31文字企画 | ナノ

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あいつが随分気に入っていた、屯所の梅の花が咲いていた。下の方の花が2、3個、赤とも桃とも白とも言えない色に変わっている。思わず舌打ちをした。梅の花は昔から嫌いだ。良い思い出が一つもない。まず、このなんとも言いようのない色が、なんとも言いようがなく気に食わない。赤なら赤、桃なら桃、白なら白ではっきりしろと思う。あいつ風に言えば俺は、何でもかんでも白黒つけたがるクソ囲碁野郎、なのだ。だが、言っておくが、俺は囲碁よりオセロ派である。

一番大きい蕾のある枝を一つ手折った。剥き出しになった細枝の切り口を無視して靴を脱いで縁側に上がり、奥に通じる廊下を歩く。途中通った総悟の部屋から聞こえた怪しげな物音は気にしたら負けだ。これもあいつが言っていた。普段は、非生産的なことをするために生まれてきたのかと言うほど余計なことしかしていなかったが、たまには為になることも言うのだ、あいつは。でもだいたいは鬱陶しいだけだった。決めるとこは決めるとか、やるときゃやるとかそういう要素は全く持ち合わせていない上に持ち合わせる気すらない。断じて。あいつはそういうやつだ。
中庭からしばらく歩いて、ようやく龍襖の部屋に着いた。その名の通り襖一面に龍の水墨画が描かれたそれは正直趣味が悪すぎると思うが、松平のとっつぁんの特注品である。黙っているしかない。模様の割りには地味な取っ手に指をかけて静かに襖を開ける。指が情けなく震えているのが分かった。俺はいつもそうだ。龍襖を開ける度に、この部屋に入るための通過儀礼かのように言いようのない恐ろしさで手が震えるのだ。何に怯えているのかは正確には分からない。何より、この世に総悟の笑顔のほかより恐ろしいものがあるとも思えないし、事実そうである。そうして俺はいつも震えながら、相も変わらず殺風景な、誰もいない部屋に安心し、落胆するのである。誰もいなくて良かったが、でも、誰もいなかった、と。箪笥もベッドも机も全部あるのに、それを使うべき人がいない、と。必要最低限度の家具だけがここにはある、だけだ。もう長いこと使われてはいない。本当に、ただそこにあるだけなのだ。女中がマメに掃除をしてくれているのか、埃を株っているわけでもなく、朽ちているわけでもなく。おまけに、中身もきちんと詰まっている。妙な気分だ。煙草を切らした時のそれに似ていた。行き場の無い苛立ちである。苛立ちをぶつける相手がいないのだから、どうしようもない。
いっそのこと、山崎あたりが潜んでくれていたらどんなに楽だろうと思う。今この瞬間に、押し入れをぶち破ってやあ副長、なんて言ってくれればそれはそれで腹が立って山崎をぶちのめすだろうが救いにはなる。誰かがいた部屋が誰もいなくなるほど虚しいものはない。それが喧しいやつなら尚更だ。この部屋の完全な静寂は、俺にはあんまりにも煩さすぎる。

八畳間の中央に置かれた机の上に、ついさっき折ったばかりの梅を置いた。あいつは花瓶というやつが嫌いだったから、こうして置くのが一番良いのだ。水の無い梅は咲く前に枯れてしまうかもしれないが、それはそれで、この部屋の前にでも埋めようと思った。あいつならきっとそうするだろう。この部屋からあいつの匂いはとうの昔に消え去ったが、俺は多分、辛うじて覚えている。人は匂いから忘れていくらしいと聞いて、毎晩思い出してから寝るようにしているのだ。自分でもそれを始めたときはかなりやばいと思ったが、総悟に知られでもしたら鳥肌ものである。だが俺はやめる気はない。あいつを忘れるよりはよっぽどましだ。こうしてふいにここに来てしまうのも、そういう意識からなのだ、と思う。指の震えは止まらない。

俺はきっと、あいつとの思い出に怯えている。いつか忘れてしまうと分かっている、思い出に怯えている。もうあいつは忘れているかもしれない、思い出に。もともと違う世界から迷子になってきたやつだ、迷子は親の所に帰るもので、それが親ではなく世界だろうが変わりは無い。だから、俺が馬鹿だったのだ。先が見えている恋なんてするべきじゃなかった。人間とゴリラは愛し合えないように、俺とあいつもそうだったのを、気付いていたはずだ。身分違いの恋ならまだ希望はあるかもしれないが、世界違いの恋なんてふざけたもんは聞いたことも無い。ひどい片想いである。いい歳になって、こんなひどい片想いをするはめになるとは思わなかった。俺が更に歳を食って、あいつの匂いやら声やら姿形やらを覚えていられなくなっても、見えない相手に一生焦がれるのかと思うと頭が痛い。はっきり言って勘弁して欲しい。もう、俺達が二人で幸せになれないのは分かった。もう充分分かったから、俺は、あいつを忘れてしまう前に、一目、会いたかった。

ぽつぽつと机に水滴が落ちていた。それを見て、ああ俺は泣いているかもしれないと思った。消えた女の部屋の真ん中で泣く男とか怖すぎんだろと笑ったが、よく考えると、消えた女の部屋の真ん中で泣きながら笑う男はもっと怖い。けれど、涙を拭こうとは思わない。涙を拭かないことが、あいつへの礼儀である気がした。そうしてぼたぼたと落ちる涙は机の上に置いた梅を濡らした。ちょっと塩分が入っているだけだ。水代わりに丁度良い。どうせ梅は向こうの世界にもあるのだろうから、俺の代わりに、この涙が会いに行ってやれればいいのだと思った。この涙が会いに行って、それからあいつの姿を焼き付けて、また俺の目の中に帰って来る。そうすれば、この震えも空虚も苛立ちも、全部、全部、止まるのか。もう手の届かない相手に別れすら告げられないままでいるのは、生き辛くて、しょうがないのだ。



今はただ 思ひたえなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな

(063/左京大夫道雅)

20120220


あなたに会えなくなった今、ただひとこと「あきらめるよ」と、直接伝えたいだけなのに



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