたところを見かねた彼がうちに置いてきってくれた。有紀のサイズだからわたしにしてみれば指先まで隠れてしまうくらいの大きさだったけれど、彼に会えない時はこっそりこれを着て寂しい夜を乗り越えていたりしていたり、してなかったり。

 ぶかぶかのパーカーのファスナーを上まであげて、ぶかぶか(丈だけ)のスキニーの裾を少しだけ捲ってからそおっとベランダのドアを開ける。部屋と外の隔たりがなくなった瞬間、ぴゃっと冷たい風が顔にまとわりついて思わずきゅっと目を瞑った。ひえ、こんな寒い中でよくこの男パンツ一丁でいられたものだな。風邪引くよ、とぺしんとそのリンゴ柄のお尻を叩くと『いやん』なんてこれっっっぽっちも可愛くない声が聞こえて、自分の行いを少し反省した。

「びっくりするくらい可愛くなかった」
「おいおい、人のケツ叩いといてそりゃないだろ」
「反省してる。もうしない。ごめん」
「そんなに謝られると俺もちょっとショックなんですけど、なまえサン?」

 『大体、お前なんで俺の履いてんだよ、高校生の体育着姿みたいだな』と笑いながらわたしの腰をそっと抱いて自分に寄せた。わたしもそれに素直に従って有紀の体にぴたりとくっつく。体、やっぱり冷たい。本人は平気そうな顔してるけど大丈夫なんだろうか。

「カワイイ女の子でもいた?」
「こんな夜中にいるわけないだろ。つーかカワイイ女の子なら間に合ってますよ」
「え〜わたしのこと〜?」
「そ。わたしのコト」

 旋毛のあたりになにかが触れる感触とちゅ、というリップ音。なんだなんだ、と顔を上へ向ければ、少しだけご機嫌な色を残した表情で『ん?』と首を傾げられた。あ、いまのちょっとかっこいいかも。なんでもな〜いと口をアヒルのように尖らせたら、思惑通り今度はそこに落とされるキス。へへ。

「ていうかなんかお前、声ちょっとかれてないか」
「…誰のせいですか」
「あはは…身に覚えがあるような、ないような」
「なくても構いませんけど、有紀以外のひととってことになるからね」
「やだぁ〜俺以外の男となんてしないでぇ〜」
「きもちわる」
「俺も思った」

 やっぱ夕星しか使えないな、この喋り方。
 くつくつと喉を鳴らして笑った有紀はそのままぐいっと缶ビールを呷る。有紀はかれてるって言ってたけど、実際は喉が渇いてるせいで声ががさついてるだけだ。水でも飲めばもう少しましになるとは思うんだけど…部屋に戻るの面倒くさいっていうか、有紀と離れるのがイヤって言うか。でもビールそんなに好きじゃないしなあ〜と思いながら上下に動く喉ぼとけを指の背で撫でていたら擽ったいからやめなさいと怒られた。

「なあに、お前も飲みたい?」
「ん〜…冷たい?」
「まあ、さっき出したばかりの2本目だし、そこそこ」
「じゃあのむ」

 缶を受け取ろうと差し出した手は、ビールの缶を掴むことなく有紀の指と絡まり合うだけだった。その冷たさに思わず手を引っ込めそうになるけど、逃がさないとばかりにぎゅうぎゅうと掴まれて彼の指先からじわじわと伝わる低い温度に顔を顰めるしかない。ビール飲ませてほしいだけなのにどうして手を繋ぐの、しかも有紀の手つめたいし。(いやビールも冷たいか)空いてる方の手でもう一度ビールをとろうとしたけど、あろうことかこの男、わたしの手をひょいと避けてそのまま缶に口をつけたではあるまいか!なんだこいつ!喧嘩売ってんのか!
 意地悪ばか有紀!と文句を言ってやるべく口を開けたとほぼ同時、繋がれていた手に更に力がいれられたのをわたしは感じ取っていた。ん!?と嫌な予感を察知したときにはもう、有紀の缶を持っている手の中指がわたしの顎をつん、と押し上げていた。そのままわたしの唇にぴたりと隙間なく自分のをあわせてきた有紀から、独特の苦みと仄かな炭酸を持った液体が口内へ流れ込んでくる。

