テキスト | ナノ

目が覚めると泣いていた。しかしそれ自体は別段変わったことではなく、アルミ製のパイプベッドの下にある、質の悪いティッシュ・ペーパー(これで鼻をかむと、鼻周りがトマト・ケチャップを塗りたくったかのように真っ赤になるのだった)の箱を引っつかむと、それを数枚引き抜いて顔を拭った。嗚咽は出ない。鼻水も出ない。いつも涙だけが、待ちきれないとでもいうように溢れるのだ。「高橋石油」と書かれたラベルが半分剥がれかかった安物のそれはもちろん、そのためだけに置いてある。涙を拭くためのものは、幾分質量を増してもごわつくそれでなければならない。「それ」だけが事実であり、私の記憶であった。あるいは「それ」以外ならば、厚紙もカシミヤ・ティッシュも同等で、むしろ、カシミヤ・ティッシュのような柔らかい紙は濡れると肌に張り付く。そういう感触が、私は嫌いなのだ。四六時中四肢に纏わり付いている怠さは、私の内側の最も敏感だと思われる部分から来ているもので、今の私がどう足掻いてもその心地好い倦怠感は離れようとはしなかった。つまり、私のこころは未だに、彼女にひどく縛られている。


死ぬのが恐ろしいのだと言った。デニーズでチキン・サラダを啄みながら、左手は忙しなく自身の唇をなぞった。まるでなにかから逃れるように、彼女の愚かしいまでに真っ直ぐな目は何度も瞬かれた。

「死にたくない」
「それは、恐らくは、ほとんどのひとが思っている」
「違う。わたしはどうしても死にたくないの」
「それも、ほとんどのひとが思っている」
「ほとんどのひとって、どれくらい?」
「そのチキン・サラダに、ドレッシングをかけるひとくらいだ」

暫く黙って、やはり彼女は死にたくないのだと言った。それは、死にたくないではない、ほかに相応しい言葉を探して結局、死にたくないに帰着したふうに見えた。彼女は、言葉探しがすこぶる苦手なのだ。自分の中にある感情を、一切の推敲をせずに外界に吐き出そうとする。けれど、それはほとんど全ての割合でかたちに成らずに弾けてしまうのである。

デニーズで、チキン・サラダとドリンク・バーを心行くまで堪能したあと、私たちは歩いて中目黒のアパートへと向かった。それなりに綺麗で、そこそこに広い、住み慣れた私の部屋である。たったひとつの合鍵は、彼女が持っている。
冷えた体を温めようと、彼女とお揃いで買ったマグカップに、温かいエスプレッソ・コーヒーを注いだ。正しくは、彼女がお揃いで買った、のだが、茶渋を根こそぎ取っているときに割ってしまい、しょうがなく私がまた同じものを買ったのだった。彼女は「すんごい顔」と言ってくすくすと笑っていた。不愉快だった。それからしばらくして、細切れというわけではないけれど、ずいぶんと細かくなってしまった元・ペアマグカップはほとんど完全に修復されて、花瓶となっていた。あんなに細かいものを接着し直したのかと驚いたが、そうだ、私は彼女の、そういうところが気に入っていた。

「わたしね、三成の煎れてくれるエスプレッソが一番好きよ」
「そうか」
「だって、愛情を飲んでる気がするもの」

私が黙っていると、彼女は読みかけの本に栞を挟んだ。本に敬意を払っているらしい(と、少なくとも私は思っている)彼女は、読んでいたページをそのままテーブルに臥せて栞代わりにするなんてことは絶対にしない。だからか、彼女は常にいくつかの栞を持ち歩いていた。

「わたしが死んだら、とびきり美味しいエスプレッソを煎れてくれる?」
「…私より先に死ぬことは許さない」
「じゃあ、あの世で煎れてちょうだい。わたしの棺桶の中に、コーヒー・メーカーを入れておくから」
「やめろ。縁起でもない」

リビング・ルームの中央には黒いソファーがある。私が座っているそれだ。彼女は、そのソファーの、癖がついて少しばかりへこんでいる部分にぴったりと腰を降ろした。所謂、そこが彼女の「特等席」ということなのだろう。私という一人の孤独な人間の生活に、彼女はすんなりと入り込んでいるのである。「何を笑ってるの」「いや」それから私たちは、図々しくない程度の口づけを交わした。


彼女は新月に死んだ。月が出ていると、月に見られている気がして死に難いからだそうだ。私には分からない。きっと、彼女以外の誰にも分からない。「わたし以外の誰にもって、どのくらい?」と、彼女の声が聞こえた。「もちろん、チキン・サラダにドレッシングをかけて食べるひとくらいだ」私は答えた。私が出し得る、最善の答えだった。

気の毒そうな顔を無理矢理張り付けて慰めたふりをする人間は大嫌いだ。彼女が死んだ理由を私に求めようとする人間も。カシミヤのティッシュ・ペーパーの何倍も嫌いだ。彼女は、彼女にしか理解できない、彼女なりの、崇高な理由で死んだのだ。生前の彼女は言葉探しは滅法苦手だったけれど、意味探しは得意だった。どうして赤ん坊は泣きながら生まれるのかとか、なぜクリスピー・クリーム・ドーナツは雨の日に食べると美味しいのかとか、そういう類の答えの余りある問いを独りでに解決するのが好きだった。意味探しの得意ではない私は彼女の話を黙って聞いているか、その時々に相応しい相槌を打つかしかするべきことがなかったけれど、嫌では無かった。彼女の声は心地好いのだ。私が少しばかりうとうとしている間に、どうやら、クリスピー・クリーム・ドーナツだけは雨だろうが晴れだろうが嵐だろうが美味しいという結論に達したようなことも何度かあった。そしてその件は私も全面的に同意した。

