『拝啓 檜山朔良さま』なんてふざけた一文から始まる長文のメッセージを送信してから、持ち上げていた腕をぼすんと布団におろした。はあ、と溜息を吐こうとしたらその息が喉に引っかかって耳に響くような咳がでる。数日前から体調の悪い日が続いていたけど、まさか今日という日に(厳密に言えば昨日の夜なんだけど)熱がでてしまうとは、ほんと最悪だ。最悪以外のなにものでもない。今度こそ深い息を吐き出して、ゆっくりと目を瞑った。カーテン、開けてないけど、今日がいい天気だってのは隙間から入り込んでくるあったかそうな日差しでわかる。クソ。せめて土砂降りとかだったら諦めがついたかもしれないのに。
 さっき送ったメッセージの内容は、今日熱が出ちゃって会えなくなったことをふざけた文面で書いたものだ。こんなバカな文章打てるならまあ元気なんだろ、と思わせるためのわたしなりの作戦だ。うまくいくかなんて知らないけど。

「…あ〜あ」

 会いたかったなあ、と思いつつ自分の発した声がかっすかすのまるで酒焼けしたようにしゃがれたものだったので思わず笑ってしまった。
 ちら、と視線を移した先にはハンガーにかかってる、今日着ちゃおっかななんて浮かれた思考で買ってみたちょっときれいめなワンピース。普段あんな服着る勇気ないけど、たまにしかできないデートぐらい女の子らしくしておこうと思って買ってみたワンピース。デート当日に熱がでたせいで着れなくなった、ワンピース。
 いやでも、よくよく考えると寧ろこうなってよかったのかもしれない。熱がでてないにしたってこんな風邪っぴきな状態で朔良に会って移してもいけないし、たまの休みだからゆっくり休ませてやれっていう神様の思し召しだったんだと思おう。そうじゃなきゃ凹みすぎて死にそう。

 朔良にも用件は伝えられたことだし、体調もあまりよくはないし、早く治すためにも寝よう。そう思って持ったままだった携帯をサイドチェストに置こうとしたら、そいつの真っ暗だった画面がぽうっと明るくなったのが見えた。え、と思って慌てて確認すると新着メッセージが表示されている。朔良から、猫が顔を青くさせている絵文字が1つ送られてきていた。朔良がこんな早く既読をつけるなんて、ていうかそもそもこんな早い時間に起きてるなんて珍しい。まだ待ち合わせの2時間前なのに。絵文字と言えどそんなのを送ってきたってことは、朔良もショックに思ってくれてるってことなのかな。

「(あーでもアンドロイドって絵文字ちがうんだっけ)」

 前に俺のと絵文字の見え方が違うとかなんとか言ってたような。(若干ショックを受けてた気もする)アンドロイドだとこの真っ青な顔した猫がどういう絵文字だったか覚えてないけど、確かアイフォンのよりは可愛かった気がする。…まあそんなことはどうでもよくてだな。
 取り敢えず、わたしの体調のせいで朔良の予定を狂わせてしまったことを謝るために「ごめんね、朔良」と打とうと、ら行に指を置こうとしたときだった。急に青空の画面から黒い着信画面に変わって、朔良の『ら』を打とうとしていた指先が緑色のボタンを押してしまった!電話、とっちゃった!やば!いま声がっさがさなのに!
 慌てて携帯を耳に押し当てるとすぐに『何度?』という低い声が聞こえた。もしもしくらい挟んだらどうなの、と思いつつ朔良の声を聞けたことに純粋に喜んでいたりもする。だけど、この声聞かれるのやだなあ。でもこのまま切るわけにもいかないし、かといって無言でいるわけにもいかない。どうしようかと悩んでいると心なしか心配そうな朔良の声がわたしの名前を呼んだ。...やっぱり、ちゃんと答えないと。

「...っと、さんじゅ、なな、ど、はちぶ」
『声ひっで』
「ん」

 いつもなら文句のひとつでも言い返すところだけれど、余計なことを言う元気はなかった。それに、朔良の言う通りほんとに酷い声だし。(だからあんまり聞かれたくなかったのに)がらがら声で改めて、ごめんねと伝えると、『いい。お前の体のが大事』なんてすごく彼氏っぽいことを言ってくれた。お前の体のが大事、だって。(へへ!)きゅん、とわたしの心が喜びの声をあげて、思わず布団をぎゅうっと握りしめた。