「………あの」
「ん?」
「有紀ごしじゃ、冷たいものも冷たくなくなるんですケド」
「おや、ご不満で?」
「ちょう不満。…今度はビールなしでお願い」
「…わお」

 可愛いな、お前。
 鼻先がぶつかりそうなくらい近い距離でにやりと歪んだ唇は、一度舌なめずりをしたのち下唇に吸い付き、甘噛みをしてから、ぬるり。体も指先も冷たいくせに、蠢く舌は随分と熱くてついその熱に夢中になってしまう。片手は彼の指に、もう片手は有紀のTシャツに縋るようにして、背伸びをして、ぐじゅぐじゅとはしたない音をだすキスを続けた。

「ん…ていうかお前、辛口好きなんだっけ?」
「んーん、この前友達が置いてった」
「…まさかと思うけど、男じゃないよな?」
「…そうだって言ったら、どうする?」
「一言も発せないくらい喉がかれるようなことするかな」
「ひえ〜」

 字面だけ見ればちょっと怖いこと言ってるように思えるけど、実際のところ有紀は冗談めかして言いながらわたしを後ろから抱き締めるから、わたしもつられて笑いながら背中をすっかり有紀に任せた。
 有紀とフェンスの間に挟まれながら真っ暗な空を見上げると、黒い雲がぽつぽつと浮かんでいるのが見えた。なんとなく星を見上げたい気分だったんだけど、残念だ。

「あー…なまえ」
「うん?」
「1本、吸ってもいいか」
「あいあーい。どぞ〜」

 ありがと、という言葉のあとにヂッとジッポのフリントホイールの音が聞こえてたちまち白い煙が薄暗い夜の空気に溶けていく。タバコくさくて、酒くさい。悪い大人のにおいだあ、と思いながらフェンスに凭れ掛かった。隙間ができてしまった背中が、少しだけ寂しく感じる。

「平気になったのか?タバコ」
「別に。やめてって言ったらやめてくれるの?」
「お前が本気で嫌だっていうならやめるよ」
「ふうん。…でもいいよ、もう慣れちゃったし」

 寧ろ有紀の吸うタバコのにおいは好きかもしれない。そんな思いは音にはせずにそっと飲み込んだ。自分で吸いたいと思ったことは一度もないけど、有紀の二酸化炭素が混じる紫煙も、それが染みついた有紀のにおいも嫌いじゃないってことは認めざるを得なかった。有紀以外のひとが同じタバコを吸ってたらくさいなあって思うだろうに、彼のならいいだなんて、安心するだなんて、好きだなんて、そんな風に思ってしまう自分のこういうところ、バカだなって思う。

「…タバコ挟んでる指ってさ、」
「ん?」
「なんか、えっちだよね」

 …思ったことをすぐ口に出してしまうところも、ほんっとバカだと思う。なんでそう思ってしまったのかはわからないけど、ついえろいって思ってしまった。ついぽろっと零してしまった。振り向かなくてもわかる。いま、絶対有紀意地の悪い顔してると思う。やってしまった。

「この指でイかされまくってるもんな」
「そ、そういうことじゃない…」
「顔、赤くなってますけど?」
「うるさい、」
「ははん、思い出しちゃってんだ」
「えー…うう、んん…」
「……まじかよ」

 お前、ちょっと可愛すぎないか?なんか心配になってきた。
 妙な心配をしながら、フェンスに凭れ掛かるわたしに有紀が凭れ掛かってくる。背中の隙間が埋まってあったかくなったのはいいけど、吸い殻だけは落とさないように気をつけていただきたい。そこだけ、頼むよ有紀くん。

「そういえばさあ、タバコ吸ってるひとって、平均的に寿命が10年も短くなるらしいよ。CMで見たけど」
「まあ、そりゃそうだろうな。長生きできるとは思ってないよ」
「ふうん」
「ん?」
「別に、有紀にタバコやめろなんて言う気更々ないけど」
「けど?」
「はやく死んじゃうのはやだな」
「…死ぬときまで俺といてくれる気あるんだ?」

