31文字企画 | ナノ

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「おばあちゃんはどうして結婚しなかったの?」

実の祖父母よりわたしに懐いている、たったひとりの兄孫が言った。だっておばあちゃんの若い頃、すごく綺麗だったじゃない!と。

「いろんなひとから告白されたんじゃないの?」
「まあ、そこそこよ」
「何で結婚しなかったの?好きなひとがいたの?ねえなんで?」

わたしの手を握って顔を覗き込む愛しい子に、もう時効ではないか、と思った。あれから50年。半世紀もわたしは堪えたのだ。わたしによく似たこの子に少し話すくらい、許されるのではないか。お伽話のような、あの出来事を。

「おばあちゃんね、ずうっと昔、おばあちゃんがあなたくらいのときに、迷子になったことがあるのよ」
「迷子って、迷子?」
「そう。パラレルワールドって言うのかしら、同じ時間軸の、違う世界に迷い込んでしまって」

その瞬間を、わたしは忘れない。電車に遅れてしまうと凄まじいスピードで自転車を漕いでいて、トンネルを突き抜けたらあそこだったのだ。宇宙人と人間が共存する、不思議なところ。その時はちょうど、光の速さを越えればタイムスリップができると騒がれていたころで、もしかしてわたしは光の速さを越えて未来へタイムスリップしてしまったのかと本気で思ったのだ。わたしは、舌を出したひょうきんな天才物理学者を心底信頼していた。

「今でも、そこがどこかは分からないのだけれど、とにかく奇妙な世界だったのよ。着物を着ているのに、高層ビルはあるし、聞き覚えのある名前がたくさんだし」
「へえ…」
「泣かなかったことを立派だと思ってるの。びっくりして、ほら、人間って予想外のことがあると泣きたくなるじゃない?でも泣かなかった。帰らなきゃと思って、電車に遅れると思って、またトンネルを潜れば帰れると思って振り返ったら、」
「無かったの?」
「あなたは物分かりがいいわ」

うふふと微笑まれて、嬉しいはずがなかった。握られた手を握り返してやる。

「この世の絶望を一身に受けたと思ったわ。ひどい顔をしていたと思う。ここで言う、お巡りさんに話かけられたの」
「ひどい顔をしていますよって?」
「どうしたの?お腹すいてるの?って。あんパン食べる?って、真ん丸のあんパンをちょっとだけかじって、あれは、美味しかった」
「変わったお巡りさん」

変わっているというか、どちらかと言えば地味なのだけれど、どちらにせよ、彼のおかげでわたしは落ち着くことができた。わたしが憂いるべきなのは、電車に遅れるではなく、変なところに来てしまったことだということに、ようやく気づいたのだ。わたしはまだ、高校生だった。
わたしの、要領の得なかったであろう説明をじっくりと聞いて、行くとこがないなら屯所においでよ、なんて彼は人懐っこく笑ってわたしの手を引いた。いくら駄目だと首を振っても、彼がわたしの手を放すことはなかった。彼に引かれるまま屯所に住み着いてからずいぶん経ったころ、何だか、不思議と放っておけなかったんだ、と彼は言っていた。別世界の人間だったからだろうかと、わたしは考えている。

「屯所は楽しかったわ。最初はそりゃ怖くてびくびくしてたけれど、仲の良い女中さんもできたし、何より上の人間がすごく良いひとだった。違う世界から来ましたなんて言う見ず知らずの女を匿ってくれるんだもの」
「屯所で、おばあちゃんは何をしてたの?」
「初めは女中さんと同じことをしていて、たまたま見た書類の間違いを指摘したら、何だか知らないうちに秘書みたいな仕事をしていたわ」
「誰の秘書をしていたの?そのトップのひと?」
「いいえ、」

あのひとを思い出すときはいつも、手が震える。あんなに毎日突き合わせていた顔は朧げで、香りは、ずいぶん前に忘れてしまった。あれほど忘れないと誓ったものが、ぽろぽろとわたしの中から剥がれていくのは悔しくて悔しくて堪らなかった。でも、どうしようもなかった。気持ちだけではどうにもならなかったのだ。そういう意味で、時間より残酷なものを、わたしは知らない。