「三成、大丈夫か」
「ああ」
「本当か、ちゃんと食べてるのか、また痩せたんじゃないのか、寝てないだろ」
「矢継ぎ早に言うな。煩い」

彼女が死んでから、忌ま忌ましい家康が以前にも増して頻繁にうちに来るようになっていた。おおよそいつも惣菜の入った大きなタッパーを持ってくる。この男は、愚かにも私が彼女の後を追うとでも思っているのだ。つくづく単純な男だ。だから私は未だに、彼女がこの男を「私の友達」としていたく気に入っていた理由の端すら分からない。彼女に言わせて見れば、私には家康が必要だそうだが、それを言うなら彼女の方がよっぽど必要だったのだ。例えば、デニーズのチキン・サラダにかけるドレッシングくらい。

「良いか家康、良く聞け。私はあれの後追いなどしない」

キッチンで持参した惣菜を小分けにしていた家康が振り向いて、真摯な目がじっと私を見た。

「あれは死んでいないらしい」
「……どういう、」

鍋を突くときだけ使っていた青い菜箸を片手に、家康はずいぶんと気の抜けた顔をしていた。私は座っていたソファーから腰を上げて、一番上にステレオの置いてあるステンレス・ラックから一通の封筒を取り出した。宛名も差出人の名前も書かれていない、ただの封筒である。

「読んでみろ」

彼女の残した手紙は、彼女らしい、簡素なものだった。それがベッド・サイドに置かれていたところを見つけたのは、彼女が死んでから二日後のことだ。どこかのホーム・センターに行けば、50枚100円で売りさばかれているような、何の装飾も施されていない茶封筒に、紫陽花があしらわれた便箋が二枚。彼女のこころを表すには、それで充分のようだった。

「それ、遺書、か」
「遺書ではなく手紙だ。そう書いてある」

器用にも、家康は菜箸を手に持ったままそれを読んだ。そして恥ずかしがる様子もなく泣いた。少し前の自分もこうして読んだのだったと思い、私は何処かやる瀬ない気持ちになる。どれだけ彼女を愛していたとしても、所詮私も月並みな反応しかできないのだ。ならば愛さなければ良かったのかと言えば、そういうわけではない。彼女は私のためにこの手紙を書き、遺した。それだけで、私のこころはもう、満たされている。


三成へ

あなたは前にわたしに、自分より先に死ぬなと言ったのに、約束を破ってごめんなさい。でも、あなたはわたしのようにはならないで下さい。死んだり、生きるのを止めたりしないで、よぼよぼのおじいちゃんになるまで生きて下さい。事故死も許しません。そして、わたしは死んだけれど、そうは思わないでほしいです。わたしはただいなくなっただけで死んでいないと、思って下さい。生きていれば必ず死ななければならないけれど、死んでしまえば死ぬことはないのです。死という恐怖に怯えることはないのです。わたしは生きていないだけで、生きるのを止めてはいません。だから、わたしのお墓には何も供えなくとも構いません。ただ気が向いたら、わたしがいつも座っていたソファーの上に、クリスピー・クリーム・ドーナツを置いて下さい。我が儘をひとつ、チョコ・フレークがたくさんかかっているものが特に好ましいです。わたしがいなくなったあと、別の女の子をあそこに座らせる日がくるまで、チョコ・フレークがたっぷりのクリスピー・クリーム・ドーナツだけは、どうか、忘れないで下さい。

わたしにとって、生きることは少しばかりやさしすぎました。いつかこのやさしさを手放さなければならないときが来ると思えば、恐ろしくなりました。不死身だったら良いけれど、人間はどうしてもいつか死んでしまいます。そして悲しいことに、わたしもあなたも人間です。ただの"たましい"としてふわふわと浮かんでいるだけだったなら、わたしは死のうとは思わなかったのに、わたしたちは人間でした。
その上、わたしは幸せすぎました。わたしのような果報者は、地球をひっくり返してもわたしくらいだと思います。あなたの煎れてくれたちょっと熱めのコーヒーに、わたしの幸せがぎゅっと詰まっていました。あなたが好きでした。あなたといるときは、いつ死んでも悔いはないとさえ思っていました。本当よ。でも、一度あなたと離れると、わたしは死にたくないという気持ちでいっぱいになりました。身勝手なもので、死にたくないくせに、わたしはあなたにわたしの老いた姿を見せたくはありませんでした。きれいなままのわたしでいたかったのです。

つまりわたしは、生の延長にある死を恐れていました。死ぬことほど怖いものはありませんでした。しわしわのおばあちゃんになってもあなたは愛してくれると言ってくれたけど、わたしはそんな自分をあなたに見せたくなかったのです。どうか、馬鹿な女だと笑って下さい。自尊心と死への恐怖で死を選んだ、浅はかな女だと。だって、死ぬことが怖いから死んだなんて、ある意味、わたしの人生史上で最高に笑える話だと思わない?

最後になりますが、これは遺書らしいことを書いているわりに、遺書ではありません。そんな辛気臭いことはしたくないのです。これは、わたしがあなたに書く、最初で最後のラブ・レターです。おまけに、このラブ・レターを書いている最中もあなたが隣で珍しくうとうとしているので、わたしは今、すごくどきどきしています。なんだか、付き合いたての中学生みたいね。

あなたは月に似ているから、新月にいなくなろうと思います。あなたに見られながら死ぬのはちょっと恥ずかしいし、背徳感で生きてしまいそうだから。わたしは、あなたに死ぬなと言われれば生きてしまう、よわい女なのです。長い間、こんな女をあなたのそばに置いてくれてありがとう。そして今日は、きれいな新月です。さようなら。



死人と哲学

20120222



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