 いれるもんなら、いたいなって思うけど。まだまだこの先、わたしの人生も有紀の人生も暫くは続いていくわけで、その中でわたしも有紀も他の誰かに恋をしないなんていう保証はない。未来のことなんて誰にもわからない。だけど今、12階のベランダでバンドマンの彼氏とタバコの煙に包まれているわたしは、ずっと有紀と一緒にいられたらいいなって確かに思ってるわけだ。もうそれでいいんじゃないかな、なにがいいのか自分でもよくわからないけど。

「なあ、なまえ」
「うん?」

 消すのにまだはやいように思われるそれを灰皿に押し付けた有紀は室外機の上にビールの缶を置くと、片手をわたしの前に両肩を抱くように腕を廻してきた。もう片手はお腹のあたりに。濃いタバコのにおいを纏った顔がわたしの首筋に埋められて擽ったさに身を捩ると、ちゅうっとそこを軽く吸われる。そう言えば、数時間前も同じあたりを強く吸われた気がする。わざわざ見える位置につけてくれやがったな。

「お前だけだよ」
「んっ…なに、が?」
「全部全部、俺だけのものにしたいって思う女は」
「全部?」
「そう、全部」

 お前の心も体も、時間も…この命だって、全部。
 本当は独り占めしてやりたいんだ、と有紀は笑っていた。さらりととんでもないことを言われた気がするのに、わたしも一緒に笑っていた。そんなこと思ってたのか、と純粋に驚いて、そこまで思ってもらえてることが嬉しかったからかな。
 耳たぶ、耳の縁、耳の裏、首筋、下顎。甘えるように唇を押し当ててくる男はなにかを恐れているようだった。わたしを失うことを恐れているのか、それとも他のなにかか。もし前者なら、なにも怯えることはないのに。そう思いながらお腹に廻されている手にそっと触れると、有紀の体がびくりと震えた。なまえ、とか細い声で名前を呼ばれ、わたしは彼の腕の中で向きを変える。情けない顔をして笑う有紀がまたわたしの名前を呼ぶ。縋るように。

「……随分嬉しそうな顔してるな」
「うん。有紀の可愛い部分が見られて嬉しい」
「大の男に可愛いなんて言うもんじゃありません」

 へへ、と笑いながら彼の首に腕を廻すと、わたしの米神にキスを落とした唇が『そのまま足、絡めて』と囁いた。足を絡めるって、こうか?と恐る恐る片足をあげると『お前はコアラ、俺はユーカリの木、はいどうぞ』なんてわかりやすいようなそうでないような間抜けなアドバイスを頂いた。よくわからないけど、それに従ってえいっとユーカリの木の有紀さんに飛びつけば、そのまま両の太ももを抱えられるような体制になりそのまま室内に連れていかれた。器用に裸足でドアをあけるんだこれが。

 すっかり冷え切ってしまった布団の上におろされ、隣に有紀が潜り込む。そのまま抱き枕宜しくぎゅうぎゅうと抱き締めてくる彼からはいつもの余裕のあるお兄さんの感じは一切なく、そしてそれは本人が恐らく一番感じているからであろう、『かっこ悪いな、ほんと』と苦笑いを零していた。

「かっこいい有紀も好きだけど、かっこ悪い有紀もたまにはいいよね」
「ばぶ〜」
「それは無理」
「あい」

 くすくすと笑いあう中で、額を重ね、鼻の頭を擦り合わせた。何度か啄むようなキスを交わす合間にリップ音に混じって聞こえた、捨てないでくれ、なんていう本当に小さな小さな今にも消え入ってしまいそうな呟き。それはもしかしたら有紀の独り言だったのかもしれないけど、わたしの耳に届いちゃったんだから独り言では済ませてあげない。

「こんなおっきい男捨てたら人様の迷惑になっちゃうよ」

 そう言って、そんな世迷いごとを言う唇を塞いだ。真っ暗で深い夜の静寂に呑まれそうになってる君よ、わたしはここにいるじゃないか。ちゃんとわたしを見てよ、わたしは有紀だけ見てるんだから。言葉にはしない代わりに自分よりも大きい体をぎゅ〜っと抱き締める。苦しいだろ、なんて笑い声が聞こえてもやめてあげないんだから。寝ろ。大好きなわたしの腕の中で大好きな音楽のことだけ考えて眠れ!青井有紀!


20151231 やめて青井有紀のあとの話っぽい
翌朝キンキンに冷えたビールの缶とキンキンに冷えた灰皿のことを思いだす
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