「忍はやっぱり音楽に生きるべきだって思ってたんだよね〜」

 2人分のコーヒー(正しく言えば、1つはカフェオレだ)を淹れてリビングに戻るとなまえが俺たちが掲載されている雑誌を広げながら、うんうんと頷いていた。彼女の手元にあるのは先日発売したシングルについてインタビューを受けた記事が載っている、発売したばかりの音楽雑誌だ。
 喜ばしいことに最近、こうして雑誌やメディアに取り上げてもらう機会が増えた。彼女はそれを欠かさず購入し、録画し、チェックしてくれている。時には俺自身知らない情報だって持っていたりするのだから驚かされるものだが、そこまで熱心に追ってくれてるのは純粋に嬉しい。…ただ、それを本人の目の前で広げて感想を述べるのはやめてほしいと前々から言ってるが、なまえはお構いなしだ。気恥ずかしくなってしまう俺をからかっては笑う。

「これかっこいいよね、この髪おろしてるやつ。いつもと雰囲気が違ってさ」
「髪をおろしているところなんてお前にしてみれば珍しくもないだろう」
「黒沢忍のはね!これはapple-polisherのKuroさんの話!」

 どちらも俺に変わりはないんだが…まあ、いいか。
 惚けたようにもう一度かっこいいなあ、と呟くなまえにカフェオレの柔らかな色が揺れるマグカップを渡せば、礼を言って小さく立ち上る湯気にほほ笑んだ。だが、すぐににおいに気が付いて唇を尖らせるだろう。もう夜もだいぶ更けている。彼女が甘党なのはいやというほど知っているが、今は砂糖はなしだ。決して意地悪をしたいわけではないが、この前自分の腹の肉をつまみながら肩を落としている姿を見てしまってはそうせざるを得ないだろう。なまえのことを思ってのことだとわかってほしいところだが、どうだろうな。

「…甘くない」
「少し絞るんじゃなかったのか」
「うっ」

 そ、そうだけど…と語尾にかけて声を萎ませていくなまえに思わず口角があがる。俺からしてみれば、そこまで気にするような体形ではないと思うのだが、…まあ、こういった類の話に関しては今までの経験からして女性とわかりあうことは出来ないというのは知っているから、何も口出ししないことにしている。彼女の思う通りにさせておくのが一番だ。つくづく女性は難しい生き物だと感じる。
 コーヒーを一口飲んだ後、ソファに深く腰掛けると、その瞬間を待っていたかのようになまえが体を寄せてきた。手元の雑誌に視線は落としたまま、俺の体に沿ってずるずるとその体は傾いていき、最終的に彼女の頭は俺の太ももの当たりに落ち着く。女性のような柔らかさなど持ち合わせていない俺の腿など硬くて居心地が悪いだろうに、なまえはここに頭を置くことを好んでいた。

 なまえの読む雑誌の表紙を飾るのは、うちの事務所の看板バンドKYOHSOの面々だ。インディーズの頃から彼らのことは知っている。いずれ彼らが今の地位を築くバンドになるであろうことは、当時そのサウンドを直に感じた人間ならば誰もが想像できただろうが、まさかそのKYOHSOと同じ事務所に俺や有紀が所属することになるなんてことは、誰も想像しえなかっただろう。俺たち自身、時たま酒を酌み交わすときにはいつも現状が信じられないと口に出さずにはいられない。

「すごいね〜、こんなにライブするんだ」
「ああ。有難いことにな」
「まあ成海くんのあの人並み外れた美声にToiくんのカッチョイ〜イドラムと有紀のクールでホットなギター!そして我らが黒沢忍の最高にかっこいいベースの音が重なればね!そりゃもうこわいもんなしだもんね!」
「なにを言ってるんだ、お前は」
「わたしの大好きなapple-polisherのはなし!」

 俺の膝の上でごろごろと頭を揺らしながらなまえは楽しそうにそう話す。
なまえは、俺がまだサラリーマンをやる前、バンドマンとして食っていこうと足掻いていた時に出会った女性だった。他のバンドを目当てにやってきたライブハウスで俺たちの演奏を聴き、惚れ込んでしまったのだと初対面にもかかわらず熱く語ってきた姿を思い出す。
 なまえは素直でまっすぐな女性だった。好きだと思えばそれを全身で伝えてくるし、嫌いなものは嫌いだとはっきり言う。異性として好意を持ったのはいつだったのかなんてもう随分昔のことで覚えていないが、なまえといる時間は心地が良く彼女の話に耳を傾けるのが好きだったことは覚えている。そうして気付けば俺の隣になまえがいるのが当たり前になっていて、俺も気付けば、はぐれないようにその小さな手を握っているのが常になっていた。
 俺みたいな堅物でつまらない人間より、ひろとや有紀のような女性の扱いに慣れてる奴といたほうが楽しいだろうにと思う反面、俺の傍から離れなければいいのにと思う自分がいることに気付いた時、俺はなまえに告白をした。初めて、だった。自分でもなにを言ったか覚えていないし思い出したくもないが、なまえが首がちぎれんばかりの勢いで頷いてくれたこと、顔を真っ赤にさせていつものように全身で嬉しい気持ちを表現してくれた光景は、今でも鮮明に覚えている。ああ、思い出すだけで笑みが零れてしまいそうになるほどだ。

「でも、そっかぁ〜…すごいなあ」
「すごい?」
「うん。すっかり売れっ子バンドだなあって」

 なまえはそう言って、ほう、とカフェオレの湯気と共に柔らかなミルクの香りがする息を吐きだした。
 売れっ子バンドかはわからないが、徐々に軌道に乗れている…そんな気は、俺自身も感じていた。だんだんとスケジュールが埋まっていき、新曲制作の話が持ち上がり、レコーディングの日が決まる。撮影の合間にはインタビューを受け、休憩時間にはツイッターのリプライを読み、ツイートをする。
 サラリーマンをやっていた頃とはなにもかもが違う。きっちりとスーツを着込み、満員電車に揺られ、パソコンの前に座り、帰って飯を食い風呂に入って眠ることを繰り返す日々とは違い、なにもかもが新鮮で、どんなことにだって静かに鼓動がはやくなり、高揚感が全身を包むような毎日だ。
 この世界に戻ってこなければ、そこそこの地位についてそこそこの収入を稼ぎ、ある程度安定した暮らしを得られていたのに、と周りに言われることも少なくなかった。俺自身も勿論それを考えなかったわけではないし、夢など語っていられる年齢でないこともわかっていた。それにこれは俺だけの問題ではない。なまえのことを考えれば今更会社を辞めて先の見えない音楽の道に戻ることなど、決して選ぶべきではなかった。

「見てよこの忍!めっちゃ笑顔なんだけど!」
「ああ…ほんとだな」
「忍ももっと笑えばいいのに。にこ〜ってさ」
「俺がにこぉっとしていたら気持ち悪いだろう」
「そんなことないもんばか」

 頬を膨らませたなまえに雑誌の角で腕の当たりを叩かれた。地味に、痛いな。
 ただなまえに見せられた俺は、自分で言うのはやや憚られるが、確かに楽しいことこの上ないといった表情をしていた。すっごい楽しそう、忍。嬉しそうにそう呟いたなまえに俺は黙って頷くほかなかった。

 バンドをやりたい。成海と有紀と、夕星と。あいつらとバンドがやりたいんだ。
 いい歳した一丁前の男が、自分の夢を追うことを諦めきれずに情けない姿を彼女に晒したあの夜のことを思いだした。何故だかその日はやけに静かで、外で羽を擦り合わせる鈴虫の声や枯葉が風に弄ばれる音、それから自分の心臓の音まではっきりと聞こえていた。そんな夜に、俺は自分の中の全てをなまえに吐き出した。俺自身なまえと別れたい気持ちなど一切なかったが、彼女がそれを望むのならば受け入れるつもりだった。幻滅されても非難されてもどんな仕打ちを受けても仕方ないと、覚悟を決めていた。
 だが、なまえは俺の予想していた行動は一切せず、ただただ優しく俺の頭を撫でながら、『わたしからもお願いだよ。またバンドやって、しのぶ』と涙を流しながら笑っていた。まったくもって彼女がどうしてそんな言動をしたのか俺にはわからなかったが、思わず熱くなった目頭に顔を顰めてしまったことを覚えている。

「いやね〜…すごいねやっぱりね」
「さっきからそればかりだな」
「だってほんとにすごいんだもん。ちょっと前にデビューしたばっかりなのに」

 まあ売れてくれなきゃ困るんだけどね!と冗談めかして笑うなまえに、そうだなと俺も笑った。ごろごろと、再びなまえが俺の腿の上で動き出す。その振動を感じながら彼女のマグカップに手を伸ばして、口へ運んだ。いつもブラックしか飲まないが、たまにはカフェオレもいいものだ。

「このNaLちゃん可愛い〜」
「…」
「あーこのToiくん色気あるな〜有紀くんは…はまったらだめな男ってカンジ」
「UKだけやけにリアルな感想だな」
「えへ。…でもやっぱKuroさんがかっこいいかなあ」
「またお前はそうやって、」
「ん〜だってほんとのことだし。あー…ん〜…やっぱりあっぽり最高っぽり〜…」
「…なまえ?」

 いつものように冗談を言うその声が、心なしか震えているような気がして、視線を落とす。雑誌で顔が隠れているから表紙のYORITOさんとひたすらに目が合うばかりでなまえの表情を窺うことはできないが、先ほどまで聞こえていなかったはずの鼻を啜る音がやけに大きいことに気付く。水気を含んでいるその音に、彼女の顔を覆っている雑誌を退かそうと試みるが、案外細い指はしっかりとその紙を握りしめていた。困った。どうしたものか。

「どうした。具合でも悪いか」
「わるくない」
「…なまえ」
「わるくないってば」

 なまえは完全に雑誌を顔に押し付けていた。俺にはそれを剥がすことは出来ない。だがこのまま放っておくことは、到底無理な話だった。
 せめても雑誌に覆われていない、晒された額に触れる。前髪をそっと手で避けて生え際の辺りを擽るように撫でると、なまえはふるふると首振って俺の手を避けようとする素振りを見せた。こういう時、有紀みたいな男はどう接するのだろう、と頭の片隅で思いながらもう一度、彼女の名を部屋に小さく響かせる。それに応えるように、小さくくぐもった声で『…あっぽりはわしが育てた』という声が聞こえる。なにを言ってるんだ、という定型句さえ飲み込んでしまうほど、彼女の声は震えていた。

「いやね、わたし、あのとき、…ちゃんと忍の背中を押せてよかったなって思って」
「どうしたんだ、急に…」
「やっぱりわたしは難しい顔してスーツ着てる忍より、楽しそうにベース弾いてる忍が好きだなって」
「なまえ…」
「…でも、でもね、しのぶ、」
「…なんだ」
「お願いだから、わたしのこと、置いて行かないでね」
「お前は…なんてことを言うんだ」
「っあ、!」

 さっきよりも強い力で、無理やり奪うように雑誌を取り上げた。油断していたのかそれは案外簡単になまえの指からすり抜けて、俺によってテーブルに放り投げられた。マグカップに当たらないように、気を付けながら。
 急に手持無沙汰になり、丸腰になったなまえはあわあわと慌てたあと、雑誌の代わりに両手で顔を覆った。どうしても見られたくないんだろうが、見せてもらわないと困る。寝転がったままのなまえの体を持ち上げるように起こさせて、そのまま自分の膝の上に座らせた。なまえは相変わらず顔を覆ったままだ。そんな風に切なげに顔を覆っておいて…なにもないわけがないだろう。お前は見せたくなくても、俺は見たい。言葉にこそできなかったが、それが伝わるようになまえを抱き締めてその背中を、できる限り優しく撫でた。耳元で聞こえる呼吸音が段々と荒くなっていく。

「ごめ、ごめんしのぶ、」
「ああ、構わない。お前が思っていること、全て俺に教えてほしい」
「……忍のこと、信じてないわけ、じゃ、ないんだけど、」
「ああ」
「最近、帰りが遅いことが多いじゃん、…海外にいくことも」
「…そうだな」
「そういうときにね、仕事だって、わかってるんだけど、…わかってるはずなんだけどね…もしかしたらもう、ここには帰ってこないんじゃないかって、思っちゃう、ときがあるのね」

 そんなわけないのにね!生理前だから情緒不安定なのかも!ほんと女ってめんどくさいよね!
 そう付け足していつものように振る舞おうとするなまえに、息が苦しくなるのを感じた。そんなに声を震わせて、鼻を啜って、縋りついておいて、どうして尚もそう気丈に振る舞おうとするのか。もっと俺に頼ってくれればと、甘えてくれればと…そうも思うが、ああ、情けない。そうやって彼女に強がらせて、我慢させているのは俺のせいだ。不甲斐ないにもほどがある。
 なまえが前に進もうとする俺を引き止めたことなんて、一度もない。どんなに歩幅が違ってもいつも黙って俺に寄り添って、明るく振る舞って、時には歩みを止めようとする俺の腕を引いてくれさえする。それなのに、俺はなまえの腕を引けたことがあるだろうか。立ち止まりそうななまえを置いて俺は気付かず進んでしまおうとしていたのではないか。情けない。俺は自分のことばかり考えて、彼女を不安にさせて。

「…俺が、お前を置いて行くわけないだろう。絶対にないと断言する」

 思わず声が震えた。なまえのがうつったみたいだ。本当に、俺はいつまでたっても情けない男だ。

「へへ、知ってるよ。…ごめんね、なんか変なこと言って」

 わたし、もうねるね。
 なまえは有無を言わさず俺の腕から抜け出して寝室へ向かおうとする。その涙さえ拭えないまま、この話を終わらせていいのか。…いや、駄目だ。これじゃ駄目だ。一つ、息を吐き出し、それからなまえの腕を、引いた。

「わ、…な、なに?」
「…わかった。俺の覚悟を見せる」
「へ?」

 本当は、もう少しバンドのことが落ち着いてからにしようと思っていたんだが、遅かれ早かれ言うことに変わりはないのだから今言ったってなにも問題はないだろう。
 前を向いたまま動かないなまえの体を半ば力づくでこちらに向けさせ、その前に跪き、その手を握る。見上げたなまえの顔は涙でぐずぐずに溶けそうになっていた。ああ、鼻が真っ赤だ。俺の突然の行動に驚いていたのだろうが、目が合うときょとんとしていたものから途端に眉間に皺を深く刻ませた『さいあくだ』と言いたげな表情に変わる。お前ははすぐに顔が出てしまうからな。そういうところも、俺が好きなところでもある。

「な、なんなの」
「…そう、遠くないうちに言わなければと思っていたが」
「え……うん、」
「結婚、してほしい」
「ぐぇっ」

 プロポーズに言葉を受けて、まさかサスペンスドラマの中で殺人現場を目撃してしまったような、信じられないといった顔でカエルが潰れたような声をだす女性がいただろうか。雰囲気もあったものではない。だが、俺はなまえのこういうところも気に入っている。つまるところ、彼女ならなんでもいい。どんなところだって受け入れられる自信がある。本当だ。思わず零れてしまった笑みをそのままに、話を続ける。少しだけ、握る手に力を込めた。

「俺にもう一度夢を追うチャンスを与えてくれた成海、有紀、夕星。そして危険な賭けにでた俺の背中を嫌な顔一つせず笑って押してくれたなまえに、本当に感謝している」
「え、あ…え、う、」
「お前さえよければ、俺にどうかその未来を託してもらえないだろうか」
「う、うー…」
「俺のすべてを使って、お前を幸せにすると約束する」
「ま、まって、しのぶ、」
「俺の帰る場所はお前の元だけだ。ただいまと、迎えてほしい」
「むりい…」

 無理、と言いながら首をぶんぶんと横に振られ、それが拒否を意味しているのかと、焦る。『駄目か…?』と思いのほか弱弱しくなってしまった俺の声が耳に入ると、なまえははっとした顔をして『あ、ちが、いや、ちがう!』と言って今度は縦に首を振り出した。…ああ、告白をしたときもこうやって、受け入れてくれたな。どうしようもなく胸が苦しい。安堵と愛しさを込めた息を大きく吐いてから、恐る恐る俺に手を伸ばしてきたなまえに合わせて体を寄せた。そうすれば、なまえは今まで溜め込んでいたものをすべて排出するように、子どものように泣きじゃくりながら俺の首にしがみ付いてくる。改めて感じる、小さい体だ。この小さな体に一体どれだけの不安を抱かせてしまっていたんだろうか。

「なまえ、俺と一緒にいてくれるか」
「いるよぉばかしのぶのばかぁ」
「ああ、よかった」
「も、忍じゃなきゃ無理だもんあーもうやだむり好き」

 うーうーと唸るなまえの体を抱き上げて、寝室へ運んでやったがベッドへ降ろそうとしても、まるでコアラのようにしがみついて離れなかった。仕方なくベッドに腰を下ろしてなまえが落ち着くのを待つことにする。今度こそ、その涙を拭わせてもらえるだろうか。とんとんと肩を叩いてからそっと押すと、首に腕は廻されたままの状態で少しだけ体が離れる。リビングと違って寝室は薄暗いままだったが、涙が光っているから拭うのは容易かった。…鼻の下も光っているな、これはさすがにティッシュで拭いてやったほうがいいだろうか。

「…ね、忍、今度デートして」
「ああ、そうだな。その時に、指輪を選びに行こう」
「いいよゆびわなんて。忍が帰ってきてくれるならそれでいい」
「いや、買わせてくれ。今までお前にたくさん苦労をかけたお詫びと言ってはなんだが…」
「…わたしに指輪、買いたいの?」
「ああ、そうだ。買いたい」
「ふふ、忍がそう言うんだったら買われてあげる!」

 折角だからとびっきり高いのにしよ〜っと!
 ぐずぐずと鼻を啜りながらではあったが、漸くなまえの表情に笑顔が戻る。俺は、この笑顔が絶えることのないようにしなければならない。一粒、瞳から零れ落ちた涙を拭ってやってから、いたずらっ子のように笑う唇にキスを落とした。それはほのかにカフェオレの味がした。おかしいな。砂糖はいれていないはずなのに、こんなに甘く感じるなんて。


20151227 あと、鼻水のついちゃったあの雑誌も買い直さなくちゃ
『常夜灯を消さないで』/DCPに提出
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