「う、」

 小さな波のようにやってくる吐き気に辟易していた。朝からずうっとこんな感じ。頭も痛いし、だるい。風邪を召してしまったんだろうかと思いながら額に自分の手のひらをあてがった。うーん、熱はないみたい。だけどデスクの上の資料の束やらなんやらを見ているといっそのこと高熱でもでてぶっ倒れてしまいたい気がしなくも、ない。

 有難いことに自分の好きなことを仕事に出来ているし、それ自体に文句はないのだけれど如何せん休みが少なすぎるというか。忙しいことは素晴らしいことだし、業界的に休みが少ないというか不規則だというのも覚悟のうえではあるけど、ぶっちゃけ体を休める暇がない。

「(今日は余計なことしないですぐ寝よう)」

 体が資本だ。体調管理できていない自分が悪いが、明日の体調次第じゃお休みをもらうことも考えておこう。それならば余計にそうなったときのために、今日中になるべく仕事を進めなければ。コーヒーでも飲もうと自席を立ち、コーヒーメーカーの前に向かうとどこからか『おつかれちゃ〜ん』なんてゆるい声が聞こえてくる。

「お、なまえちゃんおつかれ〜」
「あ、依都さん。お疲れさまです」

 今日も今日とて薄着、そしてオシャレな依都さんはわたしを見つけるとこちらに近寄ってきて、『相変わらずちっさいね〜』とわたしの身長がちいさいと小突いてきた。いつものことだ。依都さんが大きすぎなんですよと常套句を口にすると満足そうに笑う。毎度のこと、謎のやり取りである。

 わたし以上に休みがなくて仕事の量も多いのにこの人は割と元気だ。篠宗さんによると定期的に具合が悪くなっているらしいけれど、わたしはその姿を見たことはない。だからわたしの中ではいつも元気というイメージだ。…つまるところ、同じ会社に所属しているといってもわたしは依都さんのことをファンの人たちと同じくらいしか知らない。いや、彼女たちのほうが知ってるかもしれない。それに少し寂しさを覚えなくもないが、だからといってどうこうできるわけでもない。わたしはわたしが出来る最善のことをするだけ。わたしがすべきことは、この人たちの仕事がより円滑に進めることが出来るように裏方でサポートすること。裏方といってもライブなんかの舞台裏に行くことはないけれど、事務的な手続きとかで彼らを支えている…つもりである。

「あれ〜なまえちゃんさあ、なーんかいつもとちがくない?」
「えっ?」
「顔色わる〜い。風邪でもひいた〜?」
「あーいや、そういうんじゃ…」

 ちょっと、昨日飲み過ぎちゃっただけです。
 図星を突かれたものだから、つい吐く必要のない嘘を言ってしまった。依都さんは一見適当なひとに思えるけれど、実はちゃんとメンバーのこともわたしたちスタッフのことも見てくれている優しい人だ。わたしみたいなたまにしか会わない、しがない事務の体調を気遣ってくれるし。それなのに嘘を言ってしまったのは申し訳なかっただろうか。…ま、まあいいか。特に困ることもないだろう、たぶん。

「ふうん?ま、いいけど〜」

 お酒はほどほどにね〜って俺が言えたことじゃないけど。
 わたしと同じ目線の高さになるように腰を少し曲げた依都さんの手がわたしの頭をぽんぽんっと励ますように撫でる。胸元で揺れるシルバーのネックレスとその素肌に彫られた刺青に視線をやってしまいながら、わたしは曖昧に笑った。喜んではいけない。依都さんからすればこういう行動はただのスキンシップであり、そこには意味などないのだから。わたしは懲りずに、それにもまた寂しさを覚える。もちろん、どうすることもできない。


「っ…」

 本当に今日はダメな日だ。一向に頭痛も吐き気も治まる気配がないし、なんとなく寒気もする。膝掛けをかけなおして、駆け抜けていく悪寒にぶるりと鳥肌を立たせたときだった。ぽんぽん、とわたしの肩を叩く手。顔をあげれば上司が心配そうな面持ちでわたしを見ていた。

「なまえちゃん、今日はもう帰っていいよ」
「え?」
「具合悪いんだって?ごめんね気付いてあげられなくて」
「えっあ、いやその、」

 なんだ、その人伝に聞いたような言い方は。まさか、依都さんが伝えてくれたんだろうか?いやいや、そこまでするだろうか。…そんなに、わたしの顔色は悪かったのだろうか。そんなことをぐるぐる頭の中で考えながら、『体調が戻らないようだったら明日も休んでいいからね』と言ってくれた上司の言葉に甘え、何度も感謝しながら、早めにオフィスを出る。

 きっと、やっぱり、依都さんが上司に声をかけてくれたんだと思う。お礼をしたいな、と思ってももちろん連絡先は知らないし、マネージャーであるこのはちゃんに聞けばわかるだろうけどそんなことをするのは失礼だろう。今度また会ったときに、直接言おう。そう心に決めてタクシーを呼び止めた。