 わたしがこんなに朔良に謝ってしまうのは、予定を狂わせてしまったこともあるけれど、朔良は今日のデートで、彼の好きなゲームのお店に行って今しか受け取れない色違いのモンスターをもらう予定だったことにある。コンビニで受け取れる企画とかには仕事の合間を縫って行けるけどセンターの方には行けてなかったから丁度いい、とこの前話していたばっかりだったのに。はあ、わたしのせいで。(まあ別にわたしが一緒に行ったからってなにか変わるわけでもないんだけどね)そのことを思い出してついごめん、ともう一度零してしまうと向こうで溜息を吐く音がした。

『気にしなくていいから』
「...ん、」
『あとこれからお前んちいく。悪いけどあとで鍵あけて』

 えっ!というわたしの声は恐らく朔良の耳には届いてない。どうしてって、速攻で電話切られたから。これ、檜山くんの悪いクセね。自分の用件だけ伝えたらすぐ切るやつ!
 ていうか、え〜ほんとに来るのかなあ。うちなんか来てないで、色違い貰いに行ったほうがいいと思うんだけど...と思いつつ、ちょっとだけ口元が弛む。移したらいやだから、来ないでほしい。でも顔見たいから、来てくれたらすごい嬉しい。でもやっぱり、色違いをもらいに行ってほしい。だけど風邪のせいで心細くなってるのも確かで、なんて自分の中でとりとめのない葛藤を続けているうちに、いつの間にかころっと眠ってしまった。

▽▽

 次にわたしが目を覚ましたのは朔良がピンポンを鳴らした時だった。慌てて飛び起きてマスクを着けて髪を軽く直して、少しふらつく足に鞭を打ちながら玄関に向かう。ドアの前に立って今まさに施錠を外そうとしたとき、ふと鍵を縦に廻そうとした手を止めた。やっぱり、移したらまずいよなあと考え直したわたしは、チェーンをかけた状態で鍵を開けることにした。こうすれば、朔良は家にあがってこれないしわたしは朔良の顔だけ見ることが出来る。...とっても失礼なことをしているとはわかっているけど、しょうがない。わたしと違って朔良が風邪を引いてしまうと色んな人に迷惑がかかるからだ。そう、これはしょうがないことなんだ。自分に言い聞かせて、そうっとドアを開ける。

「よ」
「まじできたの...」
「ん。看病しにきた」

 風邪っぴきのところにくる用なんて、それしかないよね。わかってたはずなのに、本人の口から聞けたのとその手にあるスーパーの袋にどうしたって嬉しくなってしまう。でも、だめだ。移しちゃうかもしれないから。わたしが何も言わずに固まっていると朔良がチェーンを一向に外されない状態を見て、仏頂面を少しむっとさせた。おい、と低い声に急かされる。朔良が言わんとしてることはわかってる。なんでチェーンがかかったままなのだ、と。早くいれろ、と。わかってるけど、だめなもんはだめだ。
 掌をきゅっと結んでから、『ありがとね』と発する。さっきより喉の調子は良くなっていた。

「うつしちゃうと悪いから」
「は?」
「いや、は?じゃなくて...」
「看病」
「だ、大丈夫だから」
「なまえ」
「ほんと、うつったらまずいから、ね」
「うつんねーから」
「そうかもしんないけど...絶対じゃないじゃん」
「絶対」
「...その自信はどこからくるの」
「俺から」

 なんであなたの風邪はどこから?風になってるんだ。ちなみにわたしは喉からだ。
 朔良は一向に引く気配はなくて、なんだったらわたしがドアを閉められないように隙間に片足をいれてきている。ほんとはわたしだってうちに上がってほしい。(あんまり片付いてないけど)あがってほしいけど、でも、だけど。わたしが再び口を開こうとすると、それより先に朔良がなまえ、と言ってスーパーの袋を持っていないほうの手でわたしに触れてきた。自分の体温がいつもより高いこともあって、その指先は小さく身震いしてしまうほど冷たかった。

「看病したい」
「さ、くら」
「させて。頼む」

 朔良のことを思うならここは意地でもNOと言うべきだったんだろうけど、ここまで言ってもらえてるのにそんな返答をできるほどわたしはデキる女じゃなかった。もうむり、拒めない。すきにして。諦めて、朔良に足を引っ込めてもらい一度ドアを閉めてからチェーンを外した。そしてもう一度チェーンを外した状態のドアを大きく開けると、あんがと、と言った朔良が満足そうな顔をして立っていた。お礼を言わなきゃいけないのはこっちの方だ。すれ違いざまにありがと、と小さな声で言うと無言で頭を撫でてくれた。わたしは思った。幸せだと。

