疲れた。もう歩きたくない。
 そんな弱音をぶつぶつ心の中で呟きながらトボトボと歩いていた。片手に、ヒールの折れたパンプスを持って。不幸ってもんは、どうしてこうも重なるんだろう。不幸といっても些細なことばかりだけれど、それがいくつも重なると気が滅入る。

 今日は本当にツイてなかった。
 いま思い出してみれば、今朝の占いわたし最下位だったな。確かラッキーパーソンは『料理上手な筋肉質の人』だった気がするけど、絶対適当に考えたでしょって感じ。そんな人いるわけないじゃな……あ、いや、いないことないけど、一人だけ心当たりあるけど、そう簡単に会える人でもない。
 はあ、と溜息を吐きながら今日の不幸の数々を思い出す。朝から電車が遅れていてホームは人でいっぱい、電車に乗れても超・満・員でぎゅうぎゅうに潰された結果おろしたてのストッキングが伝線して、降りようとしたお姉さんの鞄に引っかかったイヤホンが片方断線したこと。お昼にヨーグルトを買ったのにスプーンを入れてもらえていなかったこと。間違え電話で知らないおじさんに怒鳴られたこと。これに関してはさすがに謝ってもらえたけれど、電話に出た瞬間に『いい加減にしろよオラ!』と言われたショックはなかなかにでかい。あと上司に理不尽に怒られたこと。これは、まあ、社会で生きていく上で避けて通れないものなんだけど。それから、淹れて1分もしないコーヒーにコバエがインして淹れ直すはめになったし、慰めに買って帰ろうとしていたケーキ屋はリニューアルオープンのためにシャッターが下りていて、肩を落として大人しくうちへ帰ろうとすれば最寄り駅で起きた人身事故でダイヤが乱れに乱れ、いつもより遅い帰宅になってしまった。行きも帰りも勘弁してくれえ。
 傍から見ればたいしたことない出来事ばかりかもしれない。だけど、今日のわたしには随分と重くのしかかってきたあれこれだったのだ。極め付けに、パンプスのヒールが折れた。安物だったし、家まであと少しのところでの出来事だったのがまだ幸いといえば幸いか。

 あ〜あ。うちに帰ったらほかほかのとびきりおいしいごはんが用意されていたらいいのに。ありもしないことを考えて、今日はカップ麺で、いやもう食べなくてもいいやとすら思い始めた。コンビニに寄る気力なんて残っているはずもない。
 たまにはこういう日もある。きっと明日はいい日に違いない。頑張ろうなまえ!負けるななまえ!なんて、情けなく自分を鼓舞していたというのに、マンションのエレベーターが故障して使えなくなっていた事実を前にしたときわたしの心はポッキリ折れてしまったように思う。5階だから、そんなに大変なわけじゃあないけれど、今日のわたしには随分長い距離に感じた。
 重たい足を動かして階段をあがっていく。慰めといえば、耳に差し込んでいるイヤホンから流れ込む音楽くらいか。

「…いかれた〜りあ〜るにま〜や〜か〜しをぉ〜」

 依都さんの歌ほんとにかっこいいなあ、と思いつつも気になるのは依都さんの歌声を、そして全体をしっかりと支えている力強いドラムの音。…元気にしてるかなあ。わたしが心配する必要なんてないくらいできた人だから大丈夫だろうけど、たまに甘えたりしてほしいなあなんて贅沢なことを思ってしまったり。あー、しのさんのこと考えてたらなんか頑張れそうな気がしてきた。次いつ会えるかなんてわからないけど、しのさんの前では元気でいたいし。うん、頑張ろう。明日も頑張ろう!オー!妙に前向きな気持ちが湧いてきたのを感じたところでようやく5階に辿り着く。足痛くなっちゃったな。ていうかどっかからすっごいお腹のすくいいにおいする。いいなあ、ご馳走になりたい。お肉たべたい、美味しいお肉。ぐう、とお腹の虫が鳴ったのを聞きながら鞄からキーケースを取り出して鍵穴に差し込もうとした時だった。

「っわ!!!!」
「おわっ…!すっ、すまない!」
「え、あ、え?しのさん…?」

 疲れすぎて、一瞬幻覚でも見えちゃったのかと思った、けど。驚いて後ずさったわたしの腕を、腰を、優しく支えてくれている感触は間違いなく現実のものだ。しのさんが、なんでか知らないけどわたしの家から出てきて、目の前にいて、目の前にいて!わたしを抱き留めてくれている!?やばいいまやっと状況飲み込んできた!エーッ!なにこれ!ドッキリか何かか!?エーッ!!

