渡されていた合鍵を、鍵穴に挿し込んだ。緑色の風呂敷を背負った白い猫のキーホルダーがついたそれは、決していつでも好きに来ていいという意味で渡されたものではなく、自分で鍵を開けるのが面倒だから勝手に入ってこいという意味でわたしに預けられたものだ。嬉しいような、そうでないような。複雑な気持ちではあるが、深くは考えないことにしている。
お邪魔しまあすと小声で挨拶しながらドアをあけると、玄関先に可愛らしいお出迎えがあった。ちょこんと座ってわたしを見上げているのは自由すぎる男の湯たんぽにされたりしている、彼の居候のひとりだ。にゃあと鳴く頭をくすぐるように撫でてあげると、目を細めてわたしの手に擦り寄ってくる姿に胸がきゅううとしめつけられる。可愛い。可愛すぎる。
「お前はぶすにゃんだね」
こんなに可愛いのにどうして朔良はこの子をぶすと呼ぶんだろう。決してぶすではないと思うんだけどなあ、と思いながらおなかを見せてごろんと寝転がったぶすにゃんをめいっぱいに可愛がる。ちなみに、この子にはぶすにゃんと仮名がついているけれど、朔良はぶすにゃんとは呼ばない。寧ろぶすと呼ばれるのはわたしだ。失礼しちゃうよな。仮にも彼女な、はず…なんだけど。
「みゃっ」
「……」
…ま、まあでも、顔はちびちゃんのほうが可愛いかな。いや、でも、お前も十分可愛いよ!ぶすではない!自信もって!と伝わるはずもない言い訳をしてからぶすにゃんを抱き上げて部屋にはいる。
カーテンが閉められたままの暗くしんとした部屋の隅にある布団の中心は、こんもりと盛り上がっていた。布団の端から少しだけダークバイオレットの髪がはみ出ている。どうやら朔良はまだ寝ているらしかった。まさかゲームで夜更かしして、とかじゃないだろうなと勘繰ったけど、どうやらそうではないみたい。いつもは布団に寝転がって手の届く範囲にあるゲーム機が、テーブルの隅っこに置かれてる。朔良は布団でごろごろしながらゲームをしているはずだから、そんな離れたところにあるということは多分昨日はゲームせずに寝ているはずで、つまりは、本当に疲れているらしかった。というのも最近バンドの活動が忙しいらしく、そのせいで学校に来ることも少なくなっている。今日ここに来たのだって、出れてない間の授業のレジュメを届けるためとテストのことについて伝えるためだ。
一応来ることは事前に伝えていたし、レジュメとメモ書きだけ置いて帰ってもいいんだけど、一応起こしたほうがいいよね。この人、放っておけばいくらでも寝てるからなあ。ふう、とちいさな溜め息をついてからぶすにゃんを床におろして、布団越しに体を揺する。さくらーと声をかけると、枕元に座ったぶすにゃんもにゃあと鳴いた。なあに、起こすの手伝ってくれるの。お前はいい子だねえ。
「さくらー」
「……」
「朔良、さーくーら」
「……ん…」
「起ーきーてー、レジュメ持ってきたよ」
「んん…んー……」
「おーきーろーばーかーさーくーら〜!」
「ん……るせ……」
うるさいとはなんだ!親切に起こしてあげてるってのに!…頼まれてないけど!
まあいいや。予定があろうとなかろうと、とりあえず起こさないと。だってもうお昼だもん。普通の人は一仕事終えてお昼ご飯食べてる時間だもん。えい、と容赦なく布団を思いっきりめくりあげて、ついでにカーテンもあけると、朔良は外気の冷たさに猫のように背中を丸めて、窓から入り込む陽射しに唸りながら手で顔を覆った。そしてその上にぶすにゃんが乗っかって、一鳴き。おはようって言ってるのかな。
「おはよー…じゃないな、おそよー朔良、起きてよ」
「んん……なまえ……?」
「そうだよーなまえですよー」
なんでここにいるんだと言いたげな寝惚け眼が指の隙間からこちらを見つめていたので、「きょう、くるって、れんらく、したでしょお!」と、耳の遠いおじいちゃん相手に話すように、ゆっくりはっきりと言えば「あー…そうだったかもな」と言いながらのっそりとした動きで起き上がる。がしがしと寝癖のついた頭をかきながら大きなあくびを連発する朔良を、こっそり笑った。相変わらず豪快なあくびだこと。久しぶりに見れて嬉しいかもしれない。
「さみ…」
「今日は陽が出てるから割とあったかいけどね」
「んー」
首を縮めて、スウェットの袖を指先まで伸ばして、腕を組むようにして脇の下に自分の手を挟み込んだ朔良の足元を見て、あ、と口が開く。赤地の靴下にはゆるい猫の顔と、水色のJIBANYANの文字が刺繍されている。最近、朔良が密かにキーホルダーとか集めている子供たちに大人気の妖怪が、彼の足を暖めていた。いつの間にそんなものまで手に入れたんだ、と見つめていたらその視線に気付いたのか、わたしが尋ねる前に「もらった」と答えて、きゅっとつま先を丸めていた。
「もらったって、芹くんたちに?」
「んーん」
「ファンの子?」
「ん」
「よかったね」
「よかった」
決して、皮肉でそう言ったわけじゃないことを明言しておく。本当によかったって思ってる。プレゼントをもらえるほど人気がでてきているってことでしょう。喜ばしいことだ。元々人気はあったけれど、最近は益々ファンが増えてチケットも取りにくくなっているらしい、Liar-S。手の届かないところに行ってしまってる気がしてちょっぴり寂しいけれど、もちろん応援してるし、彼らの未来のためにわたしが邪魔なのであれば朔良と別れることだって覚悟はしている。…そうならないといいなって、思ってしまうけど。
そんな望まれない未来のことを考えながら、タバコに火を着けている朔良のぼっさぼさの髪を直してあげると、もっとしろと言わんばかりに俯いて頭をこちらに差し出してくる。本人に言ったら怒るから口にはださないけど、こうやってたまにめちゃくちゃ可愛いことするよね、この人。発言も行動もなにもかもが自由すぎるけど、それでもいろんな人に可愛がられて愛されるのは彼の才能のひとつなんだろうなあ。歌もうまくてかっこよくて、愛される。ずるい男だ、と思いつつ朔良の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜてやれば「ひっで、」と小さい声が聞こえた。
「…つか」
「ん?」
顔をあげた朔良が口からゆらゆらと揺れる煙を吐き出しながら、無表情のままわたしを見つめていた。なんだろうと首を傾げていたら、さっきまでタバコをはさんでいた指先がわたしの毛先に触れて、少しだけ引っぱられる。わたしたちの距離が、すこし縮まる。
「な、なに?」
「髪」
「うん?」
「ふわふわしてる」
「ああ!そうそう、パーマをね、かけたの。この前」
「ふうん」
口にタバコを銜えたままわたしの髪をしばらく触っていた朔良がなぜだか急にふっと笑うもんだから、思わず心臓が跳ねた。やめなさい、君の笑顔は貴重なものなんだから、そう簡単にわたしなんかに見せないでちょうだいよ。顔、赤くなっちゃうでしょうが。
「猫みてえ」
「ね、ねこ」
「ん。いんじゃね、かわいい」
「ひぇっ」
か、かわいい!朔良が!可愛いって、言った!思わず変な声でちゃったよもう恥ずかしいな!
至近距離で微笑まれ、挙句可愛いと言われ、久しぶりの朔良っていうこともあってわたしはもういろいろ限界だった。一応ありがと、とお礼を言ったものの、恐らく赤くなってしまってるであろう顔を見られないように背を向けて、本来の目的を果たすべく鞄の中を漁る。さ、さっさとレジュメ渡して帰ろう。心臓に悪いもん、ここの部屋とあのひと。がさがさとした物音に餌をくれるのかと勘違いしたぶすにゃんがとててとやってきて、わたしの膝に前足を置いた。ごめんね、あげられるものなにもないんだ。ふわふわのそいつを片手で抱きあげながら、紙の薄い束を朔良に渡した。
「はい、これレジュメ」
「ん、ども」
「なんかテストは再来週にやるみたい。範囲はここまでで、来週は休講」
「テストやるの早くね」
「ね。わたしも思ったけど、教授も早く終わらせたいみたい」
「んー」
レジュメをいれてたクリアファイルを鞄にしまいながら今日の仕事の有無を問うと、「たぶんない」と曖昧な答えが返ってきた。たぶんてなに!本当に大丈夫なのかな、でも確かめようがない。芹くんに連絡いれといたほうが…とも一瞬思ったけど、朔良だって一応成人した立派な大人だし、そこまで気にすることないか。大丈夫大丈夫、うん。
ていうか、すっかり忘れてたけどなんかごはん買ってきてあげればよかった。どうせ食べるものないんだろうと覗いた冷蔵庫は見事にからっぽで、ビールと水のペットボトルが数本。最近は外食が多いだろうから中身が少ないことは予想してたけれど、まさか固体のものがなにもないとは。こいつもしやタバコだけで生きてるんじゃないかとすら思いながら、取り敢えずわたしのお昼になるはずだったおにぎりをあげることにした。朝ごはんの代わりくらいにはなるんじゃないかと…もうお昼だけど。
「お前、かえんの」
「帰るよ。バイトあるし。ご飯つくってあげられたらよかったんだけど、ごめんね」
「ん…バイト、何時まで」
「今日は22時かな」
「じゃ終わったらまた来て」
「えーやだよ、なんで」
「たまには人間湯たんぽで寝たい」
「あなたわたしのことなんだと思ってるの」
「湯たんぽ」
「だろうな」
まったく失礼しちゃう。起こしてくれて、レジュメもってきてくれて、おにぎりあげる湯たんぽがいるかっての。拗ねたように鼻を鳴らせば、ぶすにゃんのしっぽがわたしの手をなでるように掠めた。これは慰めてくれてると捉えていいんだろうか。じゃあ、湯たんぽ同士仲良く帰るとしますかね。ぶすにゃんを抱えなおして鞄を肩にかけると、朔良がわたしの名前を呼ぶ。
「じゃあ、今日お前んとこでメシ食う」
「え、うちの店で?」
「ん。で、一緒に帰る。そんでうち泊まれ。決定」
「えええ」
「いいよな、ぶす」と呼びかける朔良に、わたしが反応するより先に腕の中のぶすにゃんがにゃっと短く鳴いた。い、いつの間にお前もぶすと呼ばれることに慣れちゃったの、ぶすはわたしなんだからお前は反応しなくていいんだよ!かわいそうに、そう思いながら額を撫でた。
まあ、泊まらせてくれるのはそりゃもちろん嬉しいけど…朔良といれるんだから。で、でも今日、その、あの、…可愛い下着じゃ、ないんだよね…。いや、別にそういうことを期待してるわけじゃないんだよ、ほんとだよ。でも、そのもしそうなったときに幻滅とかされたらいやじゃん?だからってそういうことがしたくないわけじゃ、ああいやでも可愛くない下着が…。悩めるわたしを、ぶすにゃんが首を傾げて見上げている。んん、お前も一緒に泊まるのかな。
「…なあ」
「え、あ、なに?…あっ」
「没収」
タバコの火を消して立ち上がった朔良はわたしの手からぶすにゃんを奪うと、そのままじっとわたしの顔を見つめながらじりじりと近づいてくる。どうしたらいいかもわからず、取り敢えず後ずさりして距離を保つけど背中が壁にぶつかって、目の前には無表情な朔良が迫っていた。あれ、これいま流行の壁ドンのシチュエーションじゃないか!?朔良に壁ドンされるのか!?びくびく、どきどきしながら、近づいてくる朔良の顔に思わずぎゅっと硬く目を瞑ったら、直後にゴツンという音とともに額に鈍痛が走った。
「い゛ッ!!!」
「いてー」
「痛いならしないでよ!っていうかなんで急にこんなことすんのばか!ばか朔良!」
「わかんね。なんとなく」
「なんとなくで頭突きするやつがあるかばかぁ…」
額がじんじんして、ちょっと頭がくらくらする。なんでこんなことされたのかちっともわからなくて、あまりの痛さにちょっと涙すらでてきた。両手で押さえて唸っているわたしに朔良は「悪かったって」と言いながら頭をなでてくるけど、それは朔良の手ではなくてぶすにゃんの前足を使って、だ。もうなんなのこのひと。意味わかんない。
「も、かえる、ばか、なんなの」
「悪かったって言ってんだろ」
「うっさい。ばか、ばーか。もう来ない」
「なまえ」
おそらくさっきまでわたしの頭を撫でていたであろう小さな前足が床の上を歩く音が遠ざかっていくのが聞こえたときには、もう既に朔良の顔は目の前にあって、わたしの体は朔良の腕の中にあった。タバコくさい。けど、朔良が目の前にいて、抱き締められてるんだ、と思えばさっきとはまた違った涙がでそうになる。なんだかそれを知られるのは悔しかったから軽く唇を噛んでやった。
「いて」
「にがい」
「いい加減慣れろ」
「むり」
「じゃ、もっかいな」
2度目のキスには怒る気も、唇を噛む気も失せていた。なにがじゃあ、だ。タバコの味がして苦いって言ってるのに。心の中では悪態をついてみたものの、わたしの口元にはうれしそうな笑みが浮かんでいたことと思う。朔良はちょっとだけむっとした、不機嫌そうな顔をしているけど。
「ちゃんと俺にも構えよ」
にゃぁおと言ってわたしたちの足元にじゃれつくぶすにゃんをしっしと手で追い払った朔良がそう言った。ああうそやだ、どうしよう。ぽぽぽと頬が熱くなっていくのを感じる。くそう、今日の彼の夕飯はわたしが作ってもいいかな。朔良、バイト終わるまで我慢してくれるかな、我慢できるかな。猫だったら絶対ごろごろと喉を鳴らしてるであろう、擦り寄ってくる朔良の頭を撫でてあげながら、今晩の献立を考えるのだった。
20150102
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