 朔良はふらふらしているわたしを布団に押し込むとスーパーの袋からまず冷えピタを取り出して、それをわたしのおでこにぺたりと貼り付けた。わ〜冷えピタなんて貼ったの中学のころ以来かも。冷たくてきもちい。それが顔に出ていたのか、ふっと鼻で笑ったあとまた頭を撫でられる。つられてわたしも笑ってしまった。

「メシは?」
「食べてない」
「薬は」
「...今日はのんでない」
「ん」

 じゃあメシ作るか、と袋の中を覗き込みながら腕まくりをしている朔良に料理できんの?と尋ねれば、すぐに『食べる専門』と返ってきた。ですよね〜、よく先輩にご馳走してもらったりしてるもんね。
 質問しておいてなんだけど一人暮らしは長いだろうから作れないことはないとは思ってる。でも朔良が人のために料理するなんて想像つかないな。もちろん彼の作ったご飯にありつけたことはない。

「でも今日はシェフになってやる」
「えっほんと?」
「おう。檜山シェフと呼べ」
「シェフ!」

 嬉しくてつい半ば叫ぶようにそう言ったら、声が喉に引っかかって盛大に、いかにも風邪っぴきの咳がでてしまった。あんまり聞かれたくなくて、移したくもなくて、慌てて頭から布団を被ってなるべく音と菌が漏れないようにした。咳を一つするたびに、脳に響く。つらい。風邪つらい。漸く喉に痛みが広がるような咳が収まって、そおっと目元まで布団を引き下げてみるとすぐそばに朔良の顔があってすっごいびっくりした。

「だいじょぶか」
「ぁ……ん、ごめ、ね」
「ちゃちゃっと作ってくるから寝てろ」
「ん...ありがと、」

 また、頭撫でられた。なんだか朔良んちの猫になった気分だ、こんなに撫でられてばっかりだと。嬉しい。体は相変わらずしんどいままだけれど、心が軽いというかあったかいというか。心だけちょう元気!みたいな。ガサガサと袋が鳴る音とか、コンロにお鍋が置かれる音とか火をつけるときのチッチッチッと鳴る音だとかを聞きながら目を瞑ったら、あっという間に意識が遠のいていく。眠りにおちる前に、朔良がおやすみと言ってくれた気がする。あーあ、朔良がずうっとうちにいてくれたら、いいのになあ。

▽▽▽

「食える?」
「ん、たべる」

 どれくらい眠ったかわからない。体を揺すられる感覚に重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、すぐに鼻孔をあったかくて優しいにおいが擽った。朔良が作ってくれたのはおかゆだった。しかも卵がゆ。体を起こすのを手伝ってもらいながらおかゆのはいってるお椀を覗くと、ほわほわと湯気を出している薄黄色のそれに、さっきまでちっともなかった食欲がわいてきた気がした。
 上半身を起こして、マスクをずり下げる。剥がれかけてた冷えピタを額に押さえつけたあと、朔良からおかゆを受け取ろうと手を伸ばしたけどちっとも渡そうとする気配はなく、行き場のないわたしの両手は宙を彷徨っている。え〜...ええっと?戸惑っていると、朔良が蓮華(我が家にはないから、多分朔良がさっき買ってきたんだと思う)で一口掬ってそれに息を吹きかける。所謂、ふーふー、してくれている。嬉しいけど、あー、やっぱそうなりますか。わたしの視線に気付くと『猫舌だろ』と言われた。いやそうだけども。

「ほい、あーん」
「ええ…」
「はよ」
「...あ、あーん…」

 どこか気恥ずかしかったけれど、ぐいぐいと迫り来る蓮華に口を開くほかなかった。
 シェフのお陰で丁度いいくらい熱さになったほんのり塩味のそれを軽く咀嚼して、喉奥に流し込む。ちょっぴり傷付いた喉にしみるけど、美味しい。ただの卵がゆ(って言い方したら失礼だけど)なのに、朔良が、わたしのために作ってくれたってだけでどんなものよりもご馳走に思えるし、風邪のせいで弱ってるせいかちょっと泣きそうにもなる。おかゆだけど。

 素直に美味しいことをシェフに伝えると、朔良はドヤ顔で『ウィ』と鼻を鳴らした。でも、わたしはちゃんと見ていたぞ。一瞬だけ、ほっとしたような顔をしたのを。多分、心配してくれてたんだよね、ありがとね。心の中でそう思いながら、雛鳥のように口を開けるともう一度わたしの口元に蓮華を運んでくれた。