「依都さん!」
「ん?あ〜」

 いつものなまえちゃんじゃん。
 突然呼び止めたにも関わらず、振り返った依都さんは急いで駆け寄るわたしを見るとそう言って、笑顔を見せた。今日も薄着でオシャレな格好をしている。寒そうだ。風邪引かないといいんだけど。
 あの日、体調を崩して依都さんの心遣いで早退させてもらえた日、結局家に帰ったあと熱をだして、次の日も休んでしまった。ぐっすりと、そりゃもうぐっすりと眠ったお陰で熱も頭痛も吐き気も、起きたときにはケロッとなくなっていた。やっぱりただ休息が足りなかっただけみたいだ。風邪とかじゃなくてよかったけど、もうちょっとうまいこと体調管理していかないといけない。

「あ、あの、この前はありがとうございました。気を遣っていただいてみたいで、」
「え〜?別に気なんか遣ってないよ。寧ろ気ィ遣ってんのはそっちでしょ〜」
「え?それってどういう、」
「だって、具合悪いくせに二日酔いとか嘘吐いちゃってさ〜」
「う、うそじゃない…です」
「ふうん?ま、どっちでもいいけど」

 またいらぬ嘘を吐いてしまった。どうして依都さんの前になるとこう、思うように口が動かなくなるのだろう。不思議だ。そう思いながら、『本当にご心配おかけしてすいませんでした。これ、つまらないものなんですけど…』と感謝の気持ちをこめて選んだそれを渡した。依都さんは袋にはいったそれを受け取り、袋の中身を覗くや否やきょとんとした顔をして、わたしの顔を凝視する。

「なにこれ」
「えっ…貝ひもです」
「貝ひも」
「そうです」
「貝ひも」
「そう」

 ま、まずいチョイスだっただろうか!いつ会えるかわからなかったから生ものはだめだし、かといってチョコとかは甘いものが好きじゃなかった場合迷惑になるだろうし、酒飲みの依都さんにはきっとつまみがあうだろう!と選んだのが、この貝ひもだったのだけど。目をぱちくりさせてる依都さんに恐る恐る声をかけると、肩を小さく震わせて…どうやら笑っているらしかった。

「あっはっは!女の子に初めて貝ひもプレゼントされた〜」
「あの、なんか…すいません、その。女らしくなくて」
「んーん、いいと思うよ〜」
「その辺のコンビニで買ったやつじゃないですからね!わたしのおすすめなんです、てりやき風味なんです!」
「へ〜美味そうじゃん」

 有難く頂いておくよ、と言ってくれた依都さんにほっと胸を撫で下ろす。はあ、よかった。依都さんにお礼と粗品をプレゼントするというミッションは達成されたので、そろそろ仕事に戻ろうと思います。じゃあわたしはこれで、とデスクに戻ろうとすると待って、と声をかけられる。

「? はい」
「これ、一緒に食べない?」
「…えっと?」
「だから〜今度俺の晩酌に付き合ってよって言ってんの」
「…わたしがですか?」
「わたしがです〜」

 首を傾げて、目を細めて。どうなの〜とにじり寄ってくる依都さんに肩を竦めながら細かく頷いた。こんなこと、一生に一度あるかないかの機会だ。それに折角依都さんが誘ってくれるんだし。きっと2人きりなわけでも、ないだろうし。

「…わたしなんかでよければ、ぜひ…」
「う〜ん、わかってねーな。君がいいんだよ〜」
「えっ」

 いますごく意味深なことを言いましたよね!?顔をあげて依都さんを見ると愉しそうに口角をあげてわたしを見下ろしていて、その妙な色気に、言葉を発しようと開けた口からは空気が漏れただけだった。KYOHSOのYORITOが目の前にいる。なぜかそんな当たり前のことを思ってしまった。わかっていたはずなのに、改めて痛感した。わたしはいまKYOHSOのYORITOの晩酌に付き合うように誘われたのだと。

「あ、そうだ。LINEやってる?教えてよ」
「あ、は、はい」
「連絡先知らなきゃお誘いもできないもんね〜」

 KYOHSOのYORITOだと再認識したにも関わらず、今度はなんだかナンパのお兄さんみたいだと思ってしまって、小さく笑いを零した。ばれないようにそうしたつもりだったけど依都さんに聞かれてしまったらしい。なに笑ってんの?とわたしの携帯と自分のを操作しながらそう尋ねてくる。そのあと小さい声で『ID検索ってどこでやんだっけ?』と零していたのをわたしの耳は拾っていたけど、すぐに解決したようだったのでそのことには触れなかった。

「いや、なんかナンパみたいだなって」
「ナンパねえ…ま、あながち間違ってないかもしれないよ」
「え?」
「よ〜し登録完了!じゃ、今度連絡するね〜」
「えっあ、はい」

 また意味深なことを言われた気がする。わたしが頭の周りにハテナを浮かべている間に依都さんは『じゃあまた〜』とくるりと踵を返していた。わたしから離れていく背中にもう一度、ありがとうございました!と声をかけるとこちらを振り返ることなく『どいたま〜頑張り過ぎないようにね〜』という言葉とともにひらひらと手を振ってくれた。
 さすが、かっこいいなあ。ぽやぽやと少しだけ頬が熱くなるのを感じながら暫く携帯を握ったまま固まっていると、その現場をLiar-Sの芹くんに目撃されとても心配されてしまった。大丈夫ですかと詰め寄ってくる芹くんをなんでもないよと笑いながら誤魔化し、逃げるように慌ててデスクに戻った。来るかもわからぬ連絡を、待ちわびる日々が始まる。


20150312 ちゃんとやすんでください スペシャルサンクス:妹子
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