「え、あの、えっと、なんで、しのさん、いるの…?」
「ああ、いやな…その、サプライズ、というやつか?女性は喜ぶと依都にきいたからな!」
「さぷらいず」
「そう、サプライズだ!最近全然お前との時間を作れていなかったし、それにちゃんとメシを食べてるかも心配でな」

 いま気づいたんだけど、さっきどっかからいいにおいがするって言ってたの、うちからだった。家にあがるとたちまち美味しそうな匂いがしてきて、おなかの虫も大興奮のあまりぐるると大きな音を立てて喜んでいた。そんなわたしに気付いたしのさんは「もう少しかかってしまうんだ」と申し訳なさそうに笑った。なんでも、しのさんはわたしの帰りが遅くて心配してしまったあまり、料理が手につかなかったんだという。いま外にでてきたのも駅に迎えに行こうかと考えていたみたい、心が震える。更には「本当はお前が帰ってくるまでに作り終えておこうと思ったんだが、間に合わなかった、すまない」とまったく意味の分からない謝罪をいただいてしまった。しのさんのごはんなら、1時間だって3時間だって1日だって1週間だって待てるんだから、謝らなくていいのに。もう。

 わたしから鞄を受け取って今のうちに風呂に入ってくるといい、と言ってくれたしのさんはなんだか甲斐甲斐しい奥さんみたいだ。お言葉に甘えてそうすることにしよう。…早くこの汚い足を洗わないと。幸い、しのさんにはパンプスを脱いでほぼ裸足の状態で帰ってきたことには気付かれていないようだった。これ以上心配をさせてもいけないし、よかった。


「よかった、いる…」

 シャワーを頭から被りながら、シャンプーを泡立てながら、トリートメントを毛先に浸透させながら、腕を、首を、疲れ切った足を洗いながら、さっきまでのは夢か疲労による幻覚か何かで、お風呂からあがったら美味しいにおいも大好きなしのさんもすっかりきれいさっぱりなくなってるんじゃないかと不安になっていたのだけれど、そんなことはなかった。相変わらず美味しそうな匂いは漂っているし、しのさんは鼻歌を歌いながら鍋を掻き混ぜている。なにつくってるんだろう。

「お、でてきたな」
「いいにおいする」
「今日はビーフシチューとローストビーフだぞ!」
「ビーフ!」
「そうだ、ビーフだ!そろそろお前が肉を食べたがる頃だと思ってな」

 すごい。まさにさっき肉が食べたいと思っていたところだ。すごい。しのさんすごい。ローストビーフも恐らくしのさんお手製のものだ。前に何度か食べさせてもらったけれど、市販しているのとかよりもうんと美味しいとわたしは思う。やっぱり決め手は愛情かな!…な、なんちて。まだもう少しかかるみたいだし、今のうちに髪乾かしちゃおっと。

 ブオオ、とドライヤーの温風を髪の毛にあてながらしのさんの後姿を眺めていた。しのさんが、うちで、わたしのために、料理をつくってくれている。サプライズ、かあ。自分の仕事もあっただろうに、きっとその足でうちに来てくれたんだろう。折角早く終わったなら自分のための時間にしてくれていいのに、さっき『お前との時間』って言ってくれたの、嬉しかったなあ。しのさんの心の中に自分という存在があって、気にしてくれている、それだけで十分なのに。ああ、ほんとに嬉しい。きっと今日の小さな不幸の数々はこの幸せのための前座みたいなもんだったんだろう。そうだ、きっと。そうに違いない。…あ、どうしよう、なんか泣いちゃいそう。
 髪の毛もまだ半乾きだっていうのに、わたしは堪え切れなくなってキッチンに立つしのさんの背中にそっと抱き着いた。しのさんはちょっと驚いたのか小さく声を発していたけれど、すぐに腰に回したわたしの手をぽんぽんと優しく撫でてくれる。うう。