「家族以外におかゆ作ると思わなかった」
「ご家族には作ったことあるんだ」
「ん…親父が風邪引いたときとか、たまに。姉貴が俺に作ってくれたの思い出しながら」
「そうかあ…じゃあこれは檜山家の味なんだね」
「ん。これでお前も檜山家だ」
「え」
「ほれ、もっかい口あけて」
「う、うん…」

 どきりとする発言だったような気がするんだけど、そう思ったのはわたしだけか。わたしだけみたいだ。
 結局朔良は親鳥の如くおかゆをわたしの口元に運び続け、熱を測り、薬を飲み、歯を磨き。着替えも手伝うと言われたけどそこは一応、丁重にお断りした。ただ、着替えのTシャツを持ってきてくれるときに下着の入ってるところも覗いてたの、わたし知ってるぞ檜山朔良。チェックするな人の下着を。今日は見逃してあげるけど。
 眠る準備を全部済ませて肩まで布団をかぶると、近くに腰を下ろした朔良がベッドの上に顎を置いて小さく咳をするわたしを見つめる。意外と顔が近くて、でもなんとなくその顔を見ていたくて、口元まで布団をずり上げた。

「さくらあ、ごめんね」
「なにが」
「せっかくのお休みなのに」
「別に。いいからとっとと治せ」
「ん、ありがと」

 適当に帰っていいからね。
 こほこほと咳混じりにそう言うと、朔良はじいっとわたしに向けていた視線を逸らして、なにか考えているような…いや、思い出しているように宙を見上げながら唇を突き出して、んー、と唸った。それから再びわたしに視線を戻し、なあ、と口を開く。

「手、握ってやろうか」
「えっ」
「やならいい」
「や、ややや…や、じゃない、けど」
「ん」

 布団の端が少し持ち上げられて、そこから少し冷たい空気と朔良の手が入り込んできてわたしのを掴んだ。最初はわたしの手を包むように、それから手の甲に自分のを重ねたままの状態でゆっくりとわたしの指の間に朔良の骨ばった指がはいりこんでくる。あったけ、と呟く朔良にまさか暖をとるために?と一瞬思ったけれど、まあそれでもいいや。今は大抵のことは許してあげる。朔良がこれだけお世話してくれたんだもん。ありがと、という気持ちをこめて、わたしも少しだけ指先に力をこめた。
 自分の体温ですっかりあったまった布団の心地よさと、朔良に手を握ってもらっている安心感で少しずつ微睡始めたわたしに気付いたのか、朔良のおやんみ、という声が静かに響く。

「さくら…」
「ん?」
「んー……へへ…」
「なんだよ」
「や、…すきだなあ、…って」
「……お前」

 ほぼ無意識に口が動いていたから、自分でもなんて言ったかよくわかってなかったけど朔良が盛大に溜息を吐いたのは聞こえた。なんでそんな溜息吐かれたんだろう。もう目を瞑ってしまっていたからその表情はわからなかったけれど、なにか怒らせてしまうようなことでもいっただろうか、とふわふわした頭で思っていると繋がれていた手がするりと解けていった。あ、と声なき声が漏れる。やっぱり寝ぼけてなんかおこらせること、いっちゃったんだ。あやまらなくちゃと、眠気が乗っかって重たい瞼をなんとか持ち上げるとちょうど朔良が布団を捲って隣に潜り込もうとしているときだった。え?なんで。ぼやけていた意識が急速にクリアになっていく。はいってきちゃ、だめだ。

「ちょ、さくっ、」
「やっぱむり」
「へ?」

 成人2人が並ぶのに適していないベッドはぎしりと小さな悲鳴をあげた。朔良はわたしがどんなに押し返そうとしたって退く気配はなく、容赦なくわたしを抱き締めてきたのでせめてもの抵抗として朔良に背を向ける形で妥協することにした。ぎゅうぎゅうと抱き締められて、ぶっちゃけ嬉しいとは思うけど。でもほんとに移したくないから。朔良の仕事の邪魔になるようなことはしたくないんだってば!なんでわかってくれないの。

「も、うつるっていってるのに、!」
「うつんねーよ」
「ばか」
「やだ」
「…なにが」
「近くにいんのにさわれねーとか、やだ」
「さ、さくら、」
「はやくなおせ」

 ばかなまえ、という声がわたしの背中あたりで響く。うなじのあたりに朔良の髪の感触があった。
 わたしだってほんとはもっとべたべたしたいもん。風邪なんて引きたくなかったもん、ばか。(いや自己管理ができなかったわたしが悪いんだけど)そう思いながら、おなかのあたりにある朔良の手に触れた。さっきとは逆。今度はわたしが朔良の手の甲に自分の掌を重ねる番だった。ぐりぐりと背中に額を擦りつけられる。前に朔良が言っていた、『猫がでこを擦りつけるのって、マーキングらしい』ってやつを思い出す。なんでも自分のにおいをつけて、これは自分のだぞ〜って示す意味があるらしい。朔良がいまやってるのも、そんな意味が込められてたらいいのになあ。

「なあ」
「なに?」
「こっち向いて」
「…なんで」
「いいから」

 嫌な予感がした。だから、首を振って、嫌だと言おうとしたのに朔良はそうされることを恐らく予期していたのだろう、上半身を起こしてわたしにのしかかるようにしてきて迫ってきた。わ、と思ったときにはマスクは摘まんでずり下げられており、新鮮な空気を吸い込むよりはやく朔良の唇が一瞬だけ触れた。驚き固まるわたしの様子を見ていけるとでも思ったのだろうか、掠れた声でもっかい、と言われたかと思うとわたしが抵抗する間もなく再び、触れる。ちゅ、なんて可愛い音までつけやがって。

「っ、朔良!」
「めんご」
「ほ、ほんとにうつったら、」
「咳がでる」
「そういうことじゃない!」

 いやもし移ったら確かに咳はでるんだけど!そうじゃあないんだよ!
 言いたいことはたくさんあるのに、息が喉に引っかかって激しく咳き込んでしまう。マスク、ないのに。せめて自分の中にウイルスが戻っていくようにと、ばかなことを考えながら両手で強く口を抑える。朔良はわたしの背中を摩っていた。もう、なんでわたしが一生懸命移さないように努めてるのに、こんなことするの。キスがうれしくないわけじゃないけど、わたしだってもっとキスしたいけど!わたしは朔良の…ってこれ以上は、口酸っぱく言いすぎてもはや言いたくない。

「ごめん」
「っし、らな、っ、」
「…俺のこと考えてくれんのはわかるけど」
「っぁ、え、?」
「具合悪いお前ほっとくほうが風邪引くよりしんどいから」

 『俺に移してお前がなおんなら、俺に全部寄越せ』
 漸く咳が落ち着いたってのにそう言ってまたキスしようとしてくるから、止めようと慌てて体を押し返すけどその手は朔良にベッドに押し付けられてしまったから、もう勝てない。今度はさっきまでの優しいキスなんてもんじゃなかった。舌で唇をこじあけられて、隅々まで舐め尽されるような、今日のわたしの努力がすべて無駄になってしまうようなキスだった。もう知らない。ばか朔良。風邪引いて寝込んで各方面からこっぴどく叱られろ。少しだけ滲んでしまった涙を、朔良は見逃さなかった。親指でそれを拭いながら宥めるようにわたしの頭を撫でる。

「俺はういるすなんかにまけねーよ」
「……しらない」
「俺が負けんのはお前の泣き顔だけ」
「うるさい」
「ん」

 いいからもう寝よ、だなんて至極勝手なことを言ったかと思えばわたしを自分の方へ向けさせて、今度は真正面から抱き締めてきた。マスクは、朔良が遠くに放ってしまっていた。朔良の胸元に顔を埋めながらわたしの努力かえして、と涙声で言ったってもう朔良はなにも言わない。その代りわたしを抱く力を込めて優しく頭を撫で続けるだけだ。
 …こんな、看病なんてしてないで自分の休日を謳歌すればいいのになあ。ばかな朔良。…ああ、そっか。バカは風邪ひかないんだった。じゃあほんとに朔良は風邪ひかないのかもしれない、ばかだから。それなら、最初から遠慮しないでごほごほして、甘えて、ワガママ言いまくっておけばよかったかも。卵がゆおかわりって、言ってやればよかった。わたしの努力を台無しにしてくれたのはちょっと許せないけど、でも朔良がわたしをどう思ってくれてるのかを痛いほど知れてしまったのも確かで、嬉しくないわけがないだろあほか。ぎゅっと目を瞑って朔良の胸に額を擦りつけた。マーキングだ。わたし以外に卵がゆ作ってあげるなんてことがないように。


20151213 段々と我慢できなくなっていく檜山朔良(思い出してたのは風邪をひいたときにしてもらって嬉しかったこと)
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