「二番目に、偉いひと」
「おばあちゃんは、そのひとが好きだったのね」

目を見開くと、顔に書いてある、とわたしの頬を突いた。

「あなたの短所は、物分かりがよすぎることね」
「おばあちゃんに似たの」
「あら、嬉しいわ」
「おばあちゃん、続けて。おばあちゃんの好きなひとの話」
「ええ、あのひとは、不器用なひとだったの。自分の思っていることを告げずに行動したりするような、でも、そういうところが、素敵だったひと」

あのひととわたしは、喧嘩ばかりしていたのだ。書類の綴じ方や、手紙の書き方、鼻のかみかた。何でもありだ。わたしはあのひとが大嫌いで、あのひともわたしを嫌っていた。あのひとが出張でどこかに行くと、清々すると息巻いていたのはわたしだ。あのひとが帰るまで寂しくてしょうがなくなったのも、わたしだ。

「好きだとは言わなかった。だって、おばあちゃんはあの世界の人間じゃなかったんだもの、いつつまみ出されるかも知れないのよ?だから、絶対に秘密にしてようと誓ったの」
「向こうは?」
「何も。相変わらず喧嘩ばっかり」
「じゃあ、どうやって、」
「おばあちゃんがね、襲われたのよ。襲われたなんて生易しいものじゃないわね、殺されかけたの。お腹にぐさり。今でも跡が残ってるわ」

わたしを殺せば真撰組は内から崩れるという、見当違いの目論みからわたしは刺された。死んだと思った。あのひとが駆け寄ってくるのが見えた。死ぬなと言われた。好きだと言われた。やっぱりわたしは死んだのだと思った。死んで、魂が都合の良い夢を見ているだけだと。

「でも、夢じゃなかったんでしょう?」
「そうよ。起きたら病院だった。おばあちゃんは真っ白いベッドに寝かされていて、あのひとはベッドのわきの座り心地の悪そうなパイプイスに座って言ったの、おばあちゃんが、わたしが好きだって」

わたしは女だった。どこまでもただの女で、あのひとに好きだと言われて、泣きながら手を伸ばしてしまったのだ。誓いのことなど、構うものかと思ってしまった。あのひとの腕の中は暖かくて、あのひとの香りがした。煙草の匂いだということは覚えているのに、わたしの衰えた脳みそはそれを再現してはくれない。

「迷い込んでから3年、確かに3年いたはずなの。でも、わたしは自転車をかっ飛ばした日の夜、戻ってきたのよ、自分の部屋のベッドに。たった一日行方不明になっただけで、あんまりにもあっさりしすぎて、笑っちゃったわ」
「こっちに帰ってきたとき、向こうではなにをしてたの?」
「あのひとと一緒に縁側で涼んでたわ、梅の花を見ながら。じゃんけんで負けたあのひとが渋々お茶を汲みに行っている間足をぶらぶらさせていたら…あなたもよくやるでしょう?そしたら、ベッドよ」
「おばあちゃん、手が」
「いいのよ。いつもなの。おばあちゃんはね、あんなに大好きだったひとのことを、もうほとんど覚えていないの。顔だって、声だって。だからよ、あの頃のわたしが、おばあちゃんに怒ってるんだわ。なに忘れてるのって。あんなに大好きだったあのひとをって」

わたしの手を握ったままの少女の目から、ぽろ、ときれいな涙が零れていた。なんてやさしい子だろうか。この子は、わたしのために泣いているのだ。

「おばあちゃんは、今でもそのひとが好き?」
「…好きよ。ずっと、ずっと好き。ほかのなにを忘れても、これだけは忘れないわ」
「だから、結婚しないの?」
「わたしの恋人は、あのひとだけだもの」

そう言ってふと中庭を見ると、梅の花が咲いていた。部屋に飾ろうと思った。一番大きな蕾のある枝を手折って、机の上に置いたらきっと綺麗だ。花瓶に挿すのは、あまり好みではないので。



わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

(092/二条院讃岐)

20120223

干潮であっても見えない沖の石のように誰も知らないけれど、わたしの袖はいつもあのひとを想う涙で濡れて、乾く暇もありません



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