「どうした?待ちきれないか?」
「うん、」
「なまえ?」
「うんん…」
「……そうか、よしよし。お前はいつも頑張っていて偉いな」

 なにも言ってないのに、しのさんは全部わかってるみたいにそんなことを言う。なにも言わなくていい、俺が傍にいるからなって言ってくれてるみたいだ。バファリンの半分が優しさでできているとしたら、しのさんは100だ。100%優しさしのさん。しのリン。そりゃあ、わたしのちくちくとささくれだった心だって癒されてあっという間につるんとした綺麗なハートになる。わたしだけじゃない。依都さんも優さんも、きっと時明さんも、スタッフの人も、関わる人みんなみーんな、しのさんは癒しちゃうんだ。優しくて、強くて、わたしなんかがしのさんに出来ることなんてなにもないんじゃないかってくらい、完璧な人だ。

「…しのさん、」
「ん?なんだ?」
「すきです、すき。すごいすき。びっくりするくらいすき」
「お、おお、どうしたんだ急に」
「ちょっと、言いたくなっただけ」
「そうか。…なんだか、その、照れるな」

 ありがとうな、とはにかむしのさんがつけている黒いエプロンはわたしが去年誕生日にプレゼントしたものだ。料理を作るときはいつも使ってくれて、今日みたいにわざわざうちで料理するときも持ってきてくれる。わたしのことも、エプロンも大事にしてくれるしのさんが大好き。大好きなんて言葉じゃ足りないくらい、大好き。
 我慢できなくなってぐりぐりと背中に顔を押し付けながらすんと息を吸った。しのさんのにおいがする。そんなの当たり前のことなのに、なんだか心がじぃんと震えた。

「おいおい、そうにおいを嗅ぐな。あまり汗はかいてないがいいにおいではないだろう」
「んーん、そんなことない。いいにおい」

 ぎゅうぎゅうとしのさんに抱き着いてすんすんと鼻を鳴らし続ける。多分呆れられてるけど、いいや。折角のしのさんなんだもん、堪能しておかなきゃ。というか、それよりわたしはさっきからあることに気付いてしまったんだけど。

「しのさん、前より筋肉ついてない?」

 なんかこう、前よりもギュッて詰まった感じがするっていうか、腕も太くなってる気がするし多分気のせいじゃないと思うんだ。わたしのその言葉を聞いたしのさんの声は弾んだものだった。

「本当か?最近メニューを少し変えてみたんだ!効果が出てるなら嬉しいな!」
「うん、ますますかっこよくなっちゃうね」
「かっこよくって…お前なあ、あんまり俺をからかうんじゃないぞ」
「からかってなんかないもん、ほんとのことです」
「…まったく、敵わないな」

 だって、ほんとにかっこよくなっちゃうもん。こんな、ドラムも料理もうまくて、おまけに誰よりも優しい。そんな人がますますかっこよくなっちゃったら、わたし、どうしたらいいかわかんなくなっちゃう。
 そんなことを考えながら、しのさんのエプロンをいじらしくキュッとつかんで、見上げる。わたしの無言の訴えに気付いたしのさんはわたしと目が合うと参ったと言わんばかりに少し眉を下げ、それからコンロの火を止めた。ここにはわたしたちしかいないのに辺りを見回すように視線を彷徨わせる姿にふふ、と笑みが零れた。しのさんはわたしの前髪をそっとよけておでこにキスを落としてくれる。だらしなく弛まないように、口元を結んでおいてよかった。

「…口がよかったなあ」
「…ほら、もう出来たから皿の用意してくれ」
「あとでしてくれる?」
「してやる、してやるから、まずは夕飯にしよう!」
「うん!」

 少し耳を赤くさせたしのさんに満足して、わたしは漸く彼を解放してあげた。またあとでべたべたさせてもらおっと!もうこのころにはすっかり今日が厄日だったなんてことは失念していた。食器棚から2人分のお皿を取り出してテーブルに並べるわたしの足取りが軽いのがその証拠だ。
 ずっとこうやってしのさんの作った料理をのせるお皿を出す役目をわたしが努められますように、と心底願ってやまない。2人分のお皿が、3人分、4人分って増えたらもっと嬉しいなって。
 明日のことを言えば鬼が笑うなんていうけど、何年も先の、なんの約束もされていない未来のことを考えているなんていったらきっと鬼は抱腹絶倒するんだろう。依都さんあたりも笑うかもしれない。でもしのさんはきっと笑わないで、そんなわたしの話に真剣に耳を傾けてくれると思う。わたしが好きになった人は、そういう人だ。

